尾谷幸憲おたに・ゆきのり
カルチャー系のライター。『週刊プレイボーイ』(集英社)、『ヤング・ギター』(シンコーミュージック)などの媒体で執筆。著書に小説『LOVE※』(講談社文庫/内容みか共著)、『ラブリバ♂』(ゴマブックス)、『J-POPリパック白書』(徳間書店)ほか。「学校法人 東放学園音響専門学校」にて講師も務める。
能登半島地震から約1ヵ月。特に被害が大きかった石川県輪島市出身のマンガ家・永井豪先生は、苦しい生活を強いられている被災者の方たちに勇気を与えんと今、積極的に発信している。
能登半島はもとより人口が少なく、今後の復興に冷淡な見方をする向きもある。だが、先生はそれを毅然と否定し、力強く"希望"を語った!
――能登半島の輪島市にあるミュージアム「永井豪記念館」で奇跡が起きました。建物の入り口付近は全焼していたにもかかわらず、中に展示されていたマンガの原画やフィギュアのほとんどが焼失を免れたそうですね。
永井豪(以下、永井) 展示物はほとんど燃えてしまっただろうと考えていました。自分は現役のマンガ家ですから、なくなってしまったものはもう一度描けばいいくらいに思っていた。ところが1月25日、輪島市の観光課の方からその知らせが入ったわけです。
永井豪記念館を建設するとき、耐火対策を施してくれていました。それが功を奏したようです。感謝の言葉しかありません。
――テレビの報道では、救出されたグレートマジンガーの巨大フィギュアが焼け跡の上に自立している姿が映っていました。永井先生は一貫して、ボロボロになっても立ち上がるヒーロー像を描かれていますが、それを連想しました。
永井 確かに自分が描く世界観とダブって見える部分はありました。偶然とはいえ、こういうことってあるんですね。
――先生から見た故郷の能登、輪島はどんな土地でした?
永井 僕が住んでいたのは戦後間もない頃です。輪島には「朝市」という1000年以上前から存在する大きな市場があって、通りに面して商店がたくさん並んでいました。朝市のすぐ向こうは海でね。
そこから振り向くと、後ろに大きな山が見えた。大きな森もあるし、田んぼも畑も川もある。まるで日本の原風景みたいなものがすべて集約されているような土地ですね。
朝市に行くのが大好きでした。小学校1年の頃、学校の帰りに朝市の店を一軒一軒回りました。店番のおばさんたちが元気に声をかけてきてくれたり、お店にはカニから何からいろんな魚が売っていた。
その中の怪物のような変な形の魚を好んで観察して、「ごっついな~」「気味が悪いな......」なんて思ったり。
それと、うちの庭はセミのすみかになっていました。夏になると地面からセミの幼虫が這い出してくるんです。それを捕まえて、幼虫同士を戦わせるんです。で、幼虫を壁に付着させると、やがてサナギになって、ある日それがパカッと割れて羽化する。
セミの成虫は初めは真っ白なんだけど、それにだんだんと色がつき始めていくんです。そういうのを興味深く観察していました。
冬になると氷柱(つらら)が1mくらいになるんです。それを使ってチャンバラごっこをしていました。その氷柱がすぐに割れるんですよ。一瞬で粉々になってキラキラしながら飛び散っていく。それがすごくきれいで、かつ神秘的なんです。
――怪物のような魚、セミの羽化、氷柱のエピソードを聞いていると、永井先生の作品に登場するデーモンや戦闘獣、それを破壊するシーンを思い出します。
永井 自分で意識したことはないし、ネタにしたつもりもないけど、輪島で経験したことが自然と出ている部分はあるでしょうね。
――永井先生は輪島で手塚治虫先生のマンガに出合ったそうですね。
永井 幼稚園ぐらいのときに兄が旧制四高(現在の金沢大学)で寮生活をしていて、帰省する際に金沢駅で手塚先生の作品を4冊買ってきてくれたんです。タイトルは『メトロポリス』『ロストワールド』『ファウスト』『拳銃天使』。
それを兄弟で分けようということになった。僕は『ロストワールド』を選びました。まだ幼いから文字もしっかり読めませんから、結局、兄に読み聞かせしてもらっていました。
僕は輪島で手塚作品に出会ってマンガ家を志すようになった。先生の絵を一生懸命、模写したりしていました。輪島でマンガを描いているのは、おそらく僕ひとりだったでしょう。
――その後、永井一家は、1952年から東京に移住します。永井先生は当時6歳ですが、都会暮らしに慣れるのは大変だったのでは?
永井 当時の東京はそれこそ輪島のように自然に囲まれてはいないけれど、だからといって別世界というほどでもなかったんですよ。昭和27年(1952年)の東京は、まだ戦争の爪痕が残っていた。
その頃、暮らしていたのが東京・大塚で、神社から眺める東京は、大きいビルや建物がなくて、池袋から巣鴨までずうっと見渡せた。空き地が広がっていて、あちこちに粗末なバラックが立っているのが見えました。
――東京は復興の真っただ中にあったんですね。
永井 今の能登半島はゼロの状態です。東京も関東大震災や太平洋戦争でゼロになった過去があり、だからこそ新しい都市計画を行ない、現在のように発展することができた。同じように、新しい輪島、新しい能登半島をつくることはできるはず。
僕は「輪島フロンティア」という構想を提唱できればと思います。太平洋側に横浜という港があるように、輪島を日本海側の交易・経済の玄関口にするんです。
歴史をさかのぼると、能登半島は昔から大陸文化の合流地点でした。輪島の特産品の漆器「輪島塗」はかつて宮廷や貴族が使っていたものの流れなのでは。そういう文化が誕生したのは能登半島が大陸との交易の拠点だったから。
大昔は大陸から船で漕(こ)ぎ出すと日本海の潮流に流され、能登の辺りで引っかかり、そこで下船していた。能登半島はいわば国際港のようなものだったんです。それをもう一度復活させるのが「輪島フロンティア」です。
もちろん、現実を考えると政治的な問題は避けられません。日本海の沿岸諸国には難しい国もありますからね。それでも「輪島フロンティア」を中心に日本海の交流が進めば、人の接点は増えるし、その中で話し合いができるようになっていく可能性はある。
人と人がつながる場所には未来があります。もしかしたら、今の行き詰まっている日本経済を変えるきっかけになるかもしれない。
まだ地震が起きてから1ヵ月程度しかたっていません。被災者の皆さんはまだ安定した暮らしができていません。こういう状況ですので、僕のアイデアはとっぴだと思われるかもしれない。
でも、もう少し状況が落ち着いて、未来を考えられる状況になったとき、「輪島フロンティア構想」という方向性も考えてもらえれば。能登半島には新しい日本の未来、新しい活力を生み出せる可能性があることを忘れないでほしいです。
●永井豪(ながい・ごう)
1945年生まれ、石川県輪島市出身。石ノ森章太郎のアシスタントを経て、1967年にマンガ家デビュー。『ハレンチ学園』『デビルマン』『マジンガーZ』など当時の社会に衝撃を与え、その後も語り継がれる名作を次々と生み出した。78歳となった現在も連載を抱える現役のマンガ家。日本SF作家クラブ会員
カルチャー系のライター。『週刊プレイボーイ』(集英社)、『ヤング・ギター』(シンコーミュージック)などの媒体で執筆。著書に小説『LOVE※』(講談社文庫/内容みか共著)、『ラブリバ♂』(ゴマブックス)、『J-POPリパック白書』(徳間書店)ほか。「学校法人 東放学園音響専門学校」にて講師も務める。