前川仁之まえかわ・さねゆき
1982年生まれ、埼玉県立浦和高校卒業、東京大学理科一類中退。人形劇団、施設警備などを経て、立教大学異文化コミュニケーション学部に入学。在学中の2009年、スペインに留学。翌年夏、スペイン横断自転車旅行。大学卒業後、福島県郡山市で働いていたときに書いた作品が第12回開高健ノンフィクション賞の最終候補に。近著は『人類1万年の歩みに学ぶ 平和道』(インターナショナル新書)
元日の大地震から約9ヵ月が経過したが、能登半島の復興への道はまだ先が見えない。今回、ノンフィクション作家の前川仁之氏が珠洲市、輪島市を中心に自転車を使って奥能登取材を敢行。目をそらしてはいけない現地の今をルポした。
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「地震の影響で滑走路に小さな亀裂があり、着陸後、滑走中に揺れることがございます」
着陸態勢に入り、飛行機内のアナウンスが告げる。薄い雲を抜けると窓外にギザギザした山林が見えた。輪島漆器をはじめとする伝統工芸を支える能登ヒバの林だ。9月7日午前10時、のと里山空港に降り立った。
初日の目的地、珠洲(すず)市中心部に向かう珠洲道路は奥能登の内陸部を貫く動脈だ。その立派な道路の随所に亀裂や地割れが残る。登坂車線に盛大な地割れが生じたり、50㎝もの隆起で地層がむき出しになったりで、通行止めの所もある。
加えて、そこかしこで山肌がえぐれて赤土があらわになっている。集落に通じる道などには、フレコンバッグを積んで応急的に土砂を抑えているため道幅が減じている所もある。豪雨に襲われたら、また通行止めになりそうだ。
道中に点在している集落を見る。屋根瓦の破損やブルーシートでの補修、ひどいもので棟が波を打っている家が見られる程度で、倒壊した家屋は見当たらない。
だが、見た目の被害は軽微でも、屋内はひどそうだ。「道の駅桜峠」のトイレは仮設のみ使用可能となっていた。能登町と珠洲市の境に近い「駒渡(こまわたり)ポケットパーク」は、トイレが使用不可で、水道関係は復旧が遅れているものとみえる。
ただ、こうした不便はあるものの、路面に注意さえすれば、能登瓦の黒い屋根が並ぶ美しい集落風景を楽しむことはできる。
なんだ、大したことないじゃないか―そんな楽観は、林道を使ってひと山越え、有名な景勝地・恋路海岸に出て間もなく覆されることになる。そこにあったのは「公費解体」の現実だった。
公費解体とは、地震で半壊以上となった建物を、地方自治体が所有者に代わって解体撤去する制度だ。
その進捗(しんちょく)状況は、8月末時点で石川県内全3万2410棟の想定数のうち、3396棟が完了したところ。完了率10.5%だ(『北國新聞』9月7日の記事参照)。
現場で働く男性はこう話す。
「うちは京都の業者で、6月から現場に入っていますが、(10%達成は)はっきり言って遅いと思います。予定では来年10月までに全部終わらせるっていう話です。最近は全国各地から業者が集まってきているので、ペースは上がると思います」
珠洲市に入ってすぐの宝立町(ほうりゅうまち)は、1階部分が崩壊した家や道路へ前のめりに倒れた家など、ひと目で全壊とわかる住宅だらけ。ガラスの破片などもそのままで、つい最近に大地震があったかのようだ。
そこから先は、瓦礫(がれき)と廃墟と大きく傾いた電柱が当たり前の光景になった。大半が津波ではなく、揺れの被害だ。
珠洲市で2泊し、被災と復興の状況を尋ねて回り、3日目はまた内陸部を経て輪島市へ移動する。
輪島市の中心部は、珠洲市以上の惨状を呈していた。公費解体の想定数は珠洲市の7195棟に対し輪島市は9685棟(前掲記事より)と、数字だけを見れば被害に大差はないように思える。
が、海と山に挟まれ、いわゆるウナギの寝床式に細長い平地に家々が並ぶ珠洲市に対し、輪島は平野部が広い。そこにショッピングモールや「マツキヨ」や「しまむら」など、首都圏近郊の住人にもなじみの施設があり、ニュータウンもあれば伝統的な街並みもある。
倒壊したビルや、大火事の跡もあり、より都市型の被災に見えるのだ。その分、恐怖がより身近に感じられる。
前述のとおり公費解体は10%しか進んでいない。最寄りの大都市・金沢からの遠さ(輪島市、珠洲市共に100㎞以上離れている)と、半島ゆえのアクセスの悪さを前提にしつつ、ほかに何が公費解体を困難にしているのだろうか。
まず申請する被災者の立場から。手続きの際、建物の所有者確認は必須だ。ところが、奥能登の入り口、穴水(あなみず)町平野(ひらの)に住む女性はこう話す。
「このへんは昔から、息子にはここを、弟にはあそこを、って具合に、口約束でやってきたもんでね。登記上はずっと昔の人の名前になってたりして、難しいわ」
ほかも事情は似たり寄ったりだろう。過疎化が進み、もともと空き家になっていた所も多い。
手続きを助けるべく、珠洲市では毎週土曜日に司法書士による無料相談会が行なわれている。また7月1日付で、建物の体をなしていない物件に関しては、相続者等の同意書が不要となるよう、簡素化が進んでいる。
ただ、公費解体を申請しながらも、使える部分は残したいと考える人もいる。当然の人情だ。
珠洲市蛸島(たこじま)町の仮設住宅で暮らす西さんの自宅は「全壊。ま、立ってはいますけど、暮らせない状態」で、公費解体を希望している。
「半分は完全に公費解体だけど、生かせる部分は生かしたい。隣の家がぶつかって傾いている状態なんで、まずお隣さんを撤去して、それで直せそうなら残そうと。だから今はお隣さんの撤去待ちです」
パズルのように、順序よくやる必要が生じるのだ。
古い家、伝統的な街並みは、解体業者の苦労も大きい。現場入りして1ヵ月、珠洲市の宿舎から輪島市へ通う愛知県出身の男性はこう語る。
「路地が狭かったり、作業のやりにくい場所に建物があったりするケースが多かった。建物が傾いていて、動かすと倒壊事故が起きるような危険な所もあり、解体作業には神経を使います。1班は多くて6人で、4日に1件は壊さないと間に合わんといわれてるけど、輪島は仕分けが細かいし大変ですよ」
仕分けとは、解体ゴミの分別で、珠洲市で働く作業員も「選別が入ってなかなか進まん」とこぼしていた。
金沢から珠洲市宝立町の実家に帰省中に地震に遭い、92歳の母をおぶって山に避難した菅田康隆(やすたか)さんは、休みのたびに実家に通い続けている。
「家の罹災(りさい)判定は中規模半壊でした。直せるところは自分で直したんですが、キリがなさそうで、納屋(なや)と土蔵は5月に解体申請を出して、母屋(おもや)は、お盆に親戚が集まったときに相談して、こちらも解体を決めました。母は金沢市内の仮設住宅で暮らします。今は家具から畳まで家の中にあるものを少しずつ運び出しているところです」
珠洲市内には災害廃棄物の回収所が3ヵ所あるそうだ。被災者は、そこまでゴミを自力で持っていかねばならない。菅田さんはそのために、親戚と共同で軽トラックを1台買った。補助金などなく、自腹である。
筆者も1軒、持ち出しを手伝ったが、半年以上の雨漏りを受けた家具やゴミの異臭が服にこびりつく。これに水害が加わった後の作業となると、想像するのもしんどい。ちなみに輪島市では、分別し「災」マークをつけて表に置いておけば災害ゴミを回収してもらえる。
「家の再建は今のところ考えていません。母は高齢だし、金沢の仮設住宅で暮らせるので」(菅田さん)
一方、珠洲市蛸島町の櫻井さん宅はまだ新しい建物で、近所が軒並み全・半壊で仮設住宅へ移る中、自宅での生活を続けられた。そんな櫻井さんは周囲の解体が進んだ後の見通しをこう語る。
「公営住宅が建ったら戻ってこようかな、という話は聞きますけど、自分で家を建てようって人はほとんどいないかなあ。なんせ今、1坪140万円ていわれてるんで、とても手に負えん。皆さん高齢の方なんで、2000万円ほど借金する必要があるけどなかなか難しい。後継ぎの人でもおれば建てるんでしょうけど」
輪島市でも同様だ。筆者が泊まった「漁師のペンションハトヤ」の松村香保里さんは、再建する家は「3分の1あればいいほう」と予想する。
「平屋でも1000万円くらいはかかる。補助金が300万~400万円出たとしても、収入源が乏しい高齢者の方には厳しいと思います」
米価の高騰が庶民を苦しめているご時世のこと、農家の被害についても見ておこう。
能登町内陸部から輪島市に入って間もなく、「にほんの里100選」に選ばれた、棚田が美しい金蔵(かなくら)集落に入る。だが、遠目にも棚田は草ぼうぼうだった。
草刈り機の手入れをしていた久田さんに話を聞いた。戦中生まれの81歳だ。
「10個のため池を使って田んぼに水を回していたんだが、元日の地震で田んぼに亀裂が入って、水を入れてもたまらなくなった。30町歩(ちょうぶ・9万坪)ぐらいあったんだが、来年も田んぼはできそうにない」
酷な現実だ。ところがそんな状況でも、久田さんの奥さんは当たり前のように「ごはんだけでも食べていきなさい」と言うのである。遠慮したが、奥能登には優しい人が多いと実感する。
輪島市滝又町で暮らしていた71歳の中(なか)竜夫さんは、震災で約5町歩(約1万5000坪)の田を失った。
「これまでは、農業で年300万円の収入があったけど、それがゼロになった。米はいつできるかわからんから、秋には麦を植えてみようと思う」
一方、世界農業遺産に認定された棚田「白米千枚田」は、クラウドファンディングで集めた資金とボランティアの活躍で「1004枚中120枚」の田を復旧し、当地のわせ種・ノトヒカリの田植えに間に合わせることができた。しかし、ここも今度の水害で大きなダメージを受けた。
輪島市内、宿の近くのファミリーマートは夕方4時に閉店する―そんな非日常的な暮らしが続く中、地域の人びとや業者、旅行者に喜びをもたらすのはおいしい食事だ。感謝を込めて、1店紹介する。
珠洲市飯田(いいだ)町の「ろばた焼あさ井」には「震災で産まれた具だくさんスープ」というメニューがある。白菜、シメジ、ネギ、ニンジン、大根、豚肉などがゴロゴロ詰まって300円。店長の浅井誠さんに由来を尋ねた。
「元日の地震間もない頃、NPO法人の方々の滞在用にお座敷を開放していました。その間、仕入れできる食材は限られていましたが、栄養だけは取ってもらいたいと思って作ったメニューがこれです。それを商品化したんです」
この店は、地域でいち早く営業を再開した。若い男女の従業員がにぎやかに働いている。
一方、ショックから立ち直れない観光業者もいる。珠洲市で泊まった「灯りの宿 まつだ荘」は、ヒバのお風呂といい、手作り行灯(あんどん)などの調度品といい、こだわりに満ちた宿で、何より主人の松田恭造さんが「泊まりのお客さんで年間3000食、日帰りで800食、ほとんど自分が担当していた」という食事が売りだ。
だが残念なことに、いまは素泊まりのみで、食事の再開時期は未定となっている。松田さんは「もうそんな力ないわ」と苦笑する。妻の由美子さんが申し訳なさそうに言葉を添えた。
「お仕事で何ヵ月かごとに泊まりに来られるお客さまが言った『来るたびに、どこも変わってませんね』ってひと言が、すごく頭に残っています」
輪島といえば、奈良時代に起源を持つ、伝統の朝市だ。元日の地震で火災に見舞われ、朝市通りの一帯は焼失してしまったが、露店がすべて失われたわけではない。7月10日から市内のショッピングモール「パワーシティ輪島ワイプラザ」で毎日「出張朝市」が行なわれている。
朝市は本来、露店でやるもの。それをスーパーの館内に間借りしてやっているので、「クーラーが効いてて楽よ」と出店者は笑う。
輪島塗の器やブローチなどの品を並べる竹原多鶴(たづる)さんは「朝市が燃えた」という、メディアが使いがちな表現について、こう指摘する。
「朝市っていうのは、露店を指すんです。焼けた場所自体は本町(ほんまち)商店街で。だからホントは『朝市が売り場を失った』というほうが正しいと思う」
朝市自体はどこでも生まれ変われる。ただ、かつての姿は戻らないかもしれない。
「以前は細い路地がたくさんあって、風情を感じられたけど、次の建物が建つときは、都市計画で区画整理して、4mの道路を通すみたいだから、今までどおりの形にはならないと思う」(竹原さん)
輪島市内に事務所を構える木戸瓦商会の木戸雅彦さんは47歳で、妻とふたりの子供と4人暮らし。震災後は金沢市内に避難し、そこから輪島市内まで通って仕事を続けていたが、妻の仕事も再開し、仮設住宅に入れることになったので輪島に戻ったそうだ。瓦業者から見た街の状況を尋ねた。
「ブルーシートで屋根を覆う応急修理が終わった段階から、直しのフェーズに入った気はしてます。残る人は残るし、出ていく人は出ていく。残る人のためには、直すしかないじゃないですか。そうしないと先に進めないから」
取材中も仲間への冗談を織り交ぜる、ムードメーカー的な気配りを持つ人だ。そんな木戸さんが静かに怒りをあらわにしたのは、筆者が「復興」の一語を口にしたときだった。
「まだ復興って段階じゃないでしょ? だって住みたくても、家が直せないから帰ってこられない人がいるわけで。まだここは、ほかの大地震の1ヵ月後みたいな状態ですよ。
なのに、全国ネットのテレビ局はそのことを報道しない。むしろもう復興しちゃったみたいな雰囲気を出してるじゃないですか。祭りが開催されたとか、学校が再開しましたとか。
地元から言わせてもらうとふざけるな、です。"復旧"すらしてないのに、"復興"のフェーズに入れるかと。
まずは道路を直せと言いたくなりますよ。こんなくちゃくちゃな道を、小学生が通ってるんです。子供を連れて帰ってきたの間違ったかな、と考えてるくらいです」
どんな形の復興になるにせよ、解体撤去だけは絶対に行なわねばならない。
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能登半島を観測史上最大規模ともいわれる豪雨が襲ったのは、9月21日から22日にかけてのことだった。
「うちは幸い被害はありませんでしたが、道がふさがってしまい、22日の昼まで輪島の外に出られませんでした。
災害ゴミの回収は止まっちゃってますし、ほとんどの川が氾濫して、洪水に遭った地区は泥に漬かって大変みたいです」(前出・松村さん)
出張朝市が行なわれていたパワーシティ輪島ワイプラザも被害を受けたが、23日には13時から17時までの時短営業ながら再開した。だが、朝市に出店している竹原さんは嘆く。
「うちは高台にあるので、一時的に道がふさがって孤立しかけた程度で済みましたけど......露店の人たちはね、被災された方も多いじゃないですか。
せっかく仮設住宅に移ってこれからだっていうときにこの水害で、何もかも水に漬かって。地震のときよりひどいくらいです」
半島の端、という地理的条件を理由に、奥能登の状況を例外視して、自分事から遠ざける思考はたやすい。しかし、これから大災害が起こるたび奥能登と同様の事態が日本の地方で生じるだろう。傷だらけの半島をつなぎ留めておけるか。能登の被災は日本を試している。
1982年生まれ、埼玉県立浦和高校卒業、東京大学理科一類中退。人形劇団、施設警備などを経て、立教大学異文化コミュニケーション学部に入学。在学中の2009年、スペインに留学。翌年夏、スペイン横断自転車旅行。大学卒業後、福島県郡山市で働いていたときに書いた作品が第12回開高健ノンフィクション賞の最終候補に。近著は『人類1万年の歩みに学ぶ 平和道』(インターナショナル新書)