20万人以上が亡くなった凄惨な地上戦、27年間の米軍統治、そして本土復帰後も続く米軍基地負担。そんな沖縄には、日本政府から多くの「補助」がなされてきたが、一部にはその存在が沖縄の自立を妨げているとの指摘もある。復帰50年を機に、この問題をいま一度検証してみたい。
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■沖縄の権益と国益がぶつかり合った返還期
今からちょうど50年前の1972年5月15日は、沖縄県民にとって忘れられない「復帰の日」である。
現在放映中のNHK朝ドラ『ちむどんどん』は沖縄の物語だが、それだけでなく、沖縄県内のメディアは3月頃から特別企画を次々と制作している。ただ、そこに醸し出されているムードは、お祝いというより50年間の〝ねぎらい〟といった雰囲気だ。
第2次世界大戦後27年間も米軍施政下に置かれていた沖縄が、72年に日本復帰するときには、単に「めでたしめでたし」では済まない多くの問題を抱えていた。
「琉球政府・市町村」の2層構造から「国・県・市町村」の3層構造への移行と整備、ドルから円への交換、基地従業員の大量解雇、企業の系列化や合併、交通法規の変更など、一朝一夕にはいかない課題が山積されていた。
そんな沖縄は、復帰したことでアメリカからの経済援助がなくなり、ほかの都道府県と同様に地方交付税などの補助金を受けることになった。ただしその際、さまざまな〝特殊事情〟に鑑み、総合的な「沖縄振興計画」が策定され、特別な措置や振興予算が組まれた。これが現在に至るまで続いているのだ。
今回その分析・検証をお願いした沖縄大学・沖縄国際大学特別研究員の宮田 裕氏は、東京の大学を卒業後、米軍占領下の琉球政府の職員となり、復帰2年前の70年5月に発足した日本政府の出先機関「沖縄・北方対策庁沖縄事務局」に出向した経歴を持つ。宮田氏は、復帰前後の沖縄をめぐる経済的問題をこう振り返る。
「琉球政府では通商産業部で外国資本の導入を担当しました。米軍統治下の沖縄には日本の外資法や石油政策が適用されなかったので、沖縄の権益を第一に優先していたわけです。
ところが突然、日本政府の出先機関に出向し、今度は視点を日本政府側に変えることが必需となった。しかし、すべては沖縄と本土の一体化のため。返還に備えて私は沖縄の情報を収集しては霞が関に送っていました」
沖縄には1960年前後に金融のバンク・オブ・アメリカ、合板製造のプライウッド、石油販売のカルテックスが続々と参入。さらに63年にはカイザー・セメントが琉球セメントに資本参加するなど、外資の導入が相次いだ。
さらに、日本復帰が決まった後も琉球政府は外資導入政策を打ち出したが、日本政府側は、沖縄が工業開発を急ぐあまり100パーセント外資を導入するのは日本の国益を損なうと主張し、国内企業の保護を名目に規制を強めた。
その結果、水面下で話が進んでいた米大手半導体メーカーのテキサス・インスツルメンツなど、世界企業の沖縄進出が規制によって阻まれたことが、後になって判明している。
「外資導入の議論は沖縄の権益と国益のぶつかり合いでした。その代わりということで、沖縄戦や米軍統治によって遅れてしまった沖縄経済に国が責任を持つとして沖縄振興計画が策定され、沖縄振興予算が組まれたのです」
通常、都道府県は自ら中央の各省庁にかけ合って各予算を取りにいく。しかし沖縄振興予算に限っては、まず内閣府沖縄担当部局が一括計上し、それから関係各省庁に移し替え、沖縄総合事務局の直轄事業、もしくは市町村の補助事業として実施される仕組みだ。
この振興予算をもとに、沖縄県内の公共事業には他県よりもはるかに優遇された国の負担率が適用されている。宮田氏が続ける。
「例えば予算100億円の公共事業があるとして、他県では半分から70%ほどを国が負担するが、沖縄の場合、復帰直後は全額、今も平均90%を国が負担する。
この振興策が沖縄経済の自立の障害要因になっているとの論調も一部にはありますが、現実問題として、もし今の時点で振興予算がなくなったら大変なことになる。まだまだこの高率補助がないと沖縄経済は成り立たないのに、それが弊害であると知識人が堂々と言っているのは問題です」
■振興予算は官邸主導の政治案件と化した
ただし、県内のマスコミ関係者は、この一括計上制度が沖縄県政に悪影響を与えてもいると指摘する。
「沖縄県の行政能力は率直に言って停滞しています。復帰から50年たっても他県と同じように自分の力で予算を取ってくることができず、〝ひもつき経済〟から脱却できていない。
特に、基地問題は予算獲得においても非常に扱いが微妙かつ重要な案件で、単に大声で反対だと言うばかりでは信頼関係がスパッと切れてしまうのですが、今に至るまで県側は内閣との折衝やすり合わせもまともにできていません。
ある内閣幹部に言わせれば、そういう意味で政府は沖縄を『まったく相手にしていない』状態です」
ただし逆から見れば、政府側はこの振興予算を一括計上する立場を最大限に利用して、沖縄に大きな圧力をかけているということでもある。宮田氏はこう言う。
「そもそも沖縄振興とは、沖縄戦や米軍統治、基地負担に対する『埋めることができない償い』として、初代沖縄開発庁長官の山中貞則氏が本土並みの発展を目指して立法化し、始まったものです。
ところが、2001年に沖縄開発庁が内閣府に統合されてからは、県政の基地移設問題に対する姿勢が予算額の〝査定基準〟となってしまっている現状がある。もはや沖縄振興予算は本来の原形が失われかけ、官邸主導の政治案件と化しているのです」
安倍晋三元首相は2013年、「21年度までは年間3000億円台の振興予算を確保する」と約束し、それは辛うじて守られた。
しかし、その〝期限〟が切れた2022年度の振興予算案は、10年ぶりに3000億円を割り、前年度比で約330億円減の約2680億円となる見込みだ。前出のマスコミ関係者が言う。
「これは明らかに、辺野古(へのこ)移転反対の玉城デニー県政への当てつけ。このままの状態が続けば、10年後には1000億カットされる可能性もある」
■基地工事の発注も半分は県外企業へ
また、予算の使われ方にも問題があると宮田氏は言う。
「本来、振興予算は沖縄経済自立の核となるべきですが、実際には公共事業費のうちかなり多くが本土のゼネコンへ流れている。まず本土のゼネコンに受注され、県内企業は下請け、孫請けというケースが多いんです。つまり、基地の負担を沖縄に押しつけておきながら、国民の血税をもとにした振興予算は実際には県内で循環していないということです。
私はこの構造的問題を『本土還流型』と指摘しています。例えば、基地関係の工事を担当する沖縄防衛局の管轄下では、1979~2019年度の発注額の約45%が対県外企業で、その総額は約4284億円に上ります。仮にこの金がすべて県内で循環していれば、さらに4156億円分の付加価値と、5万5000人以上の就業が誘発される効果があったと試算されているほどです。
この悪(あ)しき構造は、沖縄戦直後の米軍基地建設がベースとなっています。日本が敗戦を受け入れた後、米軍が『銃剣とブルドーザーで取り上げた土地』に基地を建設すると聞きつけた本土の建設企業が、すぐに沖縄に入り込み、膨大なドルの雨が本土に降り注いで日本経済の復興に大きく貢献した。つまり、沖縄を踏み台にして日本経済は世界に躍り出る第一歩を踏み出したともいえるのです」
歴代の沖縄総合事務局長は、沖縄企業が受注を増やせない理由として技術力やコスト競争力の問題を挙げているが、最近では県内のゼネコンも企業努力で高層ホテル建設など大型の民間事業を手掛けている。
それでも高い障壁となっているのが、公共事業に際して国が全国統一の基準として定めている「工事の品質確保」と「事務作業の効率化」の水準の高さだという。
「沖縄振興特別措置法という特別立法に基づいた公共事業なのだから、本来は沖縄の実態に合わせた想定の基準を採用するべきでしょう。
また、受注を受けた本土の大手ゼネコンの法人税が本社を置く都道府県に納税され、県内にまったくお金が落ちないのも大問題です。せめて県内にも本社を置いて、沖縄に納税させる仕組みを作るべきです」
■生産手段は衰退し、基地に依存する経済
日本政府が各国に多額の援助を行なっているODA(政府開発援助)は、本当に援助が必要な市民に届かず、現地に参入する日本の大企業の利益になっているとの批判がある。それになぞらえるなら、振興予算が本土資本にかっさらわれている現状は、さながら〝沖縄版ODA〟だ。
こうした公共事業の県外還流の問題も含め、宮田氏は沖縄経済の構造を根本的に見直す必要があると指摘する。
「戦後の米軍基地建設は沖縄の産業構造を根本的に変えてしまいました。第1次産業は米軍に土地を取り上げられたことで衰退し、一方で建設業や基地関連のサービス業などは雇用と購買力が増大した。
この50年間で約14兆円の振興事業費が投入されたにもかかわらず、復帰時よりも農林水産業と製造業の割合は著しく低下し、生産手段が失われ、極めて効率の悪いいびつな〝基地依存経済〟がつくり上げられたわけです。まずは今までの計画事案を根本的に見直し、プロジェクトごとに費用対効果の検証をするべきでしょう」
現実問題、平均所得や労働生産性、貧困率などの指標で、沖縄経済は全国の中でもかなり厳しい位置にいる。
「復帰50周年の今年からは新たな振興計画がスタートすることになりますが、振興予算額のカギを握る辺野古移設問題は非常に難しい。基地建設を中断すれば、政府にとっては会計監査の厳しい指摘事項になるし、さらに埋め立てた場所を原状回復せよとなったら、時間も経費もどれだけかかるのか。もう合意点がなく、政府が引き下がる可能性は低いかもしれない。
沖縄の精神論は重要だけど、それだけでは世の中、通らんでしょう。ロシアのウクライナ侵攻で国防意識が変わりつつあるなか、真っ向から戦ってばかりいても金がどんどん削られるだけで、しまいには沖縄経済がどうなってしまうのか......」
沖縄の自然を守りたいという気持ちは当然のことだが、このままでは「国に敗れて山河あり」になってしまいかねない。新たな振興計画が始まった今、将来を憂いて戦略を持って動かなければ、とても〝ちむどんどん〟どころではないのだ。
●松永多佳倫(まつなが・たかりん)
1968年生まれ、岐阜県出身。琉球大学法文学部卒業。2009年より沖縄に移住し、執筆活動を行なう。近著に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)。集英社文庫の沖縄復帰50周年アンソロジー作品『沖縄。人、海、多面体のストーリー』(森本浩平編、5月20日発売)に、豊見城高校・沖縄水産高校野球部元監督の栽弘義を描いたノンフィクション『背中の傷と差別』が収録されている