5月15日、沖縄が日本に復帰してから51年目を迎えた。敗戦の代償として分割され、アメリカに統治されていた沖縄が返還されたこの日は、多くの日本人に「戦後の終わり」という一つの節目として印象づけられた。
ところが当時、沖縄はまだ動乱の中にあった。終戦に端を発した沖縄裏社会の抗争が続いていたからだ。日本復帰を挟んで沖縄が経験したもうひとつの「いくさ世(ゆ)」について、ジャーナリストの安藤海南男氏が解説する。
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■米軍統治下で台頭した沖縄ヤクザ
「沖縄ヤクザの源流はコザにある」。そう筆者に語ったのは、現役時代に長年、暴力団捜査に携わった沖縄県警の元刑事だ。
戦後、米軍の統治下に入った沖縄では、各地に「特飲街」と呼ばれる歓楽街が勃興した。朝鮮戦争、ベトナム戦争と血なまぐさい戦場へと赴く兵士を相手に、酒と女を提供する店が米軍の基地周辺に次々と姿を現したのである。
なかでも極東最大の米軍基地「嘉手納基地」を抱える「コザ」には、1950年代から始まった米軍認可の「Aサイン」の看板を掲げるバーやキャバレーが林立し、死の恐怖と不安から逃れようとする米兵と、明日をも知れぬ彼らがばらまくドルを狙う女たちの欲望がぶつかり合い、異様な熱気が生まれていた。
ここでいう「コザ」とは本島中部にかつて存在したコザ市のことを指す。いまでは沖縄市と呼称を変えたこの街に戦後、「モトシンカカランヌー」と「アシバ-」が集まった。
沖縄では、生きるために身を売る女性たちを方言で「元手がかからない」の意を示す「モトシンカカランヌー」と呼んだ。一方、そうした女性たちの影には、同じく方言で「アシバ-」と呼ばれる男たちもいた。「不良」とか「遊び人」というほどの意味だが、沖縄では、より広義の「アウトロー」の意味をも包含する。腕力と知力、胆力でのし上がった「沖縄ヤクザ」の源流もまた、「コザ」にあった。
「沖縄ヤクザは、江戸期から続く神社の境内や参道に縄張りを持つ『的屋』や『博徒』、沖仲仕などの港湾労働者の集団などをルーツに持つ内地(日本本土)の組織とは成り立ちがまったく異なる。組織化されていく背景には、戦後長らく、米軍の支配下にあったという沖縄の特異な歴史が深く関わっている」
そう語るのは、前出の県警OBである。戦後の沖縄では、困窮した地元住民たちによる米軍の物資の収奪が相次ぎ、そうした行為は、「戦果アギヤー」と呼ばれた。
米兵をだましたり、時にはグルになって基地内にある潤沢な物資を奪う。なかには警備兵に撃たれて命を落とす者もいたし、とらわれの身になる者もいた。命がけで支配者たる米軍に立ち向かう彼らは、虐げられた島の住民たちにとっては一種の英雄でもあった。
その中からやがて、米軍を向こうに回す荒くれ者を糾合する者が現れ、次第に組織化されていった。沖縄の日本復帰後も続いた沖縄ヤクザの抗争の歴史を詳述したルポルタージュ「沖縄ヤクザ戦争」(大島幸夫著・1978年・晩聲社刊)にはこうある。
《沖縄ヤクザは、この島の戦後史的特徴をおびた社会的産物なのである。その生成の原点は、占領軍の金網の中だ》
■原点は戦災者の収容施設
同書でも言及しているが、沖縄ヤクザの原点は、沖縄戦で行き場を失った住民たちが身を寄せた「カンパン」と呼ばれた雑居収容施設だった。「カンパン」の中でコミュニティーがつくられ、カンパンごとに生まれた地縁が合従連衡して組織化されていったのがはじまりだとされる。
群雄割拠の「戦果アギヤー」の世界で抜きんでた実力を持ったのが、「ターリー」と呼ばれた喜舍場朝信である。喜舍場は1947年ごろには、コザを根城に「無免許ドライバー」や「沖縄相撲のツワモノ」などの荒くれ者らを集め、《「十字路十人シンカ」(10人衆)》と称する集団をつくったという。
「『シンカ』というのは、『臣下』から派生した沖縄方言で、『仲間』などの意味がある。ただ、戦後の沖縄では、ヤクザ者の集団という意味合いが強くなり、いまでもそうしたニュアンスで使われることが多い」(前出の警察OB)
前出の「沖縄ヤクザ戦争」などによると、コザ一帯を縄張りにした彼らはやがて、「コロコロ」と俗称された青空球技賭博やバラック建てのビンゴ遊戯場を仕切るようになり、1952年ごろには、構成員約300人の「コザ派」を名乗るようになったとされる。
同じころ、那覇一帯を取り仕切っていたのが、「スター」こと又吉世喜。又吉率いる集団は「コザ派」に対して「那覇派」と呼ばれるようになり、1961年には又吉率いる那覇派とコザ派との間で、那覇市内のビンゴ遊戯場の利権をめぐる争いから抗争が勃発。これがその後の「いくさ世(ゆ)」とも称された沖縄ヤクザの抗争の歴史の幕開けとなった。
喜舍場を中心とする「コザ派」の中で特に力があったのは、「ミンタミー」(沖縄方言で「目の玉」の意)の俗称で呼ばれた新城喜史だ。
「コザ派には、新城ら県北部の『山原(ヤンバル)』出身者が多かった。そのためもあってか、コザ派は、旧十人シンカのグループが中心となった主流派の『山原派』と、そこから分派した『泡瀬派』に分かれた。1964年から67年ごろにかけて山原、泡瀬、那覇、普天間の四組織がしのぎを削り、抗争を繰り返すようになった」(同)
その後、泡瀬派は山原派との抗争で解散に追い込まれ、普天間派も最高幹部が山原派の組員の銃弾に倒れて勢いを失った。
■日本復帰直前の一時的和解の理由
沖縄の日本復帰を目前に控えた1970年、残された山原派と那覇派がついに合流し、「沖縄連合旭琉会」を結成。沖縄ヤクザがようやくひとつにまとまったことで、つかの間の平穏が訪れた。
「反目し合っていた山原派と那覇派が合流した背景には、当時勢力を急拡大していた三代目山口組が沖縄進出に向けた動きを見せていたことへの対抗という意味合いもあった。
しかし、山原派、那覇派の大幹部だった新城ミンタミと又吉スターはそれぞれ理事長に就任したものの、組織内での待遇の不満から山原派の有力組織だった上原組が離脱。この一件と沖縄進出を狙う三代目山口組の介入が火種となり、第4次、第5次抗争へと発展していくことになる」(前出の警察OB)
最初の抗争が起きた1961年から、第5次抗争が終結する83年まで、実に約22年。この間に沖縄ヤクザの「ゴッドファーザー」的な存在だった「ターリー」こと喜舍場朝信は病死。山原派の「ミンタミー」こと新城喜史、那覇派の「スター」こと又吉世喜というレジェンドふたりも凶弾に倒れている。
そうした数々の犠牲を払いながらも、「山口組」という巨大な本土勢力の侵攻に対抗するために一度はまとまった沖縄ヤクザたち。1972年の日本復帰の前後、多くの本土資本が沖縄を侵食したのとは対照的に、自らが拠って立つ居場所を守ったわけである。
しかし、90年に入ると再び組織は「旭琉会」と「沖縄旭琉会」の二つの勢力に分裂。より苛烈な抗争を繰り広げた。
「分裂直後の1990年から92年までの第6次抗争では、抗争の余波でアルバイトの高校生、警察官ふたりが命を落とす事態にまで発展した。警察官が射殺された事件では、実行犯の組員が逃亡し、『警察庁指定重要指名手配犯』として30年以上が過ぎた今もなお全国の警察がその行方を追っている。
県外の組織に匿(かくま)われながら逃亡を続けているとみられていたが、2000年には京都府内の病院を受診し、がんと診断されていたことが判明している。こうした状況から逃亡犯の組員はすでに死亡しているものとみられている。」(同)
ふたつの組織が並び立ち、にらみ合う時代はその後、20年余りも続いた。その間、92年に暴力団対策法が施行され、裏社会を取り巻く環境は激変した。「反社会勢力」とみなされるようになった暴力団の排除の波はさらに進展し、2011年3月の「暴力団排除条例」の全国一斉施行へとつながっていく。
「反社排除」の波が、緩流から奔流へと勢いを増したこの年、その流れに抗うようにふたつの組織は再び合流し、新たに「旭琉會」を立ち上げることとなる。
「2019年には組織再統合の立役者だった旭琉會の富永清会長が死亡したが、現在に至るまで正式な後継者は決まっていない。このままトップ不在の組織運営が続くのか。それとも体制の大幅な刷新があるのか。まだ先行きは不透明な状況が続いている」(前出の警察OB)
県民の4人に1人が命を落とす沖縄戦の悲劇が終わってから今年で78年、米軍の圧政を脱し「主権」を取り戻してから51年が経つ。島に横たわる長い苦難の歴史には、もうひとつの「いくさ世」の記憶も刻み込まれている。
●安藤海南男(あんどう・かなお)
ジャーナリスト。大手新聞社に入社後、地方支局での勤務を経て、在京社会部記者として活躍。退社後は警察組織の裏側を精力的に取材している。沖縄復帰前後の「コザ」の売春地帯で生きた5人の女性の生き様を描いた電子書籍「パラダイス」(ミリオン出版/大洋図書)も発売中