中世の頃から武蔵国として栄えた埼玉県秩父市が、今度は「ちちぶ乾杯共和国」の"建国"を果たしたことをご存じだろうか?
埼玉県の北西部、周囲を山々に囲われた秩父地域はもともと、日本酒やワインの産地としてよく知られている。江戸時代から続く造り酒屋を複数擁し、冷涼な気候を生かしてワインを醸造。さらには秩父の蒸留所が生み出すイチローズモルトが世界を席巻し、2017年にはクラフトビールのブルワリーまで登場した。
ほかにも焼酎やどぶろく、リキュールなど多様な酒が生産され、もはや秩父で飲めない酒はないと言っていい。これは全国でも稀だろう。「ちちぶ乾杯共和国」は、そんな秩父を新たな"酒の都"として大々的に売り出し、周知させるための取り組みなのだ。
■日本版DMOで秩父エリアの酒造メーカーが大集合
そもそも「ちちぶ乾杯共和国」とは何なのか? 仕掛け人である、秩父地域おもてなし観光公社に聞いた。
「秩父地域は主要なお酒がすべて造られている全国有数の酒処です。ところが、これまではそれぞれがバラバラに活動していたため、その持ち味を十分に生かせていませんでした。そこで地域の酒造メーカーをまとめ、お酒で町おこしをしていこうと、2019年に埼玉県の事業として立ち上げたのが『ちちぶ乾杯共和国』です。
具体的には、飲み歩きに使えるアプリの制作や、地酒の試飲ができる宿泊プランの造成、メディアへのPRなどが活動の中心になります」(秩父地域おもてなし観光公社事務局)
要は「ちちぶ乾杯共和国」とは、地域を酒の聖地としてリブランディングするためのキャッチフレーズのようなもの。一昨年(2019年)には西武秩父駅前に各酒造メーカーや県知事らが揃い、一斉に乾杯をする建国式典が実施されている。秩父地域おもてなし観光公社は秩父地域の観光業活性化を目的とする日本版DMO(観光地域づくり法人)として、このプロジェクトの舵取りを担っている。
「とりわけ『ちちぶ乾杯共和国パスポート』と題したアプリについては、住民だけでなく、秩父を離れた人や、秩父を知って好きになってくれた観光客の皆さんにとってのファンクラブ的なツールにしていきたいと考えています。コロナ禍でイベントの開催は困難な状況が続いていますが、将来的にはインバウンドの旅行者もここに取り込んでいきたいですね」(同事務局)
実際に「ちちぶ乾杯共和国パスポート」をダウンロードしてみると、確かに秩父一帯の観光名所や酒場の情報がわかりやすくまとめられている。これは飲み歩きの良き道標になりそうだ。
というわけで、実際に秩父の市街地を訪ねてみよう。
■江戸中期から続く秩父の銘酒が、他県で流通しないわけとは?
秩父の市街地へのアクセスは、主には西武線・西武秩父駅か秩父線・秩父駅のいずれかが玄関口となる。筆者の場合は西武線を使うことになるが、池袋駅から乗り換えなしで90分弱というのは実に便がいい。
まず訪れたのは、江戸中期からこの地で酒造りを続ける武甲酒造だ。創業は宝暦3年(1753)。趣のある建物は200年以上の歴史を持ち、国の有形文化財に指定されている。
代表銘柄は秩父では知らぬ者のいない「武甲正宗」。13代目の蔵元にあたるという、長谷川浩一社長に話を聞いた。
「この建物は今から200年以上前に、当蔵の8代目が数年かけて築いたものと伝えられ、古き良き秩父の面影を今日に伝えています。醸造もなるべく機械に頼らず、昔ながらの製法を大切にしているため、大手のような量産はできません。そのため『武甲正宗』は、正丸峠(蔵の北東、飯能市との境周辺)より先の地域にはまず流通しておらず、造った酒はほぼすべて、近隣で暮らしている皆さんに味わっていただいているんです」
確かに、「武甲正宗」は鑑評会などで輝かしい実績を多数残しながら、他の地域での知名度は決して高くない。これも地域での人気の高さゆえ、というわけだ。
ならば、まさに駆けつけ1杯にふさわしい。長谷川社長にショップの奥に設けられた試飲スペースにご案内いただき、いくつかの商品を味見させていただくことに。
「酒造りはとにかく水が命。武甲酒造がこれほど長く愛されてきたのも、秩父の名峰・武甲山から湧き出る伏流水があればこそです。敷地内の井戸から湧く、ミネラルをたっぷり含んだ中硬水は、酒に適度な旨味を醸(かも)す最高の名水ですよ」(長谷川社長)
その言葉の通り、無濾過純米原酒は米由来のふくよかな旨味を、本醸造原酒は力強いキレを、そしてにごり酒はまろやかな甘味を、存分に堪能させてくれる逸品であった。「武甲正宗」が県外に出回る前に消費されてしまうというのも、大いに納得である。
また、非接触で試飲できる"利き酒機"を導入しているのも、このご時世、観光客の側にとっても安心材料のひとつだろう。
なお、仕込みに使われている名水は、容器を持参すれば誰でも持ち帰ることができるほか、震災などの災害発生時には初期消火用水及び災害時飲料水として使えるように、秩父市の防災井戸として認定を受けているという。
つまり酒だけでなく安心感を地域に提供し続けてきた武甲酒造。長く愛されるのも当然かもしれない。
■街中のバルで秩父のクラフトビールを
地元の美味酒で喉の乾きを刺激されたところで、今度は秩父のビールを味わってみたい。
近年の国産クラフトビール・ブームは酒飲みなら誰もが体感するところで、全国各地に続々とマイクロブルワリーがオープンしている。秩父とて例外ではない。
市内の山間のエリアに「秩父麦酒」が誕生したのは、2017年のこと。その秩父麦酒のオフィシャル・タップルームとして注目されているのが、西武秩父駅から徒歩数分の場所にある「まほろバル」だ。
「もともとは自分もビール造りに関心を持っていました。そこで醸造を学ぶワークショップに参加してみたところ、現在の秩父麦酒のオーナーと出会ったんです。すでにまほろバルを経営していたこともあり、どうせなら醸造を向こうに任せ、自分は販売を担当することで、この地域でしっかりクラフトビールの文化を広めていこうと考えたんです」
そう語るのは、まほろバルのオーナー・坪内純二さんだ。前職はインテリアショップを運営する企業のウェブエンジニアだったという坪内さんだけに、計16個のビアタップが並ぶ店内は実に洒落ている。
ビールのメニューリストには、秩父麦酒の定番商品であるペールエールやIPAのほか、限定的に醸造されたレア物まで時期によりさまざまなラインナップが用意され、秩父ワインやイチローズモルト、各種カクテルまでひと通りの酒が楽しめる。また、地元ブランドの武州豚を使ったパテやソーセージ、つけダレに秩父麦酒を使った唐揚げなど、秩父ならではのフードも多数用意されている。
「あいにくのご時世ですが、街歩きのついでにビールやワインを1杯やりに、気軽に使ってもらえればうれしいですね」(坪内さん)
なお、写真からもわかるように、観光開発に熱心な秩父ではカウンターをビニールシートで区切るなど、感染症対策も万全。地元で造られたフレッシュなビールを、安心してご堪能いただきたい。
■豊潤な香り漂う秩父のワインでディナーを楽しむ
こうなると、本腰を入れて腹ごしらえをしたくなる。というわけで、続いては秩父で絶大な人気を誇るダイニングバー、「Creative kitchen CASTA」へ。
オーナーの深田昭彦さんが国道140号線沿いに現在の店を構えたのは2006年のことだが、秩父市内で最初に飲食店を開いたのは実に37年前になるという。シックな店内はカウンターにテーブル席、さらに広めの個室も完備され、毎日カップルからファミリーまで幅広い層がやって来る。
「食材は季節ごとの旬を意識しながらアレンジしていますが、常に考えているのは秩父のお酒といい感じにマリアージュするメニューであること。最近はとくにワインを飲まれるお客さんが増えているので、品質のいい海産物を仕入れて、カルパッチョやソテー、あるいはピザなどで召し上がっていただいています」(深田さん)
ちなみに秩父には今、1940年創業の秩父ワインと、2015年創業の兎田ワイナリーの2社があり、市内のレストランやバーで味わうことができる。
今回、深田さんの勧めでセレクトしたのは、兎田ワイナリーの「秩父ブラン 2018年 ウイスキー樽熟成」。秩父で栽培されたセイベル9110と甲斐ブラン、ふたつのぶどう品種で醸造された白ワインを、黒ビールとウイスキーが熟成されていた樽で寝かせた、手間も時間もふんだんにかけた1本だ。樽由来の熟成香をほのかに漂わせるアロマティックな仕上がりで、秩父の魅力をぎゅっと凝縮させたかのようである。
「最近はウイスキーを嗜(たしな)む若い方も多く見られます。イチローズモルトが話題になる前ならとても考えられなかったことで、これも時代ですよね。でも、かつては大人の酒という印象が強かったウイスキーが、こうしてカジュアルに飲まれるようになったのは、秩父の飲食店にとってもいいことだと思います」(深田さん)
秩父に精通した、明るい深田さんとのトークを肴にワインやウイスキーをいただけるのも、このCASTAの大きな魅力だろう。
■世界が注目するウイスキーの聖地。秩父は夜もスゴい!
さて。腹も満たされ、ワインの余韻を心地よく引きずりながら、秩父の夜もいよいよ佳境に。
秩父は実は、バーの街でもある。いや、むしろ秩父が本領を発揮するのはナイトシーンであると言っても過言ではないだろう。秩父駅付近は徒歩圏内に質の高いバーがいくつも点在し、バーホッピングがとにかく楽しい。お目当てはなんといってもイチローズモルトだ。
イチローズモルトは、2004年に秩父市内に誕生した株式会社ベンチャーウイスキーが生産するウイスキーである。日本のウイスキー市場が冷え込んでいた時期から、世界の権威あるコンペティションを総なめにした、今日のジャパニーズウイスキー・ブームの重要な立役者だ。
まず扉を叩いたのは、西武秩父駅と秩父駅の中間あたりに位置するバー「スノッブ」。最初に目を引くのはその外観である。
一見ではバーとは思えないモダンレトロな建物は、大正15年に建築された「旧大月旅館別館」を転用したもの。登録有形文化財の指定を受ける貴重な建物が、こうして飲食店に転用されるのは全国でも珍しいのではないか。
オーナーバーテンダーの新井正和さんによれば、「先代のオーナーからこの店を引き継いだのが16年前。私自身のキャリアは25年になります」とのこと。今や新井さんは、秩父を代表するバーテンダーの1人だ。
やはりというか、さすがというか、カウンターには驚くほど多くのイチローズモルトのボトルが林立して思わず息を呑む。都内のバーでもたまに見かける定番商品もあれば、とっくの昔に完売した希少品、あるいは何らかのイベントに合わせて瓶詰めされたレアボトルなど、他の地域ではまずお目にかかれない圧巻の光景だ。
「秩父の店舗だからといって、特別に卸していただけるわけではありません。イチローズモルトは地域にとって誇るべきウイスキーですし、これを楽しみにわざわざ海外から来られるお客様も大勢いらっしゃいますから、新商品が登場するたびに、入手に全力を尽くしているだけのことなんですよ」
新井さんはそう言ってクールに微笑むが、それにしても......な品揃え。2年ほど前、イチローズモルトの「カード」シリーズ全54本のフルセットが、香港のオークションで約1億円もの高値で落札されたことを思えば、文字通り宝の山である。
大半が入手困難商品であることから、1ショットで2000~3000円の高値が付くものも多い。ウイスキー初心者は、好みと予算を伝えて相談するのがいいだろう。イチローズモルト以外のウイスキーも豊富に取り揃えられているので、洋酒との一期一会が楽しめるはずだ。
■本場スコットランドのバーが秩父に進出
最後の最後にもう1軒。西武秩父駅から徒歩10分ほどの場所に、2年前にオープンしたばかりの「ハイランダーイン秩父」に立ち寄った。こちらは築100年の古民家を改装したパブという触れ込みだが、その実、スコットランドに本店を持つ本格派のバーである。
きらびやかなバックバーとカウンターのほか、座敷風の小上がりなど古民家の特徴を生かしてリノベーションされているのが面白い。この日はバーテンダーの岩﨑光太郎さんが対応してくれた。
「ハイランダーインの本店はスコットランドの北東部、スペイサイド地方にあります。私はもともと東京でバーテンダーをやっていたのですが、休暇でたまたま現地を訪れた際に、本店のオーナーから誘われ、この秩父でお世話になることになりました」(岩崎さん)
では、なぜ本場のバーが秩父に進出したのか。鍵を握るのはやっぱりイチローズモルトだった。
「秩父店のオーナーの1人がベンチャーウイスキーのスタッフで、さらにその前職がイギリス本店のスタッフでもあったということがひとつ。それから、イチローズモルトの蒸留所を訪ねて世界中からやって来る人々が、気軽に飲める場所を作りたかったことが、秩父出店の理由です。実際、秩父はインバウンドの観光客だけでなく、本場の造り手が多く集まる場所ですからね」
ここ最近はコロナ禍で海外からの来客は途絶えているものの、古民家とオーセンティックバーが融合した内装は、インバウンド需要を大いに刺激するだろう。
「平日も毎日15時から店を開けています。地元の皆さんがふらりとやって来ることも多いですし、最近は国内の観光客の方も増えてきました。長引くコロナ禍で思い通りにいかないこともありますが、地方経済が自走していく上で、やはり観光の力は大切だと思います。とくに、秩父のようなウイスキーのある街に、こうして昼から飲めるパブの存在は重要でしょう」
酒は場作りに貢献する。地域活性化のためには有機的なコミュニティが不可欠であり、酒を酌み交わしながら語らえるパブは、その機能として申し分ないだろう。それはまさしく、「ちちぶ乾杯共和国」の理念と一致する。
ここで取り上げたのは、まだまだ秩父のごく一角に過ぎない。しかし、飲んだくれの聖地となりつつある秩父のポテンシャルは、存分に伝わったのではないだろうか。次の週末にでも、ぜひ思い思いの酒旅を味わってほしい。