6月7日、岸田文雄首相が「国民皆歯科健診」導入を検討すると発表した。年1回の歯科健診を国民全員に受けさせるというこの制度。なんだか唐突感があるけど、本当に意味があるものなの?
政治と歯科業界の微妙な関係を追うとともに、現役の歯科医師たちに本音を聞いた! ちなみに、週プレは義務化は「けっこうアリ」だと思っています!
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■「国民皆歯科健診」の利権の構造
政府が予算編成の指針とする「骨太の方針」が6月7日に閣議決定された。その中で、少し目立っていたのが「歯」に関する一文だ。「持続可能な社会保障制度の構築」との項目の中でこう記されている。
「生涯を通じた歯科健診(いわゆる国民皆歯科健診)の具体的な検討」(原文ママ)
現在は1歳半と3歳の乳幼児や小中高生のほか、塩酸や硫酸といった歯に有害な薬品などを仕事で扱う人に、歯科健診が義務づけられている。その対象を全国民に広げようというのが「国民皆歯科健診」だ。『「歯科」本音の治療がわかる本』(法研)の著者のひとりで、医療ジャーナリストの秋元秀俊氏がこう話す。
「一部の全国紙やNHKは『全国民に毎年の歯科健診を義務づける』といった表現で報道しましたが、事実ではありません。歯科健診が義務づけられるのは自治体や会社など健診を実施する側で、そのための財源を国が用意する、というのが政府の方針です。健診を受けるか受けないかの判断は、国民に委ねられることになると思います」
ただ、「骨太の方針」に国民皆歯科健診が盛り込まれたことには、どうにも唐突感がある。なぜ今、歯の健診が国策の目玉に据えられたのか?
「実は歯の健康をうたう項目は、安倍政権や菅政権の骨太の方針にも盛り込まれていました。自民党は昨年の衆議院選挙でも選挙公約に『生涯を通じた歯科健診の充実』と掲げていた。岸田政権はその実現に向けて『国民皆歯科健診』の文言を使って一歩踏み込んできたんです」
そこには、こんな政治的な背景があった。
「昨年、自民は『国民皆歯科健診を目指す議員連盟』を発足しました。その中心人物が7月の参議院選挙で再選を目指す山田 宏氏で、彼を強力に支援しているのが、日本歯科医師会を母体とする政治団体、日本歯科医師連盟(日歯連)です。山田氏は日歯連の組織代表候補として今回の参院選に臨んでいる。
ちなみに、山田氏が東京・杉並区長だった頃、杉並区歯科医師会の会長だったのが現在の日歯連の高橋英登会長で、ふたりは昵懇(じっこん)の仲です。
山田氏は、おそらく日歯連と日本歯科医師会のレクチャーを受けて国民皆歯科健診の導入に動いていた。そうすれば歯科界の組織票が取り込めますし、歯科界にとっても皆健診は巨大な利権になりますから、ウィンウィンです」
医療界には、日本医師会(医師会)という政治との結びつきが強い巨大な団体がある。医師会は内科や外科など医科の開業医の集合体だが、その医師会に比べ、日歯連や日本歯科医師会は国に冷遇されてきた。医療業界紙の記者がこう話す。
「歯科の診療報酬は医科より低く抑えられ、政治的な要望もなかなか聞き入れてもらえなかった。その理由は主にふたつ。ひとつ目は衆参共に歯科医師免許を持つ国会議員が少ないこと。ふたつ目は医師会の存在です。
『医師会がOKを出さないと医療は動かない』といわれるほど医師会の影響力は大きく、歯科の診療報酬も彼らが主導して決まります。
弱い立場にある歯科医師会にとって、歯科の診療報酬の引き上げや国民皆歯科健診の導入を強硬に主張して医師会と対立してしまえば、結果的に診療報酬に割く予算が減らされることになりかねない。それゆえ歯科医師会は目立つ形で国に要望することを避けていた節がありました」
しかし、コロナ禍でその潮目が変わったという。
「医師会は毎年、自民党に多額の献金をし、自民党にとっての最大の〝政治団体〟でしたが、医師会は政府のコロナ対策に否定的な発言を繰り返し、一方の政府はコロナ病床の提供に非協力的な医師会に不満を募らせ、両者の関係は完全に冷え込みました。
ここからは私の推測ですが、医師会の政治力が下がるなかで、相対的に浮かび上がってきたのが日本歯科医師会であり、日歯連だった。チャンスとばかりに日歯連に所属する国会議員が政権に近づき、国民皆歯科健診を骨太の方針にねじ込んだ。そんな経緯があるように思います」
■「歯の健康」は「全身の健康」
では、国民皆歯科健診は具体的にどのような形で実施されることになるのだろうか。
ヘルシーライフデンタルクリニック(東京・新橋)の手塚充樹院長が説明する。
「小中高生向けの学校健診では主に虫歯の有無を検査しますが、日本歯科医師会や日歯連は近年、『歯の健康が全身の健康につながる』ことを強調してきました。その代表例が歯周病で、歯周病を放置すればさまざまな疾病を誘発すると警鐘を鳴らしています。
なので、国民皆歯科健診では虫歯だけではなく、唾液検査などを用いるなど、なんらかの形で歯周病を検出するための項目が入ってくるはずです」
歯の健康が全身の健康につながるってのはどんな理屈?
「歯磨きが不十分な部分には、ネバネバとした黄白色の粘着物=歯垢(しこう)が付着します。歯垢は時間とともに量が増え、バイオフィルム(細菌の塊)に成熟し、その中で酸素を嫌う嫌気性細菌を繁殖させる。この菌が歯の周りから体に侵入しようとし、体はそれをやっつけようと攻撃します。これが歯周病の始まりで、出血や歯茎の腫れなどの炎症が起きる。
この状態を放っておくと、歯垢は歯周ポケットの中に潜入し、毒性の強い嫌気性の細菌が出血箇所から血管に入り込み、全身に回ってしまいます。実際、歯茎から血が出て約1分後、採血した前腕部の血液から口の中にしかいないはずの菌が出てくる、なんてケースもありました」
嫌気性細菌が血管を通して全身に回るとどうなるか。
「心臓に回れば心臓の内膜で炎症を起こし、動脈硬化になる恐れがあります。同じ理屈で細菌が脳に回れば脳梗塞や脳出血の原因になりうる。また、高齢者の場合、食べ物などと一緒に口の中の細菌を飲み込み、肺の中に細菌が入れば誤嚥(ごえん)性肺炎を発症するケースもあります。
さらに、糖尿病と歯周病には強い関連性があると指摘されています。歯周病の原因菌である嫌気性細菌が体内の各所で炎症を起こす火種となり、これが血糖値を下げるインスリンの働きを阻害することで、糖尿病を併発させたり、病態を悪化させたりするケースがあると報告されています」
大月デンタルケア(埼玉・富士見市)の大月 晃院長は「女性に特有のリスクもある」と話す。
「妊娠中の女性が歯周病に罹患(りかん)した場合、低体重児出産や早産のリスクが健康な人の7倍に上るという研究結果がある。口の中の嫌気性細菌が血中に入り、胎盤を通して胎児に直接感染するのではないかといわれています。
米国のある産科医が、胎児を流産させた母親の子宮から『不衛生な口と同じにおいがする』と感じ、調べてみたら、やはり母親自身の口腔内にいたものと同じ細菌が子宮から出た、という事例が報告されています」
感染症が専門の医療ジャーナリストで、歯科医でもある杉山正隆氏はこう続ける。
「口腔はいわば、体の上流部。琵琶湖の水が汚染されれば下流の水質も悪化するのと同じように、口腔内が不衛生だと、その毒素が体中に流れて重篤な疾病を引き起こす恐れがあります。
歯周病の原因になる歯垢や食べカスは、歯ブラシやデンタルフロスなどでのセルフケアでは完全に取り切れるものではありません。定期的に歯科医や歯科衛生士によるプロフェッショナルケアを施す必要があります」
杉山氏は、国民皆歯科健診の必要性を訴える。
「欧米人は歯が痛くならないよう、予防の意味合いで歯医者に行くのが普通ですが、日本人は歯が痛くなってから歯医者に行く人が大半。歯周病は軽度であれば痛みが少ないので、気づかずに放置してしまっている人が多い。
これは一般的にはあまり知られていないことですが、感染症の学会などで海外に行くと、外国の専門家や医師から『日本人は歯が汚い、口が臭い』とよくいじられるんですよ......実はこれ、外国人が日本人に抱いているイメージとしてけっこう定着しているんです。
現時点ではどのような健診内容になるかはわかりませんが、虫歯や歯周病を検査するなんらかの歯科健診制度が導入されることには賛成です」
ああ恐ろしや、歯周病! と思いきや、冒頭に登場した医療ジャーナリストの秋元氏は、歯科界の主張を「冷静に見る必要がある」と突き放す。
「歯周病が心筋梗塞や脳梗塞、早産や糖尿病の悪化につながった、という事例は確かにあります。ただ、歯周病になった人すべてがそうなるというわけではありません。
例えば心筋梗塞についていえば、一部の患者を調べてみたら、歯周病を罹患していた事例が何例か見つかったというレベルの話。歯周病が早産のリスクを高めるという研究結果については、それを否定する論文も出ています。
つまり、いずれの疾患も歯周病があるから併発したということを示す明確なエビデンスがなく、その因果関係はまだよくわかってないんです」
ということは「歯の健康が全身の健康につながる」という格言めいた言葉にも疑いの目を向けたほうがいい?
「そこまでは言えません。やはり糖尿病と歯周病には関連性があり、口の中の細菌がもたらす誤嚥性肺炎には確かな因果関係がある。高所得者も低所得者も、等しく虫歯や歯周病の検査を定期的に受けられる環境になるのであれば、国民皆歯科健診は有益なことです」
■がんばれ!歯医者さん!
30代以上は3人に2人が歯周病という歯周病大国・日本だが「虫歯」となると様相が違ってくるようだ。埼玉県にある歯科クリニックの院長はこう話す。
「日本人の虫歯の数は急速に減少しています。厚労省の統計では、12歳児のひとり平均の虫歯の数はこの20年で4.3本から0.84本に減りました。国内の歯科診療所の数は約6万8000軒とコンビニより多く、歯科医師も約11万人で増え続けており、供給過剰だから『歯科医を減らせ』との声が年々大きくなっています」
歯科の儲けは、あまり多くない。
「国から診療報酬が引き下げられ、今も低水準にあるためですが、初診料は医科の半分、利益率は10~15%と低く、医科の35%に遠く及びません。
苦境の歯科界が生き残りを図るために、業界として新たな〝食いぶち〟をつくることが必要でした。そのために歯周病の怖さに警鐘を鳴らし、国民皆歯科健診の必要性を訴え続けてきたという側面があったことは否定できません」
カネだけでなく、プライドの問題もある。前出の秋元氏がこう語る。
「『歯医者、眼医者が医者ならば、蝶々(ちょうちょう)、トンボも鳥のうち』という古い戯れ歌があります。それを歯科医自身が口ずさむのです。
それほど日本では歯科医の社会的なステイタスは相対的に低く、〝命にかかわらない医者〟であることに歯科医は少なからずコンプレックスを抱え、〝自分たちは医者なのか?〟という葛藤を持ち続けている。
だからこそ、ある種の反骨心から、歯は命にかかわるというロジックにこだわる傾向が強いと感じます。今では医療の役割は命よりも生活を支えることなんですけどね」
まだ検討段階ではあるが、もし国民皆歯科健診が実現したら、それは国民の歯と体の健康を守ってくれるものになるのだろうか?
前出の大月氏がこう話す。
「まず、国民皆健診が始まった後の良くないシナリオから言えば、年1回の歯科健診後、医師側が少しでも収入を増やそうと不必要な医療サービスを提供しかねないという点が懸念されます。『歯周病ですね、じゃあ切りましょう』とか、『虫歯もありますね、じゃあ削りましょう』とか、場合によってはより高額な自費治療に誘導したりする問題も考えられます。
ただ、そんな人はごく一部。ほとんどの歯医者が患者の健康を守りたいという思いを持っています。なので、全国民への歯科健診が実現すれば、虫歯や歯周病の早期発見で、さまざまな病気の予防に貢献するはずです。国民皆歯科健診が、歯が痛くなってからではなく、痛くならないように予防的に歯科へ通う人を増やすきっかけにもなるでしょう」
国民皆歯科健診、悪くないかもしれない。