エジプトに心を奪われ、翻弄され、人生を捧げた日本人がいる。日本人客専門の観光会社「バヒ・トラベルエージェンシー」を経営する中野正道(なかの・まさみち)だ。
1983年にエジプトへ渡り、テロや革命で観光客が激減するたび、業界の復興に尽力。しかし創業40年を目前に、中野は大きな決断をすることに――。
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■中野は血相を変えてテロ現場へ飛んだ
バヒ・トラベルエージェンシーがエジプト観光業界を代表する企業に成長し、絶頂期を迎えていた1997年11月17日、南部の観光地ルクソールでその事件は起きた。
古代エジプトのファラオたちの岩窟墓群が広がる「王家の谷」近くのハトシェプスト女王葬祭殿。この人気スポットに、カラシニコフ銃で武装したイスラム原理主義のテロリスト6人が現れ、外国人観光客約200人に襲いかかった。日本人10人(観光客9人、添乗員ひとり)を含む62人が死亡、85人が負傷。死亡した日本人観光客9人全員が、バヒ社の顧客だった。
首都カイロの本社にいた中野正道は、血相を変えてカイロ空港から現地に飛んだ。ルクソール空港まで小型旅客機で1時間余り。遺体収容所となった病院に着くと、日本人の遺体はすでにカイロに搬送されていたが、ドイツ人とスイス人の男女約20体が検死後の全裸姿で一室に並べられていた。
多くは額に一発の小さな銃創があり、のどを切り裂かれていた。頭を返すと、銃創は無残に広がり、脳みそごと吹っ飛んでいる。のどの傷はカラシニコフの先端に装着した銃剣でトドメを刺したものらしい。
中野はカイロにとんぼ返りし、日本人の遺体と対面した。当時の衝撃をこう振り返る。
「現場に突入してきたテロリストたちに、最初に遭遇したのが日本人グループでした。先頭にいたのが日本側代理店の女性添乗員さんで、出合い頭(がしら)に撃たれたようです。30cm程度の近さで顔面に発射された銃弾の威力はすさまじく、むごすぎる姿になっていました。あまりにも突然で、彼女は恐怖を感じる間もなかったのではないでしょうか」
2日後の深夜、日本から到着した遺族たちをカイロ空港に出迎え、遺体と対面してもらった。ほとんどが新婚旅行客。カップルたちの変わり果てた姿に、遺族は押し黙り、泣き崩れるしかなかった。
翌朝、現場に案内すると、血だまりはすべてきれいに洗い流され、何事もなかったかのように観光を楽しむ人々の姿があった。日常が早くも戻るなか、壁や柱に残った弾痕に、遺族たちは胸が張り裂ける思いがした。
「全員がうちのお客さまですから、とにかくつらかった。付き添いながら身を切られる思いがして、いたたまれませんでした。ご遺体とご遺族を日本に送り返すまで、無心にお世話させていただくことだけが救いでした」
1952年生まれの中野は大学時代、「人間とは何か」と思い悩み、「時代遅れ」と揶揄(やゆ)されながらも倫理学を専攻。
卒業後は、「世間のレールに乗って予定調和に生きるなんて......」と勤め人になることを嫌い、東京・国立(くにたち)の実家を出て池袋にアパートを借り、「プー太郎生活」を始める。近くにあったオペラ制作団体に出入りするうち、裏方を手伝い始め、夢中になった。
それから数年がたったある日、世界を放浪していた高校時代の友人Sから連絡があった。カイロでバヒ・ゴハリという男と出会い、彼が起業する観光会社を手伝うという。「中野も一緒にやらないか」と誘われた。
サダト大統領が第4次中東戦争の戦勝記念軍事パレードの観閲中に銃撃隊に暗殺された2年後の、83年9月。30歳目前だった中野は「世界の火薬庫」へと軽やかに飛んだ。
「オペラや書物にどっぷり漬かっていたので、ちょっと外に出て現実の世界に身をさらしてみようと。まあ、3ヵ月ぐらいのつもりでしたが」
バヒは64年東京五輪のエジプト水球チームのメンバーだった。その縁で日本びいきとなり、会社を「日本人客専門」とした。中野はその創業メンバー7人のひとりとなったのだ。
ナイル川沿いに栄えた古代文明の遺跡群を中心に、7000年の悠久の歴史が息づくエジプト。人類最高の秘宝といわれるツタンカーメンの「黄金のマスク」、古代エジプト人たちの絢爛(けんらん)なドラマを伝えるヒエログリフ(象形文字)、さらに――。
「バヒ本社から車で45分も走れば、朝日に浮かび、夕日に映えるスフィンクスと三大ピラミッドが、夢のような姿でギザの砂漠に聳(そび)え立っているんです」
中野はガイドとして遺跡を巡るうち、「世界文明発祥の地」のとりことなっていった。
気づけば3年の時が過ぎ、自分を誘ったSは結婚を理由に退社し日本に帰国。中野は誠実な人柄を信頼され、バヒ社のナンバー2として経営のかじ取りを任されることになった。
当時、日本は世界第2位の経済大国。85年プラザ合意後の円高も追い風となって、日本人観光客はうなぎ上りに増えた。バヒ社は日本の大手旅行会社のツアー客を引き受けることで飛躍的に成長し、日本政府・大使館の外交行事、NHK、TBSなどの番組制作、早稲田大学の発掘・研究などを裏方で支えた。
90年代後半には、年間10万人弱まで増えた日本人客の7割を扱い、社員は250人(契約ガイド含む)へと拡大。会社の規模はエジプトの観光会社全200社の第4位になっていた。
■「顧客ゼロ」でも社員の給料を全額保証
そこにルクソールの悲劇が襲いかかったのだった。
日本の外務省はエジプト渡航の危険度を4段階の「1」から「2」に上げた。バヒ社の約500組のツアー予約はすべてキャンセルされ、約1万人分の売り上げ見込みが一瞬で消えた。スタッフやガイドは恐怖とショックで多くが退社し、残ったのは約100人。46人いた日本人ガイドも40人が帰国した。
そこへ追い打ちをかけるようにHIS、阪急などの格安ツアーが勢いを増し、ハイ・クオリティ路線を固持するバヒ社の経営を圧迫した。
「エジプトに来て15年目でした。もはや日本に帰る選択肢はなく、ボクが辞めたら会社は持たない。ルクソール事件は人生最大の痛恨事でしたが、屈するわけにはいかない。バヒ社に残った人たちのためにも、仕事は絶対に守ってやるという思いでした」
バヒ社は「顧客ゼロ」の期間、社員の給料を全額保証し、研修や勉強会をしてしのいだ。1年後、危険度が「1」に戻り、日本人客が戻り始めた。日本に帰っていたガイドも、「また一緒に働きたい」と10人が戻ってきた。スタッフが一丸となり新たな一歩を踏み出したそのときを思い出すと、今も中野の胸には熱いものが込み上げる。
しかしその3年後、新たな危機がバヒ社を襲った。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件だ。
「遠いアメリカの事件だと思っていたら、実行犯グループのリーダー、モハメド・アタがエジプト人でした。これでまた雲行きが怪しくなった」
10月7日、米英中心の有志連合軍はアフガニスタンへの空爆を開始。約4000kmも離れているのに、外務省はエジプトの危険度を「2」に上げた。日本人観光客は再びピタッと止まった。
さらに11年1月には、「アラブの春」といわれる反政府運動がエジプトでも巻き起こった。ムバラク大統領の退陣を求める数十万人の群衆が連日、カイロのタハリール広場を埋め、警察・ムバラク支持派と激突。中野は、自分にとっては概念でしかなかった「革命」の渦中に今、身を置いていることに戦慄(せんりつ)し、催涙弾を浴びながらも広場に足を運び続けた。
「男たちは手に手に牛刀やナイフを握り締めていた。これはもう世の中が根こそぎにひっくり返ってしまうと直感し、鳥肌が立ちました」
1000人近い死者と6000人近い負傷者が出て、ムバラク大統領は退陣、軍事独裁政権が倒れた。エジプトの人々が求め続けていた民主的な社会が、やっと実現する......中野は高揚したが、翌年、初の文民大統領として当選したムルシーはイスラム主義の統治を始め、世俗派が強く反発。再び反政府デモが広がり、警察の対応が激化、銃を撃ち合う最悪の事態になった。
「銃弾が日常の生活空間に飛び交うという、日本ではありえない恐怖を骨の髄から感じました。ずっと家から出ることができず、軍がクーデターを起こして事態を鎮静化させたときには、ホッとさえしました」
だがその結果、シーシが大統領に就任し、軍事政権が復活。そのときふと、祖父のことが頭に浮かんだ。祖父・正剛(せいごう)は先の大戦期、硬骨の政治家として東條英機の軍事独裁に対峙(たいじ)し、自裁に追い込まれていた。内戦に至った隣国リビアやシリア、イエメンの「春」よりマシとはいえ、中野は底知れぬむなしさを覚えた。
この革命で危険度は三たび「2」に。「1」でなければツアーは出せない。バヒ社の顧客はまたゼロになった。
「欧米人や中国人、韓国人は、観光は自己責任という意識が強く、観光客がゼロ化することはまずありません。一方で日本の外務省は『危険度』はあくまで『参考の基準』と言いますが、日本の旅行会社はみな『右へ倣え』なのです」
エジプトでは毎年のようにテロ事件が散発的に発生している。そのたびに日本人観光客は、たとえ危険度が「1」のままでも激減するという。
こうして、10年のピーク時に13万人弱だった日本人客は、翌年の政変から減少し、16年には2万人弱にまで落ち込んだ。日本人客専門のバヒ社にはリスクを分散する方法がない。
中野はバヒ社の危機対策に取り組んだ後、業界のために動きだした。エジプトのイメージが致命的にダウンしている以上、業界全体でエジプト観光の魅力を底上げしなければならないと考えたのだ。
そして、業界の若いガイドたちを対象に、各地の遺跡を視察し研修する会を定期的に主催。その費用は全額、中野が負担した。
「バヒ社のベテランガイドたちに講師を頼み、遺跡の案内からもてなしの仕方までを指導してもらいました」
■「すべてやり切った」創業40年目の決断
中野はルクソール事件の頃から、こんな思いを抱くようになっていた。
「ボクはエジプトに金儲けに来たわけではない。子供もいないし、お金は妻とふたりで生活していけるだけあれば十分。あとは、いろんな人や文化との出会いをくれるエジプトに還元し、恩返しをしたい」
当時、日本の高校を卒業後、ピラミッドに憧れエジプトに来て、バヒ社でガイドをしている若者がいた。仕事熱心で、エジプト考古学を独学していた。ある夜、中野は彼を自宅に招き、こう言った。
「考古学をやりたければ、ぜひやってほしい。奨学金を出すから、大学で学んでみませんか。もちろん、卒業しても会社に縛りつけるつもりはありません」
若者のひた向きな姿に、往時の自分を重ねていた。ガイドとして連日遺跡を巡っていたころ、エジプト考古学の魅力に引き込まれ、本格的に大学で勉強したいと思ったが、果たせなかった。
「君には同じ後悔をしてほしくない。君ならきっと立派な学者になって、エジプトに貢献してくれるに違いない」
そして若者はエジプト最高峰のカイロ・アメリカン大学へ入学。ピラミッド研究の第一人者であるアメリカ人考古学者、マーク・レーナーの調査プロジェクトに参加した。現在、名古屋大学高等研究院准教授としてメディアでも活躍するエジプト考古学者の河江肖剰(かわえ・ゆきのり)である。
中野は河江に大学進学を勧めた際、河江が負い目を感じないですむよう、「会社が奨学金を出す」と説明していた。しかし実際は、その入学金、大学院も含めた5年間の学費は中野個人が全額負担した。河江はその心遣いの「うそ」を見抜いていた。
「中野ご夫妻は、今ではまれな篤志家であり、奥に本当に熱いものを持った方々でした。そして、それをおくびにも出さない。ご自宅にはいつも若いガイドたちが大勢来ていました。私もおふたりから、謙虚であること、質素であること、自然体であることなど、多くを学びました」
ほかにも中野は、日本企業のカイロ駐在員たちに向けた考古学者の講演会を開催したり、日本人クラシック音楽家のカイロ公演を開く一方、エジプトの若手音楽家の日本公演を主催したりと、両国の文化の橋渡しに尽力してきた。
しかし、テロ事件や革命が起こるたび懸命に生き抜いてきたバヒ社であっても、コロナによる打撃は異次元だった。欧米からは地中海や紅海のリゾート地などに観光客が戻ってきているが、日本人客は昨年3月、四たびゼロに転落したままで、先行きも見えない。
「この様子では、日本人がエジプトに戻ってくるのは早くても来年の秋。もうここが潮時......」
バヒ75歳、中野69歳。ふたりは創業40年目を迎える来春の廃業を決めた。
この先、社員たちの転職先を確保し、そこでの仕事ぶりを見届けた上で、再来年には日本に引き揚げるつもりだ。その日までは若いガイドたちのための視察・研修会を再開し、定期的に行ないたいという。
「エジプトのためにやれることは、すべてやり切りました」
●中野正道(なかの・まさみち)
1952年生まれ、東京都出身。慶應義塾大学卒業後、エジプトで起業された観光会社「バヒ・トラベルエージェンシー」の創業メンバーとなり、ナンバー2として経営を任される。高祖父は幕末期の外交官・田辺太一、曽祖父は明治~昭和期の社会思想家・三宅雪嶺、祖父は大戦期の政党総裁・中野正剛、父は社会思想家・中野泰雄。自身まで5代の全員がそれぞれの縁でエジプトに関わりを持っている。