佐藤喬さとう・たかし
フリーランスの編集者・ライター・作家。著書は『エスケープ』(辰巳出版)、『1982』(宝島社)、『逃げ』(小学館)など。『週刊プレイボーイ』では主に研究者へのインタビューを担当。
日本語は、大昔はどのような姿だったのか? 文献の記録がない時代はどんな発音で、どんな単語があったのか? そんな疑問に答える本が出た。それが『日本語・琉球諸語による歴史比較言語学』だ。
われわれが話す日本語の祖先の姿に迫る画期的な方法をまとめたこの本の著者のひとりは、なんとパリ在住のフランス人、トマ・ペラール氏。異国の言語学者が明らかにした、日本語の古の姿とは?
――なんだか難しそうな本ですが、タイトルの「歴史比較言語学」ってなんですか?
トマ・ペラール(以下、ペラール) 異なる言語どうしを比較したりすることで、言語がたどった歴史的変化を探る学問です。
その代表例が「祖語」と呼ばれる共通の祖先を復元することで、例えば英語やフランス語、ロシア語などは「印欧祖語」と呼ばれる共通の祖先から枝分かれしてできたことがわかっています。
――日本語にもご先祖がいるんですか?
ペラール はい、実は今の日本列島で話されている言葉と奄美・沖縄で話されている「琉球諸語」は、共通の祖先から分岐して進化してきたことが解明されているんです。
――あ、奄美や沖縄の言葉って方言じゃないんですね。
ペラール 言語学ではそう考えられています。そしてかつて存在したその言葉、つまり日本語や琉球諸語の祖語を「日琉祖語」と呼びます。
大昔、例えば3000年くらい前の日本列島では、さまざまな言葉が話されていたと考えられています。でもそのうち日琉祖語だけが生き残り、今の日本語に進化したということなんですね。
――えっ、日本にあったのは日本語だけじゃないと?
ペラール そうです。これは日本列島に限りませんが、言語は生まれては消え、時には分岐して増えて、と常に変化する存在なんです。
ちょうど生物と同じですよね。新種が生まれることもあれば、絶滅する種もたくさんいる。あるいは人間とチンパンジーのように、同じ祖先から分岐して別の種になることもある。
言語も同じで、今の日本語はたまたま日琉祖語が"繁殖"して日本中で話されるようになっただけで、消滅の危機にあるアイヌ語のように、ほかにもたくさんの言語があったと推測されています。
――びっくりです。でもどうして日本語の祖先がこんなに広まったんでしょうか。
ペラール 最も有力な説は、日琉祖語を話していたグループは稲作を日本列島に持ち込んだ人々と同一で、つまり生き延びるのに有利だったからというものです。
それまで日本列島に住んでいて、別の言葉を話していた縄文人たちが住めない場所に住んだりしてどんどん増えていき、それに合わせて日琉祖語も広がっていったという仮説です。
――じゃあ、日本語の祖先は海の向こうから来たと?
ペラール はい。それが最も妥当な説です。
というのも、日琉祖語の姉妹言語が朝鮮半島の中心部に存在した跡があるんです。例えば、今の日本語の「兎」「角」に当たる単語を含む地名が古代に存在したんですね。
しかし、その言語が後にどう進化したかはわかっていません。ただ、今の朝鮮半島で話されている言語は日琉祖語とは別系統の言語ですから、少なくとも朝鮮半島で滅んだことは間違いない。つまり、日本語の祖先は大陸のどこかからやって来て、朝鮮半島を経由して日本列島に定着し、広まったわけですね。
――どうやってそんなことを解明したんですか?
ペラール 私たちの分野では、さまざまな言語の歴史をまとめて表す系統樹を作ります。
先ほど言語の歴史を生物の進化にたとえましたが、生物学では進化の道筋を示す系統樹を作りますよね。
例えばヒトを含む類人猿には共通の祖先がいて、まずそこからオランウータンが分岐し、次にゴリラが分岐し、残った種がさらにチンパンジーやヒトに分かれていったというふうに。
言語も同じです。沖縄や奄美諸島で話されている琉球諸語は日本語とは別の言語、つまり動物でいう別の種だと見なすことができるのですが、両者は3~6世紀くらいに分岐したと考えています。
――なぜそんなに細かいことまでわかるんですか?
ペラール 単語や文法の変化に着目するんです。例えば琉球諸語と8世紀の日本語を比較すると、8世紀の日本語ではすでに消えつつあった特徴が琉球諸語には残っているんですね。それはつまり、7世紀にはもう琉球諸語と日本語が分かれ、それぞれが独自の進化を始めていたということです。
一方で、琉球諸語と日本語を細かく検討すると、稲についての言葉が共通していることもわかります。それはつまり、稲作が日本列島に伝えられた紀元前10世紀から紀元後3世紀頃の時点では分岐していなかったことを意味します。
だから、ふたつの言葉が分かれたのは3~6世紀くらいだと推定できるんですね。分岐が起こった場所は九州でしょう。
――すごい。そんなことまでわかってるわけですか。
ペラール ええ。ただし、過去の変化をたどるのは簡単ではありません。例えば遠く離れたふたつの地域の言語に共通点があったら、それらの祖語にも同じ特徴が見られると思いますか?
――もちろん。同じ祖語から進化したから同じ特徴を持っているんですよね?
ペラール 確かにそういう場合も多いんですが、必ずしもそうじゃないんです。一例を挙げると、いわゆる「ズーズー弁」は東北の方言にも島根県の方言にも共通して見られるんですが、これはそれぞれの地域で独立して進化したことがわかっています。
というのも、言語の進化はランダムに起こるわけじゃなくて、どの地域でも起こりやすい変化があるんです。例えば、どの言語でも「ハ行子音」は消えやすいことがわかっています。
――ハ行子音?
ペラール 英語で時間を意味する「hour(アワー)」は最初のhを発音しませんよね。これがハ行子音です。hourはフランス語だと「heure(ウール)」と言うんですが、これもやっぱりハ行子音は発音しません。でも、これらの元になった初期ラテン語の「hōra(ホーラ)」ではhを発音していたようです。
じゃあなぜhなどのハ行子音が時間を経るにつれ消えやすいかというと、発音するとわかりますが、喉の奥で微妙な音を出すだけで聞こえづらいから。このように、言語の変化には普遍的な法則があり、こうしたものも考慮しながら祖語や言語どうしの系統関係を解き明かさなければなりません。
――ところでフランス人のペラール先生はなぜ日本語の研究を?
ペラール 子供の頃からアジアに興味があって、大学で日本語と日本文化を専攻したのがきっかけでした。
やがて日本語の歴史的変化に関心が移ってこの分野に入ったのですが、研究を始めてびっくりしたのは、日本の研究者は日本語の起源にあまり関心がないこと。文献でたどれない時代の言葉についてはあまり研究がないんですね。
だから私は文献以前の時代の言葉を研究できる歴史比較言語学を専門にしたのですが、これはヨーロッパでは盛んである一方、日本では21世紀に入って下火になりました。
実は歴史比較言語学による日本語研究は海外にはけっこうあるのですが、ほとんど英語の論文で、日本の先生たちは知らないことが多かった。
それもショックでしたね。海外の研究者は服部四郎(20世紀の言語学者。東京大学名誉教授)らの優れた日本の研究者に負うところが大きかったのに、日本人がそれにあまり注目していなかったわけです。
――どうしてなんでしょうか。
ペラール ヨーロッパの言語は共通の祖先から進化してきたので歴史比較言語学の方法が使いやすいけれど、日本語は系統関係のある言語が少なく、当てはめづらいと思われていたからではないでしょうか。
でも、言語が常に変化しているのは、ヨーロッパでも日本でも同じなんです。ならば、日本語に対しても歴史比較言語学は有効に違いない。私はそう思って、日本語を対象にした歴史比較言語学が知られるよう、積極的に日本語で論文を書いています。言葉の面白さは地球のどこにいても変わりませんからね。
●トマ・ペラール
フランス国立科学研究所・東アジア言語研究所専任研究員、国立東洋言語文化学院講師。専門は言語学。特に、日琉語族の歴史的研究を行なっている。著書に『フィールドと文献からみる日琉諸語の系統と歴史』(分担執筆、開拓社)など
■『日本語・琉球諸語による歴史比較言語学』
平子達也、五十嵐陽介、トマ・ペラール著
岩波書店 3960円(税込)
言語の研究のうち、言葉が歴史的にどのようにして変化してきたかを解明するジャンルを「歴史比較言語学」という。最新の研究成果に基づき、日本語や琉球諸語の例を多く取り上げて歴史比較言語学の手法を示す概説書
フリーランスの編集者・ライター・作家。著書は『エスケープ』(辰巳出版)、『1982』(宝島社)、『逃げ』(小学館)など。『週刊プレイボーイ』では主に研究者へのインタビューを担当。