台湾発、世界最大級の半導体会社「TSMC」の工場誘致に成功し、2024年の稼働開始に向けて今、沸きまくっているのが熊本県菊陽町だ! 「建設現場が超高給」「地価もうなぎ上り」などにぎにぎしい噂ばかりが聞こえてくるけど、実際はどうなのか? ルポライター・安田峰俊(やすだ・みねとし)氏が歩いてみたところ......マジでヤバかった!
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■超ハイテク企業という「未知との遭遇」
今、熊本県がアツい! その理由は世界最大規模の半導体ファウンドリ(後述)である台湾のハイテク企業・TSMC(台湾積体電路製造)の進出だ。
2021年10月、同社は日本での工場建設計画を発表。予定地に選ばれた熊本県菊陽町では、程なく急ピッチで建設工事が開始された。
工場はソニーグループとデンソーの出資も受けた日本での子会社・JASMが運営する形で、24年末からの操業を予定している(ややこしいので、以下、地元の呼称でもある「TSMC」で統一)。
今年6月には、TSMCの劉徳音(マーク・リュウ)会長が、菊陽町内でさらに第2工場を建設する見通しを発表した。さらに今年夏からはついに、台湾から駐在員とその帯同家族ら約600人がやって来て、熊本県の土を踏む。
しかし、一連のニュースで脚光を浴びている菊陽町一帯の人々は、巨大な超ハイテク台湾企業の工場進出という「未知との遭遇」にどう向き合っているのだろうか? 現地を歩いて調べてみた――。
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6月7日午後5時前、気温は約27℃。私はホテルから約2㎞離れた目的地を目指して、田舎道を歩き続けていた。
カエルの合唱が聞こえる田んぼ道を抜け、神社の角を曲がって雑木林に入ると、クヌギの樹液の甘いにおいが漂った。
だが、林を抜けて坂を上ると、サツマイモ畑の向こうに突如として巨大な人工物が見えてきた。TSMCの工場である。
建設工事は昨年4月21日に着工されたばかりだが、建物の外観はあらかた完成していた。工場から県道30号線を挟んで、急ごしらえの広大な駐車場があり、ほぼ満車状態である。工事に従事する人員は最大で一日5000人といわれ、彼らの自家用車や派遣会社の送迎バスの数だけでも膨大な数に上るのだ(別の場所にも駐車場がある)。
やがて、敷地内からヘルメット姿の男たちが大勢出てきた。工事は24時間態勢で進められているが、5時に退勤する人は多いらしい。日給3万円ともいう高給のためか、国内のほかの建設現場と比べて外国人労働者が少なく、日本人の姿が目立った。
退勤者の人波は工場から駐車場までの歩道を埋め尽くし、切れ目なく続いた。工場の裏手にはさらに、下宿組の作業員用のバス停があり、特別運行のバスが彼らを宿舎までピストン輸送している。
程なく、周囲の車道が退勤者の自家用車で埋まり始めた。TSMCの工場建設が始まって以来、朝夕の渋滞は菊陽町の新たな名物だ。
もちろん、こうした活気は工場周辺にとどまらない。
「(阿蘇くまもと)空港からお客を乗せる頻度は、以前は一日に3回ほどだったのが、今は一日6、7回は必ずあるんです」
地元のタクシー運転手(70代)は言う。付近のビジネスホテルも、コロナ禍による宿泊者減にあえいだ数年前の惨状がウソのような盛況ぶりで、工事関係者の長期滞在が目立つ。1泊の宿泊費も2倍近くに上がったという。
そんなTSMCパワーは夜の街でも見られた。隣の大津町のJR肥後大津駅前には小さな繁華街があり、足を向けてみたところ、平日にもかかわらず夜9時頃にはキャバクラやガールズバーは軒並み満席である。
客引きの男性と話すと、ひとり当たり数万円レベルでお金を使う工事関係者も多く「空前のバブル」だという。若い女のコがいる店は限られているため、そこで集中的に散財してしまうようだ。
「とはいえ、地元の商工関係者はTSMCの進出に様子見です。みんな、お酒が入ると『台湾のすごい会社が来るけん、儲かるたい。よかったーい』と盛り上がるのですが、土地を売る以外で、地域の人がどうやって儲けるのか。まだ手探りなんですよね」
肥後大津駅前のスナックで、60代のママはそう笑った。
店の近くにあるJR豊肥本線の駅舎は瓦ぶきで、線路は単線だ。私がスナックを出たとき、夜風はかすかに牛糞のにおいがした。
■TSMC誘致で給料が倍に!?
現地を騒がせているTSMCはどのような会社か、軽く触れておこう。
半導体は、スマホやPCはもちろん、自動車や航空機、家電にまで幅広く使われている重要な部品だ。TSMCは、この半導体の受託生産(ファウンドリ)で世界トップのシェアを誇る企業で、取引先はアップルをはじめ世界500社以上に及ぶ。
同社は、台湾政府が株の約6%を保有する国策企業の顔も持つ。ゆえに、台湾の国防のカギとしても位置づけられており、「超」最先端レベルの製造工場は台湾島内だけに置かれている。
ただ、自動車などに広く使われる1世代前の技術については、アメリカなど台湾の友好国に工場を建設し、積極的に海外展開する戦略である。
今回、菊陽町に造られる工場もその一環だ。対して日本政府も、特に経済産業省が経済安全保障の観点からこの動きを重視しており、最大約4760億円という巨額の補助を行なうことになっている。
工場の建設予定地は、熊本市内から十数㎞離れているものの、阿蘇くまもと空港から程近い場所にある(前出の肥後大津駅が空港の最寄り駅だ)。
菊陽町や大津町を含む菊池地域は、地下水が豊富なこともあり、もともとソニーグループの半導体企業や、半導体製造機器メーカーの東京エレクトロン、さらには本田技研工業など各メーカーの大型工場の進出が盛んだった。菊池地域だけで熊本県内の製造品出荷額の約35%を占めている。
「なので、〝田舎〟とはいえ大工場の受け入れに慣れている土地ではあるんです。でも、今回来る会社は、それまでとは規模が違いますからねえ。しかも外資ですよ?」
肥後大津駅前で居酒屋を切り盛りする、地元出身の50代の女性は話す。
TSMCの時価総額は5000億ドルを上回り、トヨタ自動車(日本最大の企業)の約2倍に及ぶ。現在建設中の第1工場だけでも、約7500人の雇用効果が期待され、約80の関連企業が熊本県内に新規の拠点や工場を建設するとも見込まれている。
TSMCの本国・台湾では、新たに同社の工場が造られた町の平均年収が、同国の国民平均年収(約300万円)の2、3倍まで跳ね上がっている。日本のTSMC工場についても、10年間の経済波及効果が4兆3000億円規模に及ぶとする試算がある。
「そこで、誘致が決まってからは、自動車道路や鉄道なんかのインフラ整備計画の前倒しや修正がどんどん議論されるようになったんです」(前出・50代女性)
例えば、バブル直後の1994年に整備計画が決定していたものの長年開通しないままだった、大分市と熊本市を結ぶ中九州横断道路は、日本政府の意向から整備が急加速。さらにはTSMC工場に近い場所に、当初の整備計画には含まれていない新インターチェンジが設置されることも決まった。
空港からのアクセス鉄道の整備計画も見直された。これまでは熊本市内に近い三里木駅に向けて空港線を延ばす計画だったが、TSMC工場に近い肥後大津駅に向かう計画に修正されたのだ。
加えて今年9月からは、台湾の航空会社であるチャイナエアラインとスターラックス航空が、それぞれ熊本-台北間の定期便を就航させる。熊本県そのものが、台湾と密接に結びつくことになる。
■土地バブルに潜む影
結果、激しく動いているのが現地の地価だ。菊陽町付近で飲食店を経営する60代の男性は話す。
「10年前だとウチの土地は1坪12万円程度。去年の春でも20万円くらいだったんだ。それが、TSMCの工場進出が決まった後で売ったら1坪35万円になった。仮に〝上モノ〟(土地の上に建つ建築物)がなければ、坪40万円でもおかしくなかった」
もともと、菊陽町付近は人口が増加傾向にあり、地価も上がってはいたが、昨年からこの流れが急加速した。
交通の要である菊陽バイパス沿いでは、1坪の地価が100万円を超えたという噂も囁(ささや)かれている。国土交通省が昨年9月に公表した基準地価でも、全用途の上昇率の全国トップは、菊陽町の工業地の31.6%だった。
台湾マネーも活発に流れ込んでいる。現地で展開するコスギ不動産の経営戦略室長・小杉竜三氏は話す。
「台湾企業の場合、数十億円規模の投資を考えているケースすらある。本気度を感じています。TSMCの関連会社は、『とにかく土地を紹介してほしい』と大胆にお金を使う印象です。ほかの業界の会社については、まだ様子見といった雰囲気もありますが」
不動産市場の活況を受け、通常はあまり価格変動しない賃貸物件の家賃すら、約2割上昇したという。まるで80年代のようなバブルぶりだ。
「16年の熊本地震の復興需要などの短期的な地価の高騰は経験がありますが、現在のように中長期的に続く状況は初。地元の不動産業界では、このトレンドがあと5~10年は続く、といった見方も出ています」(小杉氏)
そこで問題になっているのが土地の不足だ。熊本銀行が昨年実施した調査によると、菊陽町への進出を検討した国内外の22企業のうち、約8割が土地を確保できなかったことを理由に断念したという。
とはいうものの、実際に現地を歩くと、TSMC工場の周辺は畑と田んぼと森ばかりである。土地などいくらでもありそうに見える。
「ただ、用途が原則的には農業に制限された『農業振興地域』が多いのです。土地に〝農振〟がついていると、駐車場に転用することすらひと苦労でして......」(小杉氏)
目下、熊本県は農地転用のための特例法活用に動いているので、この問題は遠からず解決する可能性が高い。
ただ、それゆえの不穏な噂も聞こえてくる。一部のブローカーが、地域の農家と抜け駆け的に直接交渉を行ない、「農振の指定が外れたら土地を買う約束」で勝手に仮登記契約を結んでしまう例が出ているのだ。
このようにして入手された土地が大量に売買された場合、場当たり的な開発が進む。結果、非効率的で暮らしにもビジネスにも不便な町が出来上がりかねない。過剰な地下水のくみ上げなど、環境への影響も大きくなる。
「行政側で政策が整備され、地域のエリアデザインをしっかり描いた上で開発計画が進むのが望ましいのは確かです」(小杉氏)
目の前のバブルに踊った結果、長い目で見るとかえって地域の価値を損なってしまう可能性もあるのだ。
■地元住民にとって恩恵は〝未知数〟
「私も含め町民の期待は大きいのは確かです。ただ、町政としては工業、商業、農業のバランスが取れた発展が大切です。工業、商業の振興を図りつつ、農業もしっかり守っていかなくてはいけない」
菊陽町の吉本孝寿町長(56歳)もそう話す。地元出身の元町議で、TSMCの進出決定後の昨年10月に初当選。企業向けの農地転用について、彼は意外にも慎重な姿勢だ。
「有効で効果的な活用が見込める農地は、もちろん(企業向けに)活用を図ります。ただ、すでに進出しているソニーグループやTSMCの関連企業など、経済効果が高く本町の発展に資すると考えられるケースを優先させたい」
つまり、どんな会社にもどんどん農地を転用して事業用地として使用させる意向ではないということだ。
事実、土地の売買や飲食店関係の仕事をしていない町民にとって、TSMCの恩恵は未知数である。のどかな地元の景観を急激に失わせてまで、故郷をハイテクシティに変えたいと思わない人もいる。
ただ、もたつきすぎれば企業は他県やほかの自治体に行ってしまう。吉本町長は今、日本で最も難しい判断を迫られている町長かもしれない。
図らずして台湾の大企業と共存する運命を背負った小さな町に、どんな未来が待つのか。実に気になるところだ。
●安田峰俊(やすだ・みねとし)
1982年生まれ、滋賀県出身。ルポライター。中国の闇から日本の外国人問題、恐竜まで幅広く取材・執筆。第50回大宅壮一ノンフィクション賞、第5回城山三郎賞を受賞した『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』、第5回及川眠子賞を受賞した『「低度」外国人材移民焼き畑国家、日本』(KADOKAWA)など著書多数。新著は『北関東「移民」アンダーグラウンド ベトナム人不法滞在者たちの青春と犯罪』(文藝春秋)