今から50年前、沖縄はアメリカの統治下にあった。通貨はドルで、車は右側通行。訪れるにはパスポートが必要だった。その頃、沖縄に暮らす人たちは何を思っていたのか。
具志堅用高氏に続き、腹話術のいっこく堂に聞いた。
■コザ騒動で生活が大きく変わった!
――1972年の沖縄の本土復帰から50年が過ぎました。
いっこく堂(以下、いっこく) 早いですよね。僕の両親は沖縄出身ですが、仕事を求めて神奈川県に移り住んだときに僕は生まれました(1963年)。そして、5歳になった頃に家族で沖縄に戻ってきたんです。
子供の頃の記憶で覚えているのは、船に乗る前に注射(予防接種)を打たれたこと。当時はまだ外国だったからなんでしょうね。
沖縄にいて住む家が見つかるまでは、名護にある父親の実家に住んでました。ちょうど今やっているNHK朝の連続テレビ小説『ちむどんどん』に出てくるような沖縄の古い家です。まあ、あれよりももっと小さかったですけどね。
それで、当時の僕は新聞配達をする少年に憧れていて、家にある古新聞を集めて、朝5時くらいに起きて近所に配ってました。古新聞を配っていたのに怒られた記憶はないんですよね(笑)。
その後、引っ越した先はコザ(現・沖縄市)の「中の町」。歓楽街です。夜は酔っぱらいがたくさんいる、すごくにぎやかな町でした。そこでサンドウィッチショップを始めたんです。アメリカ人にも買ってもらいたいから、看板は「サンドイッチ」ではなく「サンドウィッチ」。
発音的にはすごくいいんですが、残念なことに英語じゃなくてカタカナで書いてあったので、いまいちアメリカ人には伝わらなかったようです。
一番のお客さんは、夜の街で働いている人たち。だから、夕方から始めて明け方までの夜通し営業。出前もたくさんあって、相当、繁盛していました。
ところが、僕が7歳になった頃(1970年12月20日)に「コザ騒動」が起きたんですよ。
【コザ騒動......米兵の運転する車がコザ市内の道を横断中の住民をはね、その事故処理をしていた米憲兵を見物人が取り囲んで騒ぎに。実は、その約3ヵ月前に飲酒運転をしていた米兵が主婦をひき殺した事件があり、米兵に無罪判決が下されていたため米兵への反感が高まっていたときだったのだ。すると、米憲兵は群衆に向かって威嚇射撃。それをきっかけに住民たちは米軍関係者の車を横転させ火をつけた。その日、80台ほどの車両が焼き払われたという】
沖縄の人が交通事故で亡くなっても、その裁判は米軍の基地の中で行なわれ、時として無罪になってしまう。こうしたことが度重なって、住民の不満が爆発したことで起こった暴動だったんです。
その日、僕は朝の6時頃、3歳上の兄貴に起こされました。「いっこく、戦争だぞ。来い!」って。そして、ついていったら沖縄の人たちが怒っていて、瓶とか石を投げているんです。その相手は日本の機動隊でした。
機動隊が盾を持って米兵を守っていたんです。アメリカ人が起こした事故なのに、日本人に怒っている。なんなんだろうなと思いながら、僕たちも石を投げました。
――返還前の沖縄の人のアメリカ人に対する感情って、どんな感じだったんですか?
いっこく 僕は子供だったから、わからないです。わからないけれども、中の町に住んでいる人はアメリカ人と親しかったです。だって、アメリカ人を相手に商売をしていたから。僕らはアメリカ人に対してなんの悪い感情も持っていませんでした。だって、お小遣いをくれるんですよ。1ドルとか。
あと、ハロウィンの前後1週間くらいは、周辺に住んでいるアメリカ人がチョコレートとか飴あめとかお菓子をくれるんですよ。だから、大きな袋を持って家を回って、たくさんもらってました。
「嘉手納カーニバル」というのもあって、そのときは基地のゲートが開いて誰でも中に入れるんです。そして、普通に歩いているだけでポップコーンがタダでもらえるんです。だから、僕にとっては、そういうイメージしかありません。
だけど、そうじゃない人もいるわけです。アメリカ人をうっとうしいと思う人も多かったと思いますよ。
コザ騒動があって米兵が夜に出歩かなくなり、中の町も人が少なくなって、うちの「サンドウィッチショップ」も潰(つぶ)れてしまいました。それで、お店を始めるときに借りたお金を返すために、父親はタンカーに乗って調理場の下働きをするようになりました。
母親は中華料理店でバス便がなくなる夜中まで働いて、朝始発で帰ってくるような生活をしていました。だから、夕食は兄とふたりで母が作り置きしてくれていた弁当を食べていましたね。
――沖縄返還のときはどうでした?
いっこく 返還は、僕が小学校3年生の5月です。そのときは「日本にはなりたくないね」って人と「日本になったほうがいいよ」という人がいましたね。
僕らは日本になる前に、日本政府からだと思いますが、ウルトラマンとかニコちゃんマークのついた下敷きとか筆箱とか、文房具をやたらもらった記憶があります。
返還で大変だったのは、ドルが円に変わったこと。1ドルが305円だったんです。だから、小学校3年生くらいだと、すぐに計算ができないんですよ。
一番かわいそうだったのが、おばあ。「まちやぐゎー」という、肉や野菜からお菓子までなんでも売ってるおばあがひとりで経営してるお店があるんです。おばあも計算ができなくてね。
50円とか100円って書いてあるものは、その値段で売ればいいんだけど、アメリカの商品がまだたくさん置いてあって、1ドル80セントとか書いてあるわけです。すると、日本円でいくらになるか計算できない。だから「180円でいいよー」とか言うわけです。それで損してたみたいです。
僕らの住んでいる町は「アメリカのときが良かったね」「なんで日本になったかねー」っていう人が多かった。これは、地域差があると思います。
――車も右側通行から左側通行に変わったんですよね。
いっこく いや、左側通行に変わったのは、返還6年後の1978年の7月30日です。中学3年生の頃で、みんなで見に行きましたよ。朝の5時50分にサイレンが鳴ると走行していた車が道路端に止まった。そして、ゆっくりと車線を変わって、6時のサイレンが鳴ると走り出していく。
でもね、やっぱり慣れていなかったせいで、最初の頃は接触事故が多発したそうです。
■『ドゥチュイムニイ』が沖縄人の気持ちを表してる
――返還後の気持ちは?
いっこく 中の町に住んでいたとき、真向かいに沖縄出身のフォークシンガー佐渡山豊さんが住んでいたんです。いや、そのときは住んでいたと思ったんですが、本当は1週間に1回くらい実家に戻ってきてたみたいでした。
それで、佐渡山さんがよく歌を歌っていたんですよ。その歌が、沖縄の移り変わりを歌った『ドゥチュイムニイ』という曲でした。ドゥチュイムニイというのは、「ひとり言」っていう意味です。
歌詞はウチナーグチ(沖縄の方言)なんですが、標準語に翻訳すると「僕が住んでいるのはコザで、中の町という所に家を借りてるんだけど、ちょっとだけ聞いてください。こんな男のひとり言を」という感じで始まって、この歌が復帰前後の沖縄の人の気持ちをうまく表現してると思うんです。
「ウチナーの言葉は、いい言葉だから残していこうよ。使おうよ」っていう歌詞があって、返還前から僕の通っていた小学校では「沖縄の言葉は使わないでください」って先生から言われてたんです。教室にも「方言はやめましょう」っていう張り紙がありました。
佐渡山さんの歌は、それに対する一種の抵抗なんです。
また、「中国の世から日本の世。日本の世からアメリカの世。アメリカの世からまた日本の世。目まぐるしく変わるよ、沖縄は」という歌詞もあります。これは沖縄の人の返還のときの気持ちを表したいい歌だと思います。
――日本に返還されることに対して何か思いはありましたか?
いっこく 神奈川県の寒川(さむかわ)から、沖縄に戻ってきた頃、近所の子供から「おまえは日本から来たんだろう」って石を投げられたことがありました。それでケンカになったんですが、その石を投げた子供は僕たちが標準語を使っていたことが気に食わなかったみたいです。「おまえたちは変な言葉をしゃべる」って言ってましたから。
沖縄で暮らしている子供たちは、沖縄人と日本人は違うという意識があったんだと思います。
ただ、大人はちょっと違っていて、僕らが親から聞いていた日本に対する印象は「沖縄の人は、日本の人にかなわんよ。日本の人は頭もいいし、色も白くてきれいだから」って、すごく劣等感を持っていましたね。
あと、言葉に関しては、すごくコンプレックスがあったみたいで、NHK朝の連続テレビ小説『ちゅらさん』(2001年)を見ていたときに、うちの親は「全国放送で沖縄の言葉を使って恥ずかしい」って言ってました。
そんな親の影響があったのか、高校を卒業して上京するときには「日本人に負けちゃいけない」っていう意識はありましたね。「内地の人にはなめられないぞ」って。
だから、人と話すときは頑張って標準語でしゃべってました。アクセントがおかしくならないように気をつけてました。でも、アクセントを頑張ってもたまに方言が出てしまうんです。
大学に行った友達は「10円ミーありますか?」って聞いたら通じなかったって言ってました。沖縄では10円玉のことを10円ミーって言うんです。そんな感じでいろいろ苦労した人は多いと思います。
――あらためて、沖縄返還50年について思うことはありますか?
いっこく 今、観光で来てくれる人がすごく多いのはうれしいです。それに沖縄に住みたいって言ってくれる人、沖縄を愛してくれる人が多くなってきているのもうれしいです。だからこそ、言葉だけでなく沖縄の文化全般をきちんと残していってほしいと思います。
●いっこく堂
1963年5月27日生まれ。神奈川県で生まれるが、5歳で沖縄に。沖縄県立北谷高校卒業後に上京し、独学で腹話術を習得。2000年、「世界腹話術フェスティバル」(米ラスベガス)でオープニングを飾る