川喜田 研かわきた・けん
ジャーナリスト/ライター。1965年生まれ、神奈川県横浜市出身。自動車レース専門誌の編集者を経て、モータースポーツ・ジャーナリストとして活動の後、2012年からフリーの雑誌記者に転身。雑誌『週刊プレイボーイ』などを中心に国際政治、社会、経済、サイエンスから医療まで、幅広いテーマで取材・執筆活動を続け、新書の企画・構成なども手掛ける。著書に『さらば、ホンダF1 最強軍団はなぜ自壊したのか?』(2009年、集英社)がある。
昨年5月に新型コロナが5類に移行し、もう街中はアフターコロナのムードだが、まだ終わっていない闘いがある。
それは、日本中が未知の感染症に混乱する中、緊迫するコロナ病床で現場を指揮し、正しい情報を世間に懸命に伝えようとSNSで発信し続けた岡 秀昭医師と、そんな彼にいわれのない誹謗中傷を送り続けた匿名アカウントたちの裁判。その死闘の400日について直撃した。
昨年5月に新型コロナが感染症法上の5類に移行してからもうすぐ1年2ヵ月。約4年に及んだコロナ禍が終わり、日常を取り戻したかに見える日本で、今なお"コロナの亡霊"との死闘を続けている、ひとりの感染症専門医がいる。
埼玉県川越市にある埼玉医科大学総合医療センターの総合診療内科・感染症科で、コロナ禍の当初から治療の陣頭指揮を執り続け、メディアやSNSを通じて正しいコロナ関連情報の発信にも取り組んできた岡 秀昭教授だ。
2019年末に中国の武漢で初めて確認され、瞬く間に世界規模のパンデミックを引き起こした新型コロナウイルスを巡っては、当初から、この未知の感染症の認識や、大規模な感染対策の是非、ワクチン接種などで意見が対立し、社会が大きく分断。
その間、感染症対策の必要性やワクチン接種の有効性、安全性を訴える医師・研究者などに対し、SNSなど主にネット上での悪質な誹謗中傷や、一部専門家に対する殺人予告など、脅迫まがいの行為が繰り返されてきた。
岡教授はこうした書き込みに泣き寝入りせず、法的手段で徹底抗戦を貫き、これまでに60件を超える匿名アカウントの開示請求を行なってきた。
「ネット上の悪質な誹謗中傷に対して法的手段へと踏み切ったのは5類移行の前後、2023年の春頃でした。
当時、国内の感染状況が落ち着いてきていて、重症化して入院する患者数も大きく減っていたので、約2年ぶりに休暇を取って家族で旅行に行ったのですが、そのときの家族写真が誹謗中傷や脅迫まがいの言葉とともにSNS上で拡散されたのです。
これがきっかけとなって、私に対する攻撃が一気に激化。ネット上だけでなく、職場の病院への迷惑電話や、事実無根な虚偽情報の拡散が止まらなくなり、最近では殺害予告を受けたり、住所までもネット上に拡散されました。
日々、大量の悪意にさらされるストレスで、持病(指定難病のベーチェット病)も悪化しました。心が折れそうになり、これ以上、医師としての仕事を続けられないかもと思う日もありました。
もちろん、それ以前にも、コロナ病棟の取材で僕がテレビなどに出たり、多くの方に正しいコロナ情報を伝えたいという思いでYahoo!ニュースの専門家解説コメントなども引き受けていたため、コロナの感染対策に反対する人たちや、いわゆる反ワクチンの人たちから非常に多くの悪質な誹謗中傷を受けていました。
ただ、自分だけでなく家族にも危険が及ぶとなると、さすがに放置できません。
そこで、警察に通報して身辺の警護を依頼するとともに、こうした問題に詳しい弁護士にも相談して、悪質な書き込みをするアカウントへの法的手段に踏み切ったのです」
しかし、簡単に「法的手段を講じる」といっても、SNSなどネット上の誹謗中傷や脅迫はほとんどが匿名のアカウントによるもの。訴えようにも、まずはアカウント情報の開示をさせて本人を特定しなければならない。また、その過程で問題の書き込みやログが消去されてしまえば、具体的な被害の証拠が消えてしまう可能性がある。
「悪質な書き込みに関してはまず、プロバイダやサイトの管理者に対して、直接削除要請やアカウント情報の開示を要求しますが、応じてくれるケースはほとんどありません。
ちなみに、こうした投稿は特にXに多いのですが、買収されてTwitterからXになって以来、問題のある投稿のチェックを行なう部門の人員を大幅に削減したといわれていて、苦情への反応も非常に緩慢なんです。
また、殺害予告や、なんらかの危害を与える可能性をにおわせた脅迫的な投稿があった場合、警察に報告すると周辺の見回りなんかはしてくれますが、いきなり刑法犯の脅迫罪として捜査するといったところまでには至りません」
では、どうするのか?
「そこで、民法上の名誉毀損や刑法上の名誉毀損罪、侮辱罪、信用毀損罪、脅迫罪などに相当する、悪質な投稿が行なわれたサイトやプロバイダ管理者に対する『発信者情報開示命令』を裁判所に請求して、匿名アカウントの本人を特定する作業が、法的手続きの最初のステップになります。
ただし、表現の自由やプライバシー保護の問題もありますから、裁判所も簡単に『発信者情報開示命令』を出してくれるわけではありません。
こちら側で悪質な投稿のURLが入ったスクリーンショットを保存するなど、具体的な証拠をしっかり集め、誹謗中傷や脅迫が自分に対して向けられたものであることを客観的に証明した上で、裁判所が明らかな権利侵害を認定して初めて『発信者情報開示命令』が出ます。
そこで、医師としての本来の仕事の傍ら、弁護士やSNS上で協力してくれる方々の助けも借りながら、地道な証拠集めをコツコツと積み重ね、約60件の『発信者情報開示命令』を裁判所に請求しました。そして、そのほぼすべてで開示命令を勝ち取り、匿名アカウントの中の人たちを特定することに成功。
ちなみに、そんな発信者情報開示が認められた人たちの中で、私の措置に対し『言論弾圧のスラップ訴訟だ!』と主張する人たちがいるのですが、開示が認められたのは、裁判所が私に対する明確な権利侵害を認定したからです。
また、2022年10月1日に施行された『改正プロバイダ責任制限法』によって、裁判所は悪質アカウントの発信者情報開示だけでなく、サイト管理者に対する『プロバイダへのログ提供命令』や、サイト管理者・プロバイダに『発信者情報の消去禁止』も併せて命じることができるようになったので、悪質な投稿に関する証拠保全が以前よりやりやすくなっています」
そうして悪質な匿名アカウントの正体が確認できたら、次はどうするのか。
「その相手に対して、①投稿の削除、②正式な謝罪、③二度と繰り返さないという誓約、④賠償金の支払いの4つを求める内容証明付きの書面を送付します。
それに対する相手方の反応はさまざまですが、匿名性を盾に、壁に落書きをするような気持ちで誹謗中傷していた人なんかだと、特定された段階で態度を変え、素直に謝罪や賠償金の支払いに応じたり、話し合いの結果、示談となるケースも少なくありません。
相手が弁護士をつける場合もありますが、たいてい減額交渉してきます。裁判所が客観的に判断しているので、弁護士はもう勝てないってわかっているんです。
ちなみにその際、再び誹謗中傷を繰り返した場合には『賠償金を200万円に増額する』という条項を盛り込んで、再発を防いだりもします。
一方、要求が届いたことで、逆に誹謗中傷を激しくしたり、アカウント名を次々と変えてまでも悪質な書き込みと挑発を続けたりする人たちもいるので、その場合はまず、民事の『損害賠償請求訴訟』、そして提訴。現在、損害賠償請求訴訟が数件進行中です。
さらに悪質で執拗な書き込みを続ける相手には、刑法上の名誉毀損罪、侮辱罪、信用毀損および業務妨害罪、脅迫罪などの刑法犯として警察に告訴しています。そのうちすでに1件が先日、書類送検されて検察の起訴待ちという状況。自分としては、しっかり犯罪として裁かれてほしいと思っています」
コロナ禍では岡教授以外にも、多くの医師や研究者、国の専門家会議のメンバーといった専門家がネット上での悪質な誹謗中傷や殺害予告などの脅迫に遭ってきた。
「叩いても、叩いても」、いや、むしろ「叩けば、叩くほど」まるでゾンビのように次々と湧いてくる、執拗で悪質なSNS上の誹謗中傷に対し、なぜ岡教授は膨大な労力を使ってまで徹底抗戦の態度を貫き続けるのか?
「よく『賠償金目当ての小遣い稼ぎではないのか?』という批判を受けます。しかし、これは完全なる誤解です。弁護士に依頼して、裁判所に発信者情報開示命令を出してもらい、特定されたアカウントとの示談交渉をするだけでも弁護士費用などを含め、かなりのお金が必要なので、たとえ賠償金を得られたとしても、1、2件の請求だと赤字になります。
私の場合、約60件の開示請求をまとめて行なったため、今のところ赤字にはなっていませんが、示談が成立しなかったケースについては、今後の訴訟費用も必要ですし、その間の労力や、心的なストレスの大きさを考えれば、とうてい割が合う話ではないと思います。示談金をお小遣いだとは思えません。
それでも、私が泣き寝入りせず、こうして闘い続けているのは、この先、次の時代を担ってゆく若い感染症専門医たちに、自分と同じような思いをしてほしくないからです。
私は街の小さな酒屋の息子として生まれ、高校3年生のときに父をがんで失いました。それがきっかけで、医師を目指しました。
医学部に入った当初は外科医を志していたのですが、まるで職人の徒弟制度のような外科の雰囲気になじめず、専門を血液内科に変更。
そこで、"血液のがん"と呼ばれる白血病の患者さんに多く接する中で、抗がん剤治療で白血病が治っても、免疫低下による感染症で亡くなる方が多いことを知りました。そして、独学で感染症の勉強を始めたところ、当時の日本の医学界に感染症の専門家がほとんどいないということを知ったんです」
その後、岡教授は横浜市立大学大学院を経て、ちょうどその頃、神戸大学で本格的な感染症専門医の養成をし始めようとしていた岩田健太郎教授の下で、感染症専門医としての研鑽を重ね、東京高輪病院感染症内科部長などを経て、2017年に埼玉医科大学総合医療センターに着任。
そのわずか3年後の春に、日本で新型コロナの大流行が始まると、同病院の駐車場スペースに特設されたコロナ専門病棟の責任者として、臨床の現場の最前線で新型コロナ患者の治療に当たってきた。
「流行の初期、この新たなウイルスに関する詳しい情報はまだ一切なく、有効な治療薬やワクチンもなかった。その頃の新型コロナは本当に恐ろしい病気で、重症化に至り亡くなる方も今とは比べものにならないほど多かった。
当時のコロナ病棟は文字どおり戦場のような状態で、医師や看護師などのスタッフは体力だけでなくメンタルも削られながら、必死に働きました。
そういう、当時の臨床の現場を知らない人の中には、昨年の5類移行後に普通の生活が戻ったのを見て『コロナは大したことない!』とか『本当は厳しい感染対策もワクチン接種も不要だった』などと騒ぎ出す人も多い。
しかも、その中に現役の医師や研究者までいることが、いまだに日本の医学界で感染症に関する正しい理解が、きちんと共有されていないという残念な現状を表しているといえるかもしれません。
一方で、少し前まで日本の医学界では軽視され、まるで落ちこぼれのようにすら扱われてきた感染症専門医の必要性や感染症全般に関する専門的な知識の重要さが、コロナの経験を経て再認識されるようになったことは、ポジティブな変化だと思います。
最近では、埼玉医科大で育った私の後輩たちも含め、日本でも次の世代の感染症専門医が生まれ始めている。
この国がまた、新たなパンデミックに見舞われたとき、最前線で闘ってくれることになるはずの彼らが、そのとき自分のようにネット上の誹謗中傷で苦しむことのないようにするためにも、私はSNS上の悪質な誹謗中傷や脅迫に対して正面から闘い続けているのです」
●岡 秀昭(おか・ひであき)
日本大学医学部卒業、横浜市立大学大学院で博士号取得。神戸大学病院感染症内科、東京高輪病院感染症内科部長などを経て、現在、埼玉医科大学総合医療センター総合診療内科・感染症科教授、診療部長、院長補佐
ジャーナリスト/ライター。1965年生まれ、神奈川県横浜市出身。自動車レース専門誌の編集者を経て、モータースポーツ・ジャーナリストとして活動の後、2012年からフリーの雑誌記者に転身。雑誌『週刊プレイボーイ』などを中心に国際政治、社会、経済、サイエンスから医療まで、幅広いテーマで取材・執筆活動を続け、新書の企画・構成なども手掛ける。著書に『さらば、ホンダF1 最強軍団はなぜ自壊したのか?』(2009年、集英社)がある。