「ヒトは、少人数で狩猟採集生活を営む環境で進化したから、大規模な集団に適応していないのです。大きな組織をつくり、それを運営するのは、ヒトの脳が当たり前にできることではない」と語る長谷川眞理子氏「ヒトは、少人数で狩猟採集生活を営む環境で進化したから、大規模な集団に適応していないのです。大きな組織をつくり、それを運営するのは、ヒトの脳が当たり前にできることではない」と語る長谷川眞理子氏

長時間労働、育児放棄、不登校。多くの問題が現代を生きる私たちを取り巻いている。しかし、こうした問題が起き始めたのはここ100年ほど。長い人類史で見れば、つい最近の出来事だ。

長谷川眞理子総合研究大学院大学名誉教授は新刊『ヒトの原点を考える 進化生物学者の現代社会論100話』(東京大学出版会)で、そうした諸問題は「すさまじい速度で変化した文明社会」と、その一方で「20万年間ほとんど進化していないヒト」のズレによって生じているのではないかと指摘する。

自然人類学の観点から見つめ直す人類と現代社会のいびつな関係性とは?

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――人類が20万年間進化していないって本当ですか?

長谷川 人類がチンパンジーと進化的に分かれてから600万年、直立二足歩行を始めてから200万年、われわれホモ・サピエンスが誕生してからは約20万年たっていますが、生物種としてのヒトは、最近の社会の変化に応じてどんどん進化しているわけではありません。

――その特徴は現代社会とマッチしていない?

長谷川 ヒトの体や心の基本をつくったのは、何百万年という進化の舞台であった環境です。それは、現代社会での暮らし方とはずいぶん違っていて、数人から十数人ほどの集団(バンド)で移動しながらの狩猟採集生活でした。人類史の大部分をそのようにして暮らしてきましたが、今から約1万年前に農耕や牧畜が始まり、定住を始めました。

そして約7000年前に文明が誕生し、260年ほど前に化石燃料を使った産業革命が起きた。それから、つい50~70年前に電気や抗生物質が社会に浸透して現代的な生活が始まりました。スマホやインターネットが一般化したのはここ15年ぐらいのことですよね。私たちが当たり前だと考える社会は、ヒトの歴史の中ではごく最近登場したに過ぎないのです。

――急激な社会の変化についていけていないということ?

長谷川 ヒトの脳はもともと有能で、いろいろなことができるのでこんな文明を築けたわけですが、かなり無理もしていると思います。例えば、うつ病や依存症や引きこもりなどは、狩猟採集生活では問題視されなかったでしょう。

日本で学校教育を制度化した学校令が公布されたのは1886年。わずか140年ほど前です。毎朝学校に行き、机に向かって、何十分も先生の話を聞くなんてことはそれ以前何十万年もなかった。うつ病も狩猟採集社会にはほとんど存在しないといわれています。抑うつ状態はありますが、それを病気として問題にするのは、現代社会の暮らし方がそうさせているのです。

――ヒトはどうして、自分たちにマッチしていない社会をつくってしまったのでしょうか?

長谷川 ヒトが文明を築くことができるのは、互いに「心を共有できる」からです。ヒトは、個人がいろいろなことを考えるだけではなく、それを他者と共有し、お互いの考えを取り入れ、目的を共に理解し、どうしたらよいかを一緒に検討することができます。

誰かがもっと性能の良い道具を作ろうとしたら、ほかの人たちもその意味がわかるので、皆で知恵を出し合って、よりよいものを作ることができる。そうして出来上がった道具は誰もが使えるので、たとえ自分ではそんなものを作ることができない人でも、瞬時に誰もが良い道具の恩恵を受けることができます。

他人と心を共有するというこの能力は、ヒトの言語能力の基にもなっており、言語が複雑なコミュニケーションを可能にしたことで、急速に道具や社会組織が改良されていきました。

もっと速く移動したいという欲求の下で自動車などが作られ、国民全員の能力が上がれば国が栄えるという目標の下で学校制度ができた。個々の目標は良かったのですが、その目的が達成される陰で、どんなものが失われたのかについては、あまり考えてこなかったので、全体として見るとミスマッチが出てきてしまった、ということだと思います。

――狩猟採集から脱して、より進んだ社会になったわけですね。

長谷川 本当に"進んだ"かどうかは、一概には言えないでしょう。現代社会では分業が過剰に進んでいますから、ほとんどの人は、生きるためのさまざまな作業がすべてできるわけではありません。

対して、狩猟採集社会では、食物を探して取ることから、差し掛け小屋を作ること、火をおこすこと、リスクへの対処など、個人は基本的になんでもできねばならないので、マルチに知性を働かせている。

私たちはテクノロジーに乗っかり偉くなった気になっていますが、実はごく少数の仕事しかできないのです。文明社会のほうが狩猟採集社会より優れているわけではありません。文明が発達し、それがヒトの生きる社会を急激に変化させただけで、脳が進化したわけではないのです。

――現代社会とヒトの本性の間で板挟みになっている、と。私たちはこれからどうすればよいのでしょうか?

長谷川 自然人類学の知見をもとに、社会を見直してみるといいかもしれません。最近、理想のリーダー像について質問されることが多いのですが、実は狩猟採集社会ではリーダーはいません。

バンドはなんでもできるオールラウンダーが数人から十数人集まっているイメージ。特に司令塔は必要ない。リーダーという存在は定住生活が始まり、集団の規模が大きくなって初めて生まれたのでしょう。ヒトはリーダーを輩出するような進化はしてこなかったのです。

ですから、状況や条件に合わせ、「どのようなリーダーが必要か?」と考えながら試してみるしかない。ひと口にリーダーと言っても、古代メソポタミアやエジプト、中世、日本の明治時代など、それぞれで求められる能力は皆違いますから。

逆に言うと、本来ヒトはリーダーが必要となるほどの大集団で何かをするのに適していないんです。もともと食べ物が十分あれば集まるし、なければ分かれるという生活ですから。大規模な組織をつくって全員を動かすのは、ヒトの脳が当たり前にできることではないのです。

――現代では、元来私たちができないことばかり求められているんですね。少し安心しました

長谷川 ヒトを進化的に現れた一種の動物としてとらえ、研究するのが自然人類学です。ヒトの原点を知ることで、これまでの社会や課題の見え方も変わるのではないでしょうか。

長谷川 眞理子(はせがわ・まりこ)
1952年生まれ、東京都出身。1983年東京大学大学院理学系研究科人類学専攻博士課程単位取得退学。理学博士。専門は自然人類学。現在、総合研究大学院大学名誉教授、日本芸術文化振興会理事長。主著に、『進化とはなんだろうか』(岩波書店)、『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社)、『クジャクの雄はなぜ美しい? 増補改訂版』(紀伊國屋書店)、『私が進化生物学者になった理由』(岩波書店)、『進化的人間考』(東京大学出版会)ほか多数

『ヒトの原点を考える 進化生物学者の現代社会論100話』
東京大学出版会 2420円(税込)
インターネットやスマートフォンの普及で、人類の生活はここ数十年で著しく変化した。しかし、技術や文化の発展に対し、ヒト自体は20万年前からほとんど進化していないという。自然人類学者の長谷川眞理子氏は、ホモ・サピエンスがどんな存在なのかを解き明かしながら、子育てやコロナなど、人間社会が抱える問題の根源に何があるのかを問い直す。現代を生きる私たちの悩みは、文明社会がヒトの本性に適していないからかもしれない

『ヒトの原点を考える 進化生物学者の現代社会論100話』(東京大学出版会)『ヒトの原点を考える 進化生物学者の現代社会論100話』(東京大学出版会)

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室越龍之介

室越龍之介むろこし・りゅうのすけ

ライター・リサーチャー。専攻は文化人類学。九州大学人間環境学府博士後期課程を単位取得退学後、在外公館やベンチャー企業の勤務を経て独立。個人ゼミ「le Tonneau」を主宰。経営者やコンサルタント向けに研修や勉強会を実施したりすることも。Podcast番組「どうせ死ぬ三人」を配信中。

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