太平洋戦争終結から今年で78年。埼玉県朝霞市に、教科書では学べない「戦後の大衆史」を語る人がいる。「パンパンガール」と呼ばれた女性たちの暮らしを身近で見てきた田中利夫さん(82歳)だ。占領下の朝霞で生きた人々の息づかいを、小学校時代の記憶と共に伝えている。
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■終戦後、「ラブホ」と化した実家...春を売り、生き延びた女性たち
「僕が6つか7つのころです。住んでいた家はいつのまにか、今でいう"ラブホテル"のような商売を始めていました。
朝霞にキャンプ・ドレイク と呼ばれるアメリカ軍基地が進駐したあと、アメリカ兵と一緒のお姉さんたちが『部屋を借りたい』と母に頼んでくるようになってね。貸すと『おばさん、お金取って』と御礼を置いていくようになった。うちの両親は『それじゃあ、【貸席(かしせき)】の看板をかけなきゃ世間に申し訳ない』と。だから届出をしてきちんと税金を払うようにした。それが昭和23(1948)年ころの話です」
そう語る82歳の田中利夫さんは、朝霞町(現在の朝霞市)に生まれ育った。太平洋戦争中に日本陸軍の施設が置かれていた朝霞は、敗戦後に「アメリカ軍基地の街」となる。キャンプ・ドレイクがあった時代の朝霞を色濃く知る田中さんは、朝霞史を学ぶ地元の人たちに背中を押され、当時を伝える紙芝居を7年ほど前から自作するようになった。
のびのびしたタッチの絵とカラフルな彩色、そして生き生きした語り。戦後から78年、今も田中さんは少年時代に見てきたことを鮮やかに描写する。
「うちは駅前にあったから、芋掘りに来る人や行商の人たちが立ち寄っていて、昔はタダで部屋を貸してあげていたそうです。それが戦後は、若い女性とアメリカ兵ふたり連れの相手で忙しくなって、正式に貸席を営むことにした。父は事業で忙しかったので、母が切り盛りしていました。
僕や母は、部屋を間借りする女性たちのことを『お姉さん』と呼んでいました。母は結婚と同時に浅草から朝霞へ越してきた人だから、土地に馴染めずに冷たくされたこともずいぶんとあったみたいで。だから、自分の妹みたいに若い『お姉さん』が、町でいじめられるのは我慢ならん、という思いでどうもいたらしい」
「お姉さん」たちとは、進駐軍兵士相手にいわゆる「売春」をして身を立てていた女性たちだ。当時、街娼をしていた女性は全国的に『パンパンガール(パンパン)』と言われていた。
■いい暮らしを夢みて、母親が客引きをしていた
「お姉さんたちは、ひとりきりのアメリカ兵に気に入られて交際が続くようになると、『オンリー(only)さん』とも呼ばれるようになる。自分の生活の面倒をみてくれる兵士がいるわけだから、綺麗な服を着て、裕福な暮らしになります。でも家がなく、お寺のお堂の下で生活するようなパンパンガールの方がたくさんいたと思います」
田中さんのお母さんは、町の人にひどいことを言われて泣いて帰ってくるお姉さんがいると、相手に文句を言いに出ていくこともあったらしい。「朝霞のおかあさん」と呼ばれ、親しまれていたという。田中さんの紙芝居には、お母さんが手作りの弁当をこしらえ、長く間借りをしていたオンリーさんたちと一緒にピクニックにいく1枚がある。
「うちみたいに、貸席屋だと公言している家はほぼありませんでした。いってしまえば売春宿ですから。僕は同級生の友達よりも、その親たちによくいじめられていました。『パンパン屋のガキ』なんて呼ばれたりして。でもヤミでこっそり貸して商売していたり、お姉さんたちを下に見ていたりする家はたくさんあった。
でもそうやってお姉さんたちを蔑んでいたおばさんが、自分の娘をパンパンガールにしていたこともあったんですよ。というのは、アメリカ兵と付き合うと、かなりのいい暮らしができるようになるとだんだんわかってくるからです」
「オンリーさん」になった女性たちは、どんどん垢抜けて、洋装を着こなし、高級な化粧品も手に入る。食べるものだって良くなり、肌つやも出てくる。そんな姿を目の当たりにすると、「自分の娘も綺麗にしてやりたい」と思う親心からか、年頃の娘を持つ母親が"客引き"をすることもあったらしい。
「その家のお母さんが電信柱の影にたって、兵士に向かって『カモン、マイハウス』とやる。家に着いて、兵士が娘さんを気に入れば、彼女は『オンリーさん』となる。
そういう家のことは、まず子供たちが嗅(か)ぎつけてましたね。なぜかというと、下水道から流れてくる水のニオイが変わるから。風呂でアメリカ製の石鹸を使うようになるから、日本の石鹸とはぜんぜん違ういい香りが下水にただよう。
そうして近所にウワサが広がって知られると、そこのお母さんは『うちの娘はパンパンになったわけじゃない。アメリカ兵がうちの娘を勝手に見初(みそ)めたんだ』って居直ってましたね」
■平成、令和で「お姉さん」たちと再会
お姉さんたちの服装や会話、アメリカ兵のしぐさや町の風景まで多くのエピソードを細かく描写し、約700枚もの絵を完成させてきた田中さん。しかし、朝霞でパンパンガールだった女性たち自らの証言というものはほとんど存在してないらしい。
「7年くらい前かな。公民館で紙芝居をやったときに、終わってから、ひとりの女性が近づいてきた。そして『あなたのお母さんに、お線香あげさせてくんない?』と。その人をぱっと見たときに、僕は『ああ、この人は昔......』と思ったの。すると『紙芝居を見て、急にお母さんのことを思い出した』と明かしてくれた。当時で85歳くらいの方です。
僕は当時の思い出をもっと聞いてみたい気持ちがあって、帰りに連絡先をうかがってみた。すると、『悪いけど聞かないでくれ』と。『今、娘と住んでいるから。何かあったら私から連絡する』、と言われ、もちろん『ハイ』と答えました。でももうそれっきりです」
2年前にも出会いがあった。田中さんが通っていた銭湯に、自分の目には不思議と目立つ老婆がいた。90歳くらいだが、ネイルにも気をつかい、オシャレな服装で、気風の良いしぐさ。「もしやお姉さんだった人ではないか」。そう思ったが、こちらから声をかけることはしなかった。そうして2ヶ月ほどが経ったころ、向こうから話しかけられたという。
「突然『トシ坊』と呼ばれたんですよ。そう呼ぶ人は当時の知り合いだけ。本当に限られているんです。それで『ああ、やっぱり!』とうれしくなった。向こうは、小さい時の僕の鼻のかたちを覚えていて、それで確信したそうです。
それからは銭湯で会うたびに昔のことをたくさん話しましたが、自分から連絡先は聞かないようにしました。でもやっぱり紙芝居にしてもいいか聞いてみよう、そして戦後史を聞き取りしている大学の先生を紹介しようと思った矢先、突然、銭湯には姿を表さなくなった。体調を崩されたのか、それとも何かを警戒したのか。まったくわからないけど、今どうしているのかな、と思います」
「パンパンガール」の語源には諸説あり、明確にはわかっていない。しかし当時の大人たちが女性たちを指して「パンパン」と言うとき、そこには蔑みが含まれていたという。田中少年をかわいがってくれた「お姉さん」たちは、性病の蔓延を問題視していたGHQや日本の警察によって、いきなり逮捕されてしまうような存在でもあった。
「日本の警察はひどかったですよ。捕まったらぶたれたり蹴られたりが当たり前で、リンチのような暴行をするんですから。
『狩りこみ(憲兵による街娼の一斉逮捕)』でうちに逃げ込んでくるお姉さんも、いっぱいいました。うちのおふくろはそんなお姉さんたちをきちんとかくまい通した。かくまったことが良いか悪いかは議論が出るかもしれませんが......当時の僕は、それで良いと思っていた。警察よりマシとはいえ、憲兵に暴力を振るわれる『お姉さん』たちを子供の自分が見るのはつらかったですから」
田中さんの家が貸席を廃業した年は、成人した田中さんがすでに実家を出ていたこともあり、はっきりとしていないのだという。しかしベトナム戦争の頃には、アメリカ軍兵士専門のお姉さんたちもずいぶんと減っていたそうだ。記憶では、おそらく昭和51(1976)年ころには看板を下ろしていたのではないかということだ。
「紙芝居をする場所や相手によっては、『パンパン』という単語を『ハニーさん』という言い方に置き変えることもあります。当時のアメリカ兵は、お姉さんたちに『Hey,honey!』と呼びかけていたから。でも僕は、『パンパン』という言葉は、自分が見てきた当時の暮らしぶりを伝えるうえで、とても大事な言葉だから『隠したくない』とも思っています」
時代は移り変わり、戦時中や米軍基地があったころの朝霞を詳しく語れる人も少しずつ減ってきている。田中さんの紙芝居に描かれた話は、暴力に巻き込まれた「お姉さん」をめぐる悲しい実話もあれば、子供から大人、年齢や国籍にかかわらず、戦後を生きたひとりひとりがたくましく生きてきたことを証明する実話も盛りだくさんだ。
「紙芝居にすこし飽きたな、と思ったこともある」と笑う田中さんだが、今でも早起きして絵を描き続ける。78年前の日本で営まれていた「庶民の生と性」。敗戦直後に生きた人々のエネルギーが、田中さんの紙芝居には詰まっている。
●田中利夫(たなか・としお)
昭和16(1941)年・埼玉県朝霞町(現在の朝霞市)生まれ。元・服飾デザイナー、元・洋裁講師。平成28(2016)ころから、占領下時代の朝霞の思い出を紙芝居にして語り始める。作品は「金ちゃんの紙芝居」として、WEB上でも公開中
https://asakacity.wordpress.com/