“超人”ハルク・ホーガンが先月、久々に来日し、WWE日本ツアーの大会ホストとしてリングに上がった。還暦を迎えたが、200センチ、137キロの肉体は相変わらずのド迫力! 1980年代、新日本プロレスにおけるアントニオ猪木との歴史的一戦や“大巨人”の衝撃秘話、そして、自身の復帰への思いを語った!!
――ホーガンさんは今年2月、WWEに復帰されましたが、それ以前は何をやっていたんですか?
ホーガン TNAという団体に4年いたよ。ほかには、フロリダ州タンパでレストランやバーを出店している。タンパで開催したビーチパーティには4000人の客が集まったんだぜ。
――4000人とはすごいですね! 先日のWWE日本ツアーでは大会ホストとして登場しましたが、選手としてのカムバックは?
ホーガン 俺ももう60歳になったけど、このくらいの年齢でリングに上がっていたレスラーはたくさんいるだろ? ルー・テーズだってリック・フレアーだってそうだったじゃないか。俺は過去に背中の手術を9回もして、これからまたメキシコでヒジの手術をしないといけないんだけど、それが無事に終わればカムバックして(現WWE世界ヘビー級王者の)ジョン・シナを破ってチャンピオンに返り咲くかもしれないぜ! 俺はレスリングが大好きなんだ。日本でもまたファイトしたいね。
――ぜひ観たいです! ホーガンさんの日本での試合といえば、アントニオ猪木との激闘が思い出されます。
ホーガン 猪木は誰からもリスペクトされていたよ。ファンからも若手レスラーからも。俺も猪木からはいろんなことを学んだ。例えば、ケガや病気を抱えていても試合を休まないこと。猪木はケガをしていても何も言わずにリングに上がっていたよ。あの集中力はすごかったね。
――「第1回IWGP」決勝での猪木戦(1983年6月2日、蔵前国技館)を覚えていますか?
ホーガン もちろん! IWGPのベルトを最初に巻いたのはこの俺さ。豪華なベルトだった。黄金でダイヤモンドが輝いていた。IWGP決勝の注目度は高かったね。実はあの試合の前日、俺が泊まっていたホテルの部屋に猪木から電話があったんだ(ニヤリ)。
――え? 試合の前日に?
ホーガン ああ、猪木が言うんだ。「ミスター・ホーガン、明日の試合、俺はケンカマッチを仕掛けるから」って。
――ホントですか!?(汗)
ホーガン だから俺はその言葉に従って、エプロンサイドに立つ猪木におもいきりアックスボンバーを見舞ってやったのさ。
――リング下に落下した猪木さんは頭を打ち失神。窒息防止のためセコンドが猪木さんの舌を引っ張り出すという結末で、「猪木舌出し失神事件」として語り継がれる衝撃のKOでしたね。
ホーガン あのとき、猪木の心臓がストップしていると聞いて、ホントにビックリした。思わずチビリそうになったよ。ドクターがリング上で猪木に蘇生措置を施すのを見て、さらに驚いたことを覚えている。
――結果として猪木さんは入院。長期欠場を余儀なくされました。
ホーガン 猪木はライバルだったけど、友人でもあったから心配したよ。ホテルに猪木のファンから「ホーガンを殺してやる!」なんて電話もあってね、翌日はホテルを変えることになったんだ。でも、俺は最初から猪木を病院送りにしてやろうなんて考えていないさ。たまたま当たり所が悪かったんだ。
シン、ハンセン、アンドレ……最強外国人レスラーたちの思い出
――ところで、日本では一時期、プロレスは人気面でMMA(総合格闘技)の後塵(こうじん)を拝しましたが、WWEはMMAと比較されることはあるんですか?
ホーガン 今のWWEは完全にエンターテインメントに徹して、全米で高い人気をキープしているよ。そういえば、何年か前、俺が新日本で蝶野(正洋)と試合をしたことがあったろう?
――2003年10月13日の東京ドーム大会ですね。
ホーガン あの大会では何試合かMMAの試合もあったけど、どれも観客は静まり返っていたよ。でも、俺と蝶野の試合はドームが沸き上がったもんな!
――盛り上がっていましたね。
ホーガン MMAの選手でも、例えばティト・オーティズやクイントン・“ランペイジ”・ジャクソン(ともに元UFC王者)ら、プロレスにも挑戦している選手はいるけど、スタイルの違いに戸惑っているね。プロレス、MMA両方で高いレベルの試合を見せるのは難しいことだよ。
――なるほど。
ホーガン MMAの選手はケガをしたらすぐに試合を休むじゃないか。レスラーはどんなに満身創痍(そうい)でもリングに上がってファイトしないといけない。一番の違いはそこかな。
――ホーガンさんが世界的にブレイクしたきっかけとして、映画『ロッキー3』(82年)への出演も大きいですよね。
ホーガン その頃には俺にもまだ髪の毛があったもんな(笑)。主演のシルベスター・スタローンはそれほど体が大きくないから、俺がさらに大きく見えてよかったよ。あの映画をきっかけにプロレスに興味を持ってくれる人も増えたから、業界にとってもよかったよね。
――ホーガンさんが新日本でトップを張っていたのはまさにその時代ですが、巡業での思い出などありますか?
ホーガン 80年に初来日した当時は、タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンが外国人のトップだった。彼らは入場するとき、サーベルやブルロープでファンを蹴散らしていただろう。それを奇妙な光景に感じていたよ。なぜファンに手を出すのかな?って。俺はハンセンのタッグパートナーだった時期もあって一緒にそうするように指示されたけど、そういうのは好きじゃないと言って断ったんだよ。
――そういえば昔、『プロレススーパースター列伝』というマンガの中で、ホーガンさんとハンセンが意気投合してゲームセンターに行き、ホーガンさんが腕相撲マシンの腕を折ってしまうという場面があったんですが、あれは実話ですか?
ホーガン う~ん、腕相撲マシンを壊したことはなかったかな(笑)。
――実はもっとド派手なことをやらかしていたとか?
ホーガン まあな(笑)。ただ、それもファンタジーとしては面白いんじゃないかな。
――ホーガンさんはファンを蹴散らす代わりに、「一番!」と雄叫(おたけ)びを上げながらリングインするのが定番でした。その由来は?
ホーガン 日本で人気が出始めたとき、俺に対して「一番!」って言ってくるファンが増えてきたんだ。なんのことだろう?って思ってたけど、「一番」とプリントされたTシャツをファンからプレゼントされて気に入ったのさ。
ホーガン自身が選ぶベストバウト3、輝ける1位は?
――当時は、身長223センチのアンドレ・ザ・ジャイアントもいました。お酒の量も人間離れしていたとか。
ホーガン ある日、朝方に(新宿の)京王プラザホテルを出発してバスで地方会場に向かうことがあったんだ。その日はアンドレの誕生日だって誰かに聞かされてね、すぐにプレゼントを用意しようと顔なじみのホテルのスタッフに頼んで、彼の大好きなフレンチワインを12ボトル用意したのさ。
――12本も!
ホーガン それをバスで彼にプレゼントしたんだけど、出発して2時間もたってないときに、アンドレが「バスを止めろ!」って怒りだした。
――なぜですか?
ホーガン 彼は12本のボトルをもう全部飲み干しててさ、「トイレに行かせろ!」って怒っていたんだよ(笑)。強いお酒を一気に飲んだから、気が大きくなるのがいつも以上に早かったんだろうね。
――さすが“大巨人”です(笑)。
ホーガン そんな笑い話もあるが、ひとつ言っておく。アンドレは完璧だった! リングに上がれば最強だったし、リング外でもナイスガイだった。アンドレ以降もジャイアント・ゴンザレス(231センチ)やザ・グレート・カリ(215センチ)のような巨大なレスラーはいたけど、アンドレとはまた違うスタイルだった。アンドレはホントに強かったよ。
――アンドレを継ぐ者はいないと。では、ホーガンさんの後継者といえば誰になるんでしょう?
ホーガン 一番近いのはジョン・シナかな。ただ、彼はそろそろヒールに転向してもいいと思うよ。「レッツゴー・シナ!」って応援する観客も多いけど、半分の客は「シナ、SUCKS!」って罵(ののし)っているからね。俺だってかつてヒールに転向して「nWo」で大ブームを巻き起こしただろう。
――最後に、ご自身のベストバウトを3つ選ぶとしたら?
ホーガン そうだな、まず「レッスルマニア3」(87年)のアンドレ戦。その次が「レッスルマニア18」(2002年)のザ・ロック戦かな。でも、1位はやっぱりIWGPの猪木戦だな。
――猪木戦ですか!
ホーガン あの試合のインパクトはすごかっただろう。俺にとってもホントに特別な試合だったよ。
――猪木さんは今、北朝鮮に行っていて日本にいないんです。
ホーガン それは残念だよ。次に来日したときにはぜひ、猪木と対談したいね!
■ハルク・ホーガン 1953年生まれ。80年代前半は新日本プロレスを主戦場とし「第1回IWGP」を制した後、84年にWWF(現WWE)世界ヘビー級王座獲得。WWE年間最大イベント「レッスルマニア」ではアンドレ・ザ・ジャイアント、アルティメット・ウォリアー、ザ・ロックらあまたのライバルと激闘を残している。2005年、WWE殿堂入り。
(取材・文/大谷“Show”泰顕 撮影/乾晋也)