固定残業代とはどのように生まれ、運用されてきたのか? そして、その功罪は? 固定残業代とはどのように生まれ、運用されてきたのか? そして、その功罪は?

「みなし残業」とも呼ばれる固定残業代制度。その多くは30時間程度ともいわれているが、とある企業が過労死ラインギリギリとなる80時間もの固定残業代を設定していることがわかり、SNSを中心に炎上。

では、そもそも固定残業代とはどのように生まれ、運用されてきたのか? そして、その功罪は? 労働法に詳しい渡辺輝人弁護士に話を聞いた。

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■高額初任給の実態は80時間残業が前提?

企業の賃上げニュースが続く中、「新卒採用初任給を一律40万円に」という異例の引き上げを実施した企業が話題となった。アパレルのセレクトショップ「STUDIOUS(ステュディオス)」や完全国産ブランド「UNITED TOKYO」を展開する株式会社TOKYO BASEだ。

なんて景気のいい話! と思いきや、話題となった理由はそれだけではなかった。同社の求人をよく見ると、「80時間分(17万2000円)の固定残業代を含む」とあり、本来の基本給は20万3000円と記載されているのだ。

80時間の時間外労働(残業)は一般に「過労死ライン」とされる。同社は東証プライム上場企業でもあり、コンプライアンスが厳しく求められる時代にもかかわらず、これほど型破りな求人採用を発表したことで、ネットを中心に大いに議論となった。

そもそも「固定残業代」とは何か。それは残業時間の有無にかかわらず、決められた時間分の残業代を固定で支払う制度であり、「みなし残業」という通称でも知られる。

例えば、月20時間の固定残業代が設定されている場合、労働者は月10時間の残業だったとしても、20時間分の残業代が支払われる。効率良く働ければ、残業が少なくとも高い給与が支払われるため、働く側にもメリットのある制度に感じられるだろう。

実際、同社社長の谷正人氏は東洋経済オンラインの取材にこう答えている()。

「なぜ固定残業80時間にしたかというと、むしろ残業をもっと減らすため。月に10時間残業しても70時間残業しても給料は同じだから、当然効率のいいほうを選ぶだろうと」

(※)東洋経済オンライン「気鋭アパレル『初任給40万円・残業80時間』の真意」〈https://toyokeizai.net/articles/?/743488〉(4月8日閲覧)

また、『週刊プレイボーイ』本誌が残業時間について問い合わせたところ、同社広報から次の回答があった。

「現状、店舗スタッフは平均残業時間10~15時間、本社でも多くて40時間となっております。加えて制度上、弊社では45時間以上の残業が発生した場合、時間超過した本人と上長が話し合いを行ない、上長が改善案を起案、承認の後、改善プランに沿って残業削減のための取り組みを各管理者の責任の下、行なっています」

つまり、同社では80時間もの残業の実態はなく、万が一、長時間の残業が発生した場合も、改善のための仕組みが整っているとの趣旨である。

しかし、この回答に対して、法律の専門家の見解は批判的だ。労働者側の立場で残業代の支払いを巡る係争に多く携わってきた弁護士の渡辺輝人氏は、「今回の件には多くの問題がある」と指摘する。

■残業代と区別せよ! 最高裁の厳しい判決

まず、前出の記事で主張されていた、「残業してもしなくても給与が変わらないのなら、残業を減らすように努力するはず」という固定残業代の「負のインセンティブ」の議論について、渡辺弁護士はこう疑問を呈する。

「それは労働者に業務量と労働時間の裁量があって初めて成り立ちます。だから、欧米でも労働時間規制の緩和は、管理職やクリエーティブ職など一部のホワイトカラーに限定的です。

それが欧米などの『ホワイトカラーエグゼンプション』であり、日本での『高度プロフェッショナル制度』です。裁量のない仕事において、固定残業代制度だと残業が減るという根拠はないのです」

この指摘に対して、同社は店舗スタッフも含む全社員に当事者性を持った働き方を実現できるだけの裁量を持たせていると回答。しかし、主張どおりの働き方だったとしても、根本的な問題は変わらないと渡辺弁護士は言う。

「そもそも80時間の残業は、企業が法定時間を超える労働を課す際に労働者と結ぶ『36協定』の通常の上限(月45時間)すら上回ります。長時間残業の実態がないとしても、そうした危険な働き方を可能にしていること自体が問題です」

渡辺弁護士によると、固定残業代の起源は朝鮮戦争(1950~53年)の時代にさかのぼる。当時は戦争特需により、製造業を中心に残業が急速に増えた。しかし、残業代を天井知らずに支払い続けられるほどの儲けはない。そこで一定額の割増賃金を定めることで、時間外労働の対価とする企業が現れたのだ。

「当時は日本全体で賃金が上がり続けた時代でもあり、『残業代が十分に支払われない』という不満を抱く人はいませんでした。しかし、バブル崩壊後に事情は変わります」

長引くデフレに日本中があえいでいた2000年代半ば、固定残業代制度を導入する企業が急増したのだ。

「当時は空前の就職氷河期にあり、賃金水準は長らく低いまま。その中で平均より高い給与で求人をする企業がいくつも現れ、かなりの話題を集めました。

しかし、実態は固定残業代による基本給の水増し。残業の抑制どころか、『固定分は働け』とばかりに長時間労働が横行した結果、ブラック企業の『定額働かせ放題』に悪用されて社会問題となりました」

本来であれば基本給として支払われるべきところ(上)を固定残業代を導入することで、「○時間まで残業させ放題」という状況にしている企業が多くあるという 本来であれば基本給として支払われるべきところ(上)を固定残業代を導入することで、「○時間まで残業させ放題」という状況にしている企業が多くあるという

そのため、近年の残業代の支払いを巡る裁判では、「固定残業代は実質的に基本給であり、残業代は別途、きちんと計算して支払うべき」という判例が増えてきている。

「この流れは、トラック運転手の残業代を巡る昨年の『熊本総合運輸事件』における最高裁判決で決定的になりました。かいつまんで説明すると、基本給と残業代を明確に『判別』できない賃金体系、つまり固定残業代は、時間外労働に対する対価として認められないとの判断が下ったのです。

このように、すでに固定残業代には大変厳しい判例が出ており、そもそも採用すべきではない賃金体系となっているのです」

しかし、なぜ固定残業代には、それほど厳しい司法判断が下されているのだろうか。

「ブラック企業に悪用されることだけが、固定残業代のリスクではありません。労働者の権利が奪われてしまうことが最大の問題なのです」

■固定残業代は労働者の権利を奪う!

「労働の市場価値を突き詰めれば、1時間当たりの単価(時給)に換算されます。そして、その計算に残業代は含まれない。

基礎賃金(基本給に各種手当を加えた1日当たりの金額)を所定労働時間(月給制の場合はひと月分の所定労働時間の合計)で割って時給額を算出し、法律で定められた25%以上の割増分を加えた金額が残業代の1時間分となります。

これと別に賞与(ボーナス)も基本給から計算する。つまり、給与の計算では基本給がすべてのベースなんです」

そのため、企業と労働者の賃金交渉では基本給の額が焦点になるという。

賃金交渉の焦点になるのは基本給。そもそもの基本給が低ければ、それに基づいた残業代も賞与も低く抑えられてしまう 賃金交渉の焦点になるのは基本給。そもそもの基本給が低ければ、それに基づいた残業代も賞与も低く抑えられてしまう

「しかし、固定残業代のように残業代を含めた金額が実質的な基本給となれば、労働者は給与の時給換算が困難になります。基本給だけで計算すべきなのか、残業代も含めて計算すべきなのか。自分の市場価値は、どちらで考えるべきか。

そもそも給与が高い理由は、優秀な人材だからなのか、いつでも長時間労働させられるからなのか、その判断も企業側しかできない。

そして、市場価値がわからなければ、自分の働きぶりに対する適切な給与額もわからない。だから、労働者側からの賃金交渉がしにくい。これが『固定残業代は労働者の権利を奪う制度』と断ずる理由です」

もともとTOKYO BASEはアパレル業界の平均を超える給与の高さで知られ、賞与額も基本給ベースではなく、個人成績と連動しているという。批判の多い今回の施策に踏み切ったのも、業界水準以上の給与額を実現するという、強いこだわりがあるからこそだったのかもしれない。

「私はTOKYO BASEが特別にブラックな企業だとは思いません。ただ、脇が甘い。

『固定残業代が実質的な基本給である以上、残業代は別途支払われるべき』という判例を踏まえると、『残業を減らすため』といった導入意図は、企業側が基本賃金として固定残業代を支払うつもりと説明しているようにしかとらえられない。これは残業代請求の裁判で証拠になります。私が同社の顧問弁護士だったら、絶対に言わせないでしょうね。

もっとも、似たような賃金体系でありながら問題になっていない企業はほかにもたくさんあります。今回の件は、あらためて固定残業代の問題を可視化し、労働者に警鐘を鳴らしてくれた意味では良かったと思います」

弁護士の渡辺輝人氏 弁護士の渡辺輝人氏

●渡辺輝人(わたなべ・てるひと) 
1978年生まれ、千葉県出身。上智大学法学部卒業後、2005年弁護士登録(京都第一法律事務所所属)。日本労働弁護団全国常任幹事。過労死弁護団全国連絡会議所属。日本労働法学会会員。残業代計算ソフト『給与第一』開発者。労働者側の立場で賃金請求のみならず解雇、雇い止め、労災・過労死などの事件を扱う。

小山田裕哉

小山田裕哉おやまだ・ゆうや

1984年生まれ、岩手県出身。日本大学芸術学部映画学科卒業後、映画業界、イベント業などを経て、フリーランスのライターとして執筆活動を始める。ビジネス・カルチャー・広告・書籍構成など、さまざまな媒体で執筆・編集活動を行っている。著書に「売らずに売る技術 高級ブランドに学ぶ安売りせずに売る秘密」(集英社)。季刊誌「tattva」(BOOTLEG)編集部員。

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