ジェームス・ハントとニキ・ラウダ、ライバル関係にあったふたりの天才ドライバーがしのぎを削った1976年のF1。今も語り継がれる伝説のシーズンをロン・ハワード監督が忠実に再現した映画が、現在TOHOシネマズ日劇ほか全国ロードショー公開中の『ラッシュ/プライドと友情』だ。

映画の公開に合わせて来日したロン・ハワード監督はこういった。

「実を言うと、僕も脚本のピーター・モーガンも、F1についてよく知らなかったんだ。だから、この映画を作る過程で僕たち自身がF1の魅力を発見し、それをスクリーンに表現しようと努力したんだよ」

この言葉を聞いて驚いた。なぜなら、この映画を初めて試写室で観たとき、素晴らしい出来栄えと全編から伝わる70年代のF1への深い愛情に、「この映画を作った人は絶対、熱心なF1ファンに違いない……」と、勝手に思い込んでいたからだ。

でも、実際はそうじゃなかった。むしろ、ハワード監督がF1のファンじゃなかったからこそ、普通の人が見た「F1の魅力」を発見し、それを見事に描き出したことで、この映画がF1オタクやマニアじゃなくても楽しめる最高の作品に仕上がっているんだということに、そのときようやく気づいたのだ。

ではこの映画が教えてくれるF1の魅力とはなんなのか? そして、イマイチ人気が盛り上がらない今のF1に「足りないモノ」とは?

まずひとつは、F1という極限の競争のなかで浮かび上がる「人間たち」の魅力だ。

「ジョージ・ルーカスがF1の大ファンでね。彼に連れられて何度か観に行ったことはあったから、F1がセクシーでクールだというのはなんとなく知っていたんだ。

でも、僕がこの映画を撮ろうと決めたのは1976年のF1で起きた出来事があまりにドラマチックだったのと、主役のハントとラウダのキャラが際立っていて、しかも対照的な点にひかれたから。この人間的なドラマをF1という舞台で描けば、誰も見たことのない作品ができると思ったのさ」(ハワード監督)

自動車という「機械」が占める要素も少なくないF1だが、そこで戦う人間たち、つまりドライバーやチーム関係者の内面や、彼らのキャラが伝わってこなければ、見る人が感情移入するのは難しい。

その点、この映画が描く70年代F1は、ドライバーのキャラが今よりもずっと多彩で人間くさい。セナ、プロスト、マンセル、ピケあたりが活躍していた80年、90年代のF1にも、そういう雰囲気が残っていたような気がする。

それでは最近のドライバーはキャラが弱いのか? そういう面があるのも事実だが、ドライバーたちの人間的な部分が「うまく伝えられていない」という面もあると思う。時速300キロの猛スピードで生死の境を駆け抜けている頭のオカシナ連中が個性的じゃないなんてアリエナイ。

もうひとつ映画を観て思ったのは、70年代のマシンのバラエティ豊かな個性とカッコよさだ! 主役が乗るフェラーリやマクラーレンはもちろん、「タイレル6輪車」なんて奇想天外なデザインもあった。

またチームの力の差も、今のような「超格差社会」じゃなかったので、レースでも思わぬ番狂わせが期待できた。昔はよく、「レースは筋書きのないドラマ」と言ったものだが、最近のF1は圧倒的な速さでセバスチャン・ベッテルが4年連続でチャンピオンを獲得している状況……。

結局、F1のおもしろさとは、そこで繰り広げられる人間のドラマがいかに「魅力的」で「予測不能」かどうか。そこに「感情移入できる対象」が存在するかってトコにかかっているんじゃないだろうか?

実際にサーキットに行っても、走り抜けるマシンをとらえられるのはほんの一瞬。それでもレースがおもしろいのは、モータースポーツが「妄想スポーツ」だからだと思う。

自動車レースの最高峰という華やかな舞台で繰り広げられる人間ドラマに、それを見る側が思いっきり「妄想」を働かせ、自分だけの世界を膨らませるのがモータースポーツの醍醐味であり、F1の楽しさなのだ。

だからこそ、F1は最高にワクワクするカッコいい妄想の宝庫であってほしいと思う。『ラッシュ』の世界がそうであったように!

(インタビュー・文/川喜田 研)