その瞬間、会場では大きな悲鳴が上がり、そして凍りついたように静まり返った。

11月8日、フィギュアスケートのGP(グランプリ)シリーズ中国杯・男子フリーの6分間練習。4回転ジャンプを跳ぶためにターンを繰り返してリンク中央を抜けてきた羽生結弦(ゆづる)と、手前側からジャンプの準備をして滑っていた閻涵(イエンハン)(中国)が激突した。

氷上に倒れ込んで動かないふたり。観客も関係者も呆然(ぼうぜん)として見守るしかなかった。

しばらくすると、閻涵が立ち上がり、救護員が駆けつけて様子を見るうちに羽生もなんとか立ち上がった。

互いにスピードが出ている状態での激突。受けたダメージの大きさは明らかで、筆者に限らず、会場にいた誰もがふたりの棄権は当然だと思ったはずだ。

だが、再開された6分間練習の途中から、頭に包帯を巻いた羽生がリンクに戻ってきた。出場を強行した羽生はジャンプで5回も転倒。演技後はフラフラの状態でリンクを後にした。

帰国後の診断で、ケガは5ヵ所で全治2、3週間と判明。最も心配された脳に異常がなかったのは不幸中の幸いだった。

このアクシデントであらためて認識させられたのは、フィギュアスケートが危険を伴う競技で、しかも、その危険性は年々高まっているということだ。

重大事故こそ起きてないものの、複数選手が同時に滑る練習時には、これまでも2010年GPファイナルの公式練習で髙橋大輔と小塚崇彦の激突が、08年全日本選手権6分間練習でも安藤美姫と村主章枝(すぐりふみえ)の激突などがあったし、ほかにもヒヤッとするシーンはたびたびあった。

五輪後は危機管理が疎かにされている?

選手たちは周囲に気を配ってはいるが、ジャンプなどを跳ぶ瞬間は自分だけに集中する。しかも、今のフィギュアは以前よりもスケーティングのスピードが上がり、高得点獲得のために技と技のつなぎにも複雑な動作を入れるようになっている。

今回も互いにターンをしながらジャンプへ入ろうとしていたため、相手の接近に気づくのが遅れたのだ。また、技や構成が高度になったことで選手の体力消耗も激しく、演技中のケガの可能性も大きくなっている。

日本スケート連盟の小林芳子フィギュア強化部長は、事故直後の状況について「出られる状況ではないと思った」と言いながらも、本人とコーチにその決断を任せた。コーチのブライアン・オーサーも「今はヒーローになるときではない」と出場を断念させようとしたが、本人の意思を覆(くつがえ)せなかった。

問題はチームドクターが帯同していなかったことだろう。応急処置を施したアメリカチームのドクターには、棄権を強く進言する権限はない。チームスタッフも医学的知識の不足があり、強権を発動して羽生を棄権させることはできなかった。

日本の場合、五輪が終わると一気に予算が減り、遠征スタッフの人数が少なくなるのが、どの競技でも通例だ。選手のコンディショニングを担当するトレーナーは帯同しても、ドクターに関しては主催者側が用意するのに任せるだけで、帯同しないのがほとんど。危機管理を疎(おろそ)かにしているともいえる。

世界と戦う選手をサポートするためには、健康・安全管理を徹底するための準備をしておかなければいけない。それはフィギュアだけでなく、他競技でも同じこと。今回の羽生のアクシデントは、その必要性をはっきりと認識させるものになった。

(取材・文/折山淑美)