深海で訓練する海上自衛隊の飽和潜水士。この潜水法では理論上、最大で700m程度まで潜ることが可能とされている

北海道・知床半島沖で沈没した遊覧船、「KAZU Ⅰ(カズワン)」の船内捜索と引き揚げ準備作業を担った「飽和潜水士」。なぜ、水深100mを超す海底に潜ることができるのか? そして、危険な任務に対する報酬は? その知られざる世界を、元海上自衛隊の飽和潜水士が明かす。

■混合ガスで体をパンパンにする

深海で長時間の作業が可能となる飽和潜水。今回、その知られざる世界について解説してくれたのは、元・海上自衛隊の飽和潜水士で、現役時代の体験談をブログ『シズカ@飽和潜水アドバイザー』で発信する大城和志氏だ。

「飽和潜水を行なっているのは海自のほか、民間では『KAZU Ⅰ』の船内捜索に携わった日本サルヴェージと、アジア海洋の2社のみ。飽和潜水士の数は海自と民間を合わせて100名ほどしかいません」

その職務内容は海自と民間で異なるという。

「海自の飽和潜水部隊の最大の任務は潜水艦の救難で、KAZU Ⅰのケースと同じく、沈没事故などの際に船内捜索や人命救助に当たります。また、墜落事故で海に沈んだ航空機の残骸の撤去やフライトレコーダーの回収、さらには海自が訓練で発射した魚雷を回収する任務もあります。

民間は海自と同じく海難救助のほか、海底ケーブルの敷設工事、海外の海底油田や海底ガス田の開発に携わることもあると聞いています」

一般的なスキューバ潜水や海中で港湾工事を行なう「フーカー潜水」などは、深度40m程度が限界。飽和潜水はそれ以上の大深度潜水が可能で、2008年には海自の飽和潜水士が日本"最深"記録となる「水深450m」の潜水に成功したという。なぜ、そんなことが可能なのか?

「飽和潜水以外の潜水では呼吸に大気中と同じ空気が使われますが、40m以深ではそこに含まれる窒素が"毒"になります。水圧が高い深海では窒素が血液に溶け込みやすくなり、酒に酔ったように意識が朦朧(もうろう)とする『窒素酔い』が起きるからです。

また、浮上する際には体内にたまった窒素が気泡化し、血管を詰まらせる『減圧症』を引き起こす恐れもある。なので、飽和潜水では空気ではなく、ヘリウムガスと酸素の混合ガスを使います。これだと窒素酔いや減圧症が起きないんです」

実際に潜水する手順は?

「まず、船上にある『チャンバー』と呼ばれる密閉された加圧タンクに入り、体を深海の圧力に耐えられる状態にします。作業を行なう水深と同じ気圧になるまで(先述の)混合ガスを供給して、室内を加圧。

その時間は"水深が1m増すごとに1分"なので、水深100mまで潜る任務であれば約100分間、加圧することになります。こうして、窒素が入り込む余地がなくなるまで体を混合ガスでパンパン(飽和状態)にしてから海に潜る。これが飽和潜水と呼ばれる理由です」

元海上自衛隊の飽和潜水士、大城和志さん。水深100mの海に潜った経験があるが、それよりも過酷だったのは......

■「水深440m」の気圧で体が悲鳴を......

大城氏は、水深440mの環境を再現した加圧タンクに滞在する訓練を経験。3日間かけて加圧したというが、これが極めて過酷だったという。

「タンクに混合ガスが供給され始めると、最初のうちは圧力変化が大きいためか、室内がサウナのように暑くなります。入室後20~30分間はこの暑さとの闘いになりますが、それ以上にツラいというか、怖いのがヘリウムガスです。 

混合ガスは一時的にヘリウムガスと酸素に分離され、軽いヘリウムガスが室内の上部にたまっていく。そのとき、頭上に純度100%のヘリウムガスがかげろうのように揺らめいているのですが、人間は酸素を一切含まないガスを吸うと一息で意識が飛びます。

後に酸素とガスが完全に攪拌(かくはん)され、そのリスクは解消されるのですが、それまでは異常な暑さの中で頭をかがめながら、ヘリウムガスの吸引を回避しなければなりません」

さらに室内が加圧され、水深"200m級"になると体が「悲鳴を上げる」という。

「動くたびにピキッ、ピキッと関節痛のような痛みが肘や膝に走る。通常、関節の組織には気泡が含まれ、これがクッションの役割を果たしていますが、高圧下ではこの気泡が潰(つぶ)れ、関節の神経が圧迫される状態になるのです」

そして、水深400mと同じレベルに達すると......。

「目まいやふらつきを覚え、呼吸しづらくなります。ドロドロとした粘性のあるガスを吸っているような感覚になって気持ち悪くなり、深呼吸をするようにしっかりとガスを吸わないと息苦しくなる」

目まいや息苦しさは高圧状態に体が慣れれば次第になくなってくるのだという。

だが、大城氏がそれよりも「こたえた」というのは、狭い密閉空間に"監禁状態"となる精神的ストレスのほうだ。

「4畳半ほどのタンクに6名で寝食を共にしました。それだけでも息が詰まりそうですが、ダイバーや機器に異常がないか、室内の各所に設置されたカメラで24時間、モニタリングされます。一切自由がないという点では、刑務所と同じです」

こうした過酷な環境下での加圧が完了すれば、潜水スーツ、グローブ、ヘルメットなど、「総重量60㎏」にも及ぶ装備を着け、水中エレベーターで深海へと降下。海中に出て作業を行なうことになる。加圧タンクに滞在する訓練では潜水は伴わなかったが、大城氏は別の訓練で、水深100mでの海中作業を経験している。

その世界とは?

「太陽光が届かないので周りは真っ暗。漆黒の闇にライトを照らすと雪が降っているように見えました。これは『マリンスノー』と呼ばれる現象で、浮遊するプランクトンの死骸や排泄(はいせつ)物が雪のように見えるんです。あの光景は美しかった。

深海は水温10℃を下回る冷たさですが、スーツに装着されたバルブをひねれば、船上から給湯される40℃程度の温水でスーツの中が満たされ、お風呂に漬かったような状態になります。

潮流が速いと立っているのがやっとの状態になりますが、船とつながっているケーブルが命綱になるのでそれほど恐怖は感じません。加圧タンクは密閉空間で隊員6名と共同生活を送るという刑務所のような環境だったので、むしろ海底では心地よい解放感が味わえます」 

■高額な"特別手当"がモチベーション

海底での作業が終わった後はすぐに地上に戻れるかというと、そうではない。

「加圧状態の体でいきなり1気圧の地上に戻れば、おそらく血管が破裂して即死します。そうならないよう、再び船上のタンクに入ってゆっくりと減圧し、体を元の状態に戻していくんです。つまり、また刑務所のような環境に舞い戻る。

しかも、加圧は"1m1分"の早さでしたが、減圧は"1m1時間"と数十倍の時間がかかる。私が体験した水深440mの加圧状態からは、減圧完了まで約3週間かかりました」

減圧の際も、4畳半の空間で24時間監視されながらの共同生活を強いられることに。気晴らしはあったのか?

「テレビは設置されていて、地上と同じ番組を見られますが、チャンネル権は若手にはありませんでした。室内に通信環境はありますが、スマホは使用禁止です。

任務中に万が一、ダイバーの家族に不幸があり、その連絡が入っても、加圧状態にある体では外には出られないし、精神的に不安定となり任務に支障を来す恐れがあるからです。

娯楽といえば、外から差し入れされる雑誌です。(後述のように)飽和潜水の任務を完了すれば大金が入るので、クルマやバイクの雑誌が多かったのですが、たまに冷やかしでエロ本が届くこともありました。

でも、24時間監視状態にある室内では性欲を処理するチャンスがなく"生殺し状態"。今では笑い話ですが、現場ではこれも精神的にかなりツラかったです(苦笑)」

そんな過酷な環境に耐えられるのも、「任務を完了したときの達成感と、給料とは別にもらえる高額な"特別手当"がモチベーションになっているから」だ。

「深度400mを超える環境で訓練や作業を行なうと、時給は1万円を超えます。私の場合、440m想定の訓練に合計30日間従事した結果、370万円の俸給をいただきました。

民間の飽和潜水士の報酬はさらに高く、海外の海底油田の採掘に関わったダイバーの話では、日当で20万~30万円、数ヵ月間の実働で年収2000万円ほどを稼いだそうです」

一攫千金(いっかくせんきん)を夢見て、その過酷な世界に飛び込む人も多いという飽和潜水士。今後、志望者がドッと増えるかも?