今から50年前、沖縄はアメリカの統治下にあった。通貨はドルで、車は右側通行。訪れるにはパスポートが必要だった。その頃、沖縄に暮らす人たちは何を思っていたのか。
沖縄県石垣島出身の元WBA世界ライトフライ級チャンピオン・具志堅用高(ぐしけん・ようこう)氏に聞いた。
■八重山そばが最高に贅沢な食べ物!
――具志堅さんが小中学生の頃(1960年代)の石垣島は、どんな様子でした?
具志堅用高(以下、具志堅) 家の前が海だったから、毎日のように釣りをしてたね。それで僕が釣った魚をおふくろが料理してくれて食べてた。だから、魚は買ったことがないんじゃないかな。
野菜も畑を借りていろいろ作ってたし、庭でアヒルをたくさん飼ってて、僕はアヒルにエサをあげてたの。そして、お祝いのときにそのアヒルを食べていた。親が教えてくれるわけよ。「生きるためにはこういうこともしないといけないよ」って。
豚も1頭いてね、僕はいつもきれいに洗ってあげてた。そして、大きくなったら売りに行くの。あの時代は、生きるのに必死だったね。
7月頃になると農道にグアバがなるんだけど、それがおいしいのよ。農家の人は馬車で畑に行っていたなあ。道路も舗装されていなかったし、車もほとんど走っていなかった。車を持っているのは相当な金持ち。あと、瓶に入った牛乳を宅配で取っている人もお金持ちだった。「マリヤ牛乳」っていうんだけど、今もあるのかなあ。
――石垣島にはアメリカ人はいたんですか?
具志堅 いたけど、基地がないからそんなに多くはなかった。米軍の偉い人の別荘が島の西のほうにあったんだよね。それで、月に1回か2回食料を船で別荘の目の前の海まで運んでくるの。だから、そこをうろちょろしてるとたまにチューインガムとかをもらえたんだけど、僕はそういうことができなかったんだよねぇ。
――石垣島でもお金はやっぱりドルを使ってたんですか?
具志堅 そう。でも、1ドル札を手にしたことはないな。5セントとか10セントが多かった。中学生の頃にパイナップルの収穫のアルバイトをしたら、一日働いて25セントもらったの。うれしかったな。
当時、最高に贅沢(ぜいたく)な食べ物は八重山そば。細く切った豚肉がのってるやつね。近所に食堂があってね。八重山そばは15セントくらいだったかな。
――日本なのにドルを使ったり車が右側通行だったり、不思議に思いませんでしたか?
具志堅 思わないよ。だって、それが普通だったから。
でもね、中学生のときに、島のちょうちん行列に参加して「沖縄を日本に返せ!」とか「沖縄返還!」って声を張り上げながら、通りを歩いた記憶がある。毎年1回、沖縄の全島でそういう行列があったんじゃないかな。
当時、僕らは日本人じゃないと思ってたさ。国籍は日本だけど、ドルを使ってたり車が右側通行だったり、アメリカ式の生活をしていたからね。
――高校は沖縄本島に行ったんですよね。
具志堅 そう。興南(こうなん)高校(那覇市)に行ったの。石垣島から船で13時間。それまで沖縄本島に行ったことがなかったから、大都会すぎてびっくりしたよ。港に着くと目の前が国道58号線(メインストリート)で、米軍の車がバンバン走ってる。石垣島では3階建て以上のビルを見たことがなかったけど、那覇はそんなビルがたくさん立ってた。
那覇の港から嘉手納(かでな)基地に食料を積んだ車が毎日出ていくんだけど、アメリカ統治下だから、道路を走る車も米軍が優先だったね。
――高校では、ボクシング部に入部したんですよね。
具志堅 クラスの友人に「ボクシング部を見に行こうよ」って誘われて見に行ったの。でも、僕、ボクシングっていうスポーツを知らなかったのさ。だって、石垣島ではボクシングを見たことなかったからね。
それで、ボクシング部に入って最初に監督に言われた言葉が「ヤマトンチュ(本土の人)に負けんなよ」だった。返還前だし、沖縄は沖縄、本土は本土って、別の国って感じだったからね。
あのね、ボクシングって我慢比べなのよ。打たれたら痛いけど、それを我慢しなくちゃいけない。打たれて「痛い」とか「いやだ」と思う人はボクシングに向いてないよ。僕は石垣島でいろんなことにずっと耐えてきたから。我慢することは誰にも負けなかったのよ。石垣島が僕の原点なの。
――高校生活はどんな感じだったんですか?
具志堅 下宿先が銭湯だったんだけど「うち(銭湯)の手伝いをしながら、ボクシングを続けるんだったら下宿代をタダにするよ」って言われたから、銭湯の手伝いもボクシングも頑張ったよ。それで、親から仕送りしてもらっていた僕の下宿代はタダになった。親孝行でしょ。
■沖縄返還の4年後に世界王者になった!
――本土復帰のときは、どうでしたか?
具志堅 僕が高校2年生のとき(1972年)に、沖縄は日本に返還されたの。返還された5月15日はインターハイ(全国高等学校総合体育大会)の沖縄予選に出る前だったから、一生懸命ボクシングの練習をしてたな。それで、練習が終わって夕方からは銭湯の掃除をした。何か騒いでるなっていうのは、テレビを見て知ってたよ。
本土復帰がうれしいかうれしくないかは、当時高校生だったから、僕はよくわからない。復帰を喜んでいたのは大人だけだったよね。
でもね、大人たちは火炎瓶を投げたり、車に火をつけたり、毎日のように基地の周りでケンカしてるわけ。「土地を返せ!」とか「(アメリカに)帰れ!」って怒ってたの。
そりゃ、そうでしょ。米軍が自分たちの土地を取り上げて、そこに基地を造ったんだから。それに、基地の周りで兵隊が悪いことばっかりしてたからね。
返還で一番覚えているのは、僕らがインターハイの沖縄予選で優勝したとき、監督から「おまえらはパスポートを持たないで本土に試合しに行くんだぞ」って言われたこと。僕たちはパスポートなしで本土に行ける最初の学生だった。
それで、船で2泊3日かけて東京に行ったの。東京から、インターハイが開催される山形県までは夜行列車。
会場の酒田南高校に着くと、みんな話しかけてくるのよ。「英語しゃべれるの?」とか「君、本当に高校生?」とかって。僕らは、みんなゴツい顔をしてたから。でもね、それで「勝った」と思ったさ。相手が「沖縄の人と試合するの怖い」ってビビってたからね。だから、沖縄はボクシングが強かった。大会に出るといつも誰かが優勝してたよ。
――具志堅さんは、沖縄返還のすぐ後にプロデビューしたんですよね。
具志堅 1972年に沖縄が返還されて、74年にプロに入ったの。で、その2年後に世界チャンピオンになった。だから沖縄が発展していくときと、ちょうど一緒。
僕が高校を卒業して、プロ入りするために東京に出てきたときは、本土の人は沖縄の人とあまり口を聞いてくれなかったみたい。アパートも簡単に貸してくれなかったって聞いた。沖縄の人が住んでいるとアパートのイメージが悪くなるみたいだったの。
それで、僕が世界チャンピオンになったら、沖縄出身の人たちから「用高ありがとう!」って言われたのさ。沖縄って「比嘉」「大城」「上原」「金城」って同じ名字が多いから、みんな下の名前で呼ぶの。
県人会とかに行くと初めて会う人もたくさんいるんだけど、「仕事のときに今までしゃべったことのない人たちが寄ってきた」「本土の人が友達になろうって言ってくれた」「沖縄にはすごい人がいるな」って喜んでた。「用高が世界チャンピオンになって、胸を張って歩けるようになった」って言われてうれしかったな。
アパートも僕がチャンピオンになってからは借りやすくなったっていうし、就職活動もやりやすくなったらしいよ。
それ以降、沖縄が注目されて、新婚旅行の人気の行き先が九州から沖縄に移ったんだって。実は僕が防衛して実家に帰ったとき、飛行機の中の9割が新婚さんだったのよ。
そして、石垣空港から実家に着いたら、実家の前にたくさんのタクシーが並んでたの。よく見たらタクシーの運転手さんが新婚さんを連れて勝手に僕の実家の中に入ってるの。玄関に鍵はかけてないし、おふくろは新婚さんたちの対応をできないから、タクシーの運転手さんが勝手に家の中に入って写真を撮ってた(笑)。
――返還から50年たった今の沖縄をどう思いますか?
具志堅 沖縄本島は返還されてから大都会になったよね。今の国際通りのにぎわいなんてすごいもん。石垣島もたくさんの観光客が来るようになったしね。うれしいよ。
それに、今の沖縄の人たちは幸せだよ。だって、食べたいときに食べたいものが食べられるんだもん。
あのね、沖縄はお弁当が本土とちょっと違うのよ。お米が見えないくらいたくさんおかずがのってないとダメなの。昔は貧しかったから、たくさんおかずがのってないとお客さんが納得しないのさ。やっぱり、そういう名残があるんだと思う。
僕は沖縄の本土復帰とともに頑張ったから、今度は10代、20代の沖縄の人に頑張ってもらいたいなー。
★いっこく堂が語る、あの頃の沖縄「返還で大変だったのはドルが円に変わったこと。1ドル305円。小学校3年生くらいだと、すぐに計算ができないんです」
●具志堅用高(ぐしけん・ようこう)
1955年6月26日生まれ、沖縄県石垣島出身。元WBA世界ライトフライ級チャンピオン。連続防衛回数13回は、日本の歴代チャンピオンで最多。戦績は24戦23勝(15KO)1敗