15日、強豪・コートジボワールを相手に初戦を迎えるW杯。過去の最高位・ベスト16を超える結果を期待したいもの。しかし、サッカーファンとしても知られる人気コラムニストの小田嶋隆氏は、今の日本代表に「バルサの迷妄そのまま」と嘆いている。
*** 「ブラジルW杯壮行試合」と銘打たれた5月27日のキプロス戦は、恐れていたとおりパスが回るだけで得点の入らない“無限迂回サッカー”になった。
私は、今季のスペインリーグ終盤に失速したバルセロナのサッカーを思い出した。
バルサは、華麗なパスを回しながら、ある時期を境に、さっぱり勝てなくなった。原因はわからない。敵チームの研究が実を結んだのかもしれない。メッシが不調だったからかもしれない。あるいはチームに高齢化の波が押し寄せていたということなのかもしれない。とにかく、点が取れない。で、単純なセットプレーであっさり失点する。こういうゲームを繰り返しながら、シーズン終盤のバルサは、脱落していった。あれほどのメンバーを揃えたチームでさえ、ほんのちょっとしたことで瓦解(がかい)してしまう。サッカーというのは、本当に恐ろしいゲームだ。
闘莉王を呼ばず、栗原を外し、細貝の代わりに山口を呼び、豊田でなく大久保を選んだザッケローニの意図は、たぶん「高さ」よりも「アジリティ(敏捷[びんしょう]性)」を、「フィジカル」よりも「スキル」を、「カウンター」よりも「ポゼッション」を重視するといったあたりにある。
ということは、バルセロナのサッカーそのままではないにしても、ラインの統率や高さで敵の攻撃をはね返すよりは、ボール保持率を高めることで相手の攻撃機会を減らし、速攻や個人技で敵チームの守備を破壊するよりは、パス回しによるリズムの変化で得点機会をうかがうサッカーを志向する、ということなのであろう。
ザックジャパンは「バルサの迷妄」を再現?
うまくいってくれれば良いのだが、パスサッカーは、バルサの例を見てもわかるとおり、脆(もろ)い。
スティーヴィー・ワンダーに『パスタイム・パラダイス』という佳曲がある。JASRACがうるさいので歌詞の内容を詳しく紹介することは避けるが、大意としては「一日の大半がヒマつぶし(←パスタイム)という天国で暮らす人々」の人生の虚(むな)しさを歌った、なかなかに哲学的な一曲だ。
歌の中で、スティーヴィーは、人々を惑わす「パスタイム」が、過ぎ去った栄光であり、無知に彩られた古い記憶である旨を示唆している。なんと。バルサの迷妄そのままではないか。
これは、ヤバいかもしれないぞ。
でなくても、「ボールを保持している限り失点することはない」というポゼッションサッカーのお題目は、実のところ、綱渡りの芸人が「ロープの上に足がある限り決して落下することはない」と言っているのとそんなに違わない。言ってみれば言葉のアヤだ。
足が離れるや、綱渡り芸人は、転落する。とすれば、「守備」とは、「敵にボールが渡った時にどうするのか」を考える施策であり、綱渡りになぞらえて言うなら「足がロープから外れた場合の安全策」こそが真の守備戦略だということになる。
が、ザックはどうやらそれを無視するつもりでいる。つまり、われわれはロープの上を走るしかないということだ。
まあ、落ちることを考えないからこそ、落ちずに走り切るという考え方もアリといえばアリだ。
私は、目をつぶって見守ることにする。幸運を祈る。
●小田嶋隆(おだじま・たかし) 1956年生まれ。 近著に『ポエムに万歳!』(新潮社)。浦和レッズファンとしても知られる