優美な演技でライバルを圧倒、いつのまにか観衆はチャスラフスカを応援していたという。アクロバティックな動きの10代の選手が活躍するのは彼女の引退後だ

1964年に開催された東京五輪から50年。今週はさまざまな記念イベントが行なわれているが、JOC(日本オリンピック委員会)の招待者にチャスラフスカというチェコ人女性がいる。東欧情勢に翻弄された美女と、日本人との固い絆の物語とはーー。

■日本刀を贈った熱烈ファンもいた

東京五輪から50年。10月6日から1週間、「1964東京オリンピック・パラリンピック50周年記念ウィーク」として、さまざまなイベントが開催されている。特に五輪開会式が行なわれた10月10日には、ハイライトとなる祝賀会が開かれ、当時のメダリストなど内外のスポーツ関係者が招待された。

では50年前に日本人はどのような目で彼らアスリートを見ていたのだろうか。東京五輪をカメラマンとして取材した、日本のスポーツ写真のパイオニア、岸本健氏は語る。

「まず、選手村で日本の選手と外国の選手が肩を組んでいるのを見て、みんなショックを受けた。それぐらい日本人は、まだ外国人を見慣れていなかったんです。だから、金メダルに輝いた女子バレーをはじめ、日本人選手の活躍を熱烈に応援する一方で、外国の選手たちのすごさにも純粋に感動して観ていましたよ。

そのなかでも強烈なインパクトを残したのが、マラソン優勝のアベベ(故人、エチオピア)、柔道無差別級優勝のヘーシンク(故人、オランダ)、そして女子体操のチャスラフスカ(チェコスロバキア、現在のチェコ)でした」

当時22歳のベラ・チャスラフスカは3種目で金メダルを獲得。その実力と美貌から“東京五輪の名花”と称された。

「だいたい外国人の女性なんて映画以外で見たことがなかったから、当時普及し始めていたテレビで金髪の女子選手が動くのを見ているだけでみんなもうドキドキ。ましてやレオタード姿なんて、どこを見ていいのかわからないぐらいでした(笑)」と言うスポーツジャーナリストの折山淑美(としみ)氏はチャスラフスカの魅力をこう語る。

「肉感的で、これが大人の女性なんだ、というイメージでした。当時の体操競技は、少女のような体形のコたちがアクロバティックな技を競う現在とはまったく違っていて、技自体は単純だけど、それをいかに正確に、優雅に演技するかで勝負していた。だから選手も程よく肉づきがあったし、伸ばした指先とかも本当にきれいだった」

感動し日本刀をプレゼント!

その魅力は、50年前の日本の男たちを完全に虜(とりこ)にした。選手村には山のようなプレゼントが届いたという。その後のチャスラフスカを長年にわたって取材してきたノンフィクション作家の長田渚左(なぎさ)氏はこう語る。

「日本のお土産がトラック1台分あったと言われていましたが、本人に聞いたら『もっとあった』と言うんです。実際、今でも彼女の家には“お土産の館”みたいなところがあって、そこに全部保存してあるんです」

なかにはとんでもないお土産もあったらしい。長田氏の近著『桜色の魂 チャスラフスカはなぜ日本人を50年も愛したのか』(小社刊)では、五輪会場の東京体育館で彼女の演技を見た25歳の男性が、福島の実家に戻って床の間に飾られていたホンモノの日本刀を持ち出し、それを彼女の元に届けたエピソードが紹介されている。今なら即刻没収間違いなしだが、チャスラフスカはなぜかその日本刀を機内持ち込みで大事に持ち帰っている。

第18回夏季オリンピック東京大会で床を演じるチャスラフスカ

前出の岸本氏も彼女に魅了されて、「追っかけになっちゃった」と笑う。

「その後、彼女を撮影しにプラハに行ったこともあります。お宅を訪ねると、お父さんが出てきてちょっとがっかり(笑)。でも彼女は歓迎してくれて、日本でもらった着物や扇子を出したり、レコードをかけて『上を向いて歩こう』を聴かせてくれたり。別れ際には日本語で『日本に行きたい』と言ってました」

栄光から一転、激動の人生へ

■弾圧、革命、入院、そして復活。日本へ!

チャスラフスカは4年後のメキシコ五輪でも4個の金メダルを獲得。体操界の女王として君臨する。しかし、その人生は東欧の激変に翻弄(ほんろう)されていった。

当時のチェコスロバキアは旧ソ連側陣営の社会主義国。ところが経済の行き詰まりなどで改革派の勢いが増していく。チャスラフスカもそんな改革・自由化路線に賛同し、それを推し進める『二千語宣言』に署名した。

そうした動きに業を煮やしたソ連陣営は68年、チェコスロバキアに軍事侵攻。力ずくで旧体制に戻されたチェコスロバキア政府は、超有名人のチャスラフスカに署名撤回を迫る。しかし彼女はこれを拒否。政府は体操界追放など、さまざまな弾圧を彼女に加えたのだ。そんな苦難の時代は約20年も続いた。

80年代に入ると、東欧諸国では再び民主化の動きが強まり、89年にはベルリンの壁が崩れ、チェコスロバキアでも共産党政権が崩壊。ここまでその意志を貫いてきたチャスラフスカは革命の英雄とたたえられ、大統領補佐官にも登用された。

だが、そんな彼女にさらなる悲劇が起きる。実の息子が父親(離婚した夫)を殺害したのだ。心労で入院したチャスラフスカは、14年間も外界との接触を一切絶ってしまう……。

チャスラフスカは東京五輪で個人総合のほか、種目別の跳馬と平均台でも金メダルを獲得した

なぜ日本を愛し、愛されたのか

だが、『桜色の魂 チャスラフスカはなぜ日本人を50年も愛したのか』によると、そんな激動の半生においても彼女と日本との関わりはさまざまな形で続いていた。日本の元・五輪選手たちがチェコ政府を説得し、ほぼ軟禁状態の彼女を来日させたこともあったし、彼女の身を案じプラハを訪ねる日本人も多かった。

そして、心の病から立ち直ったチャスラフスカは東日本大震災の半年後、16年ぶりに来日。翌年には被災地・岩手県の中学生26人をチェコに招いている。

なぜ、そこまで日本を好きになったのだろう…。前出の長田氏は語る。

「彼女は感受性の強い人。自分がどんな境遇でも日本人はこれだけ愛し続けてくれたのだから、自分もそれに応えたいという気持ちがあるのでしょう」

50年に及ぶ絆のきっかけとなった東京五輪。あらためて、東京五輪とはなんだったのか。

「当時の日本はまだ貧しかったし、運営も第2次大戦の経験者が中心でした。それだけに皆、必死だったし、ホスピタリティも懸命だった。だから外国の選手にもそれが通じた。『おもてなし』なんていう軽いものではなかったと思いますよ」(前出・岸本氏)

6年後の東京は、こんな物語を生むことができるだろうかーー。

■『桜色の魂 チャスラフスカはなぜ日本人を50年も愛したのか』長田渚左・著、本体1800 円+税、小社刊)、好評発売中

(写真提供/フォート・キシモト)