酷暑が続くなか、高校野球も日増しに盛り上がってきた。その夏ごとに甲子園の顔、ヒーローが生まれ、頂上を目指して熱い戦いが繰り広げられる。
1980年、あの夏の甲子園は左腕エース・愛甲猛(あいこうたけし)擁(よう)する横浜高校が栄冠を勝ち取った。“甲子園のアイドル”として人気を博した愛甲氏だが、プロ野球を経てほぼ四半世紀ーー今だからこそ語れる“青春”、野球漬けだった当時を振り返った。
――甲子園で全国制覇した愛甲さんですが、当時は悪ガキだったようですね?
愛甲 いやいや。横浜高校は野球部の合宿所があって、40人くらいの部員が入れるんです。僕は3月の合格発表の日からいきなり合宿入りを言われたので、慌てて準備に戻り、勤めに出ていた母に「お世話になりました」と書き置きを残して家を出ました(笑)。
――休日はありましたか?
愛甲 月3回だけ。土曜か日曜の午後から休みになることがありました。翌日の練習試合か、学校の始業までに戻ればよかったので、朝まで遊んでましたね。普段の自由時間は一日30分くらいでしたから。
――たったそれだけ!?
愛甲 1年のときは大変でしたよ。当時は上下関係も厳しかったですからね。
――夏の一番の思い出は、やはり3年夏の甲子園ですか?
愛甲 そうですね。(荒木)大輔の早実との決勝戦はもちろんですが、雨の中で終盤逆転して勝った準決勝の天理戦も思い出深いものがあります。
――甲子園以外では?
愛甲 毎年、神奈川大会が始まる直前の強化合宿がすごかったんですよ。毎朝5時半に起きて、まずグラウンドで1死一、三塁でのサードファウルフライとか、特殊なケースの練習。始業時間になると、主力組は追浜(おっぱま)球場で守備の連携などを練習する。
放課後はグラウンドに戻って、夜まで打ち込み。夜は毎日4人くらい指名されて、社会人の日産の室内練習場で150キロ近く出るマシン相手にバッティング。帰ると、投手陣は野島という所までランニングをして終了です。
サボってポルノが当時のスタイル?
――まさに野球漬け!
愛甲 しかも、神奈川大会が始まってからも続くんです。それで大会序盤に負けるようなら話にならない、と。渡辺元智(もとのり)監督は僕らに「照準を準々決勝に合わせろ」と言っていました。練習が軽くなるのは準々決勝の1週間前です。
――遊ぶ時間など、とてもなさそうな感じですが?
愛甲 いや、大会前はそうですけど、それ以外の時期は「ケガの治療で病院に行ってきます」って出校届を出して、治療を終えたらどっかで遊んだりね。スキあらばそういうことはしていました。今だから言うけど、ポルノ映画を見たり(笑)。当時は映画館で一服できたし。
――そ、それは!(笑)
愛甲 オレだけじゃなくて、みんな大なり小なりそういうのをやっていたんですよ。もう尋常じゃないスタミナでね。よく「不良だから、練習せずに遊んでたんだろ?」って誤解されますけど、そんなことはない。10時間練習したら10時間遊ぶ感じ。当時の若いヤツらは、パワフルでした。
――ところで、現在は指導する機会などはあるのですか?
愛甲 野球少年を教えています。子供はちょっと教えただけですごく伸びるので楽しいですよ。ただ、「なんでこんな教え方をされたんだ?」と疑問に思うときもあります。
――もし指導者になったら、どういう野球をしますか?
愛甲 僕は「点を取られなきゃ負けない」という考えです。横浜高校、そしてプロとやってきて、やはり守りのいいチームが勝つと実感しました。
――けっこう、意外です。
愛甲 弱い高校が強い高校に勝つ方法として、相手チームが負けた試合を見て、敗因を徹底して追究すると活路を見いだせると思います。相手の負けるところを見ていると負ける気がしなくなるし。
――プラス思考ですね。
愛甲 例えば、確率が1パーセントしかなかったとしても、「最初にその1回が来ればいい」と考えるだけで勝負事って変わりますよ。あとは、いかに正しい準備をするか。それを教えたいですね。
――高校野球の指導者としての姿も見てみたいです!
■愛甲猛(あいこうたけし) 1962年生まれ、神奈川県出身。横浜高校の左腕エースとして1980年夏の甲子園で優勝。同年秋にドラフト1位でロッテに入団し、4年目の野手転向後一軍に定着。96年に中日移籍後は代打で活躍した。著書に『球界の野良犬』(宝島社)などがある。
(取材・文/キビタキビオ 取材協力/寺崎 敦)
■週刊プレイボーイ34・35合併号「野球好き上司と盛り上がって出世しよう!夏の甲子園 伝説の瞬間」より(本誌では、年代ごとの名勝負をピックアップし詳説!)