現代プロ野球にはない「圧倒的な熱量」と「男くささ」「喜怒哀楽」にあふれていた80年代のエキサイティングリーグ、パ・リーグ

そこには「意地」と「こだわり」と「むき出しの感情」が存在したーー。必ずしもアスリートではなかった80年代パ・リーグの「野球選手」たちの名言の数々をオフシーズン特別企画でご紹介しよう。

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まずは世界の盗塁王・福本豊(阪急)。83年、MLBの通算盗塁記録を更新した際、政府から国民栄誉賞が打診されるも「あんなもんもろうたら立ち小便できなくなる」とこれを固辞。

物事に執着しない姿勢は88年の阪急最終戦後にも。上田利治監督がスピーチでこの日、引退する山田久志と共に「去る山田、そして福本」と確信犯的に言い間違えたところ、福本は驚きながらもあっさりと「監督がそう言ってしまったんならしゃあない」と、そのまま本当に引退してしまう。なんという潔(いさぎよ)さ!

そんなスピーチが西宮球場で行なわれていた同時刻。川崎球場で勃発した伝説の「10・19」からも数々の名言が。まずは第1試合、同点の9回表2死、倒れれば優勝を逃す場面で、引退を決めていた代打・梨田昌孝(近鉄)がセンター前に勝ち越しタイムリー。「最後の最後で打撃の極意をつかんだ」と語る梨田のこんにゃく打法は、確かにいつもより柔らかかった。

続く第2試合の9回表2死二塁、一打逆転の場面で近鉄・新井宏昌の打球をロッテ・水上善雄が横っ飛びで好捕。その際の「止める! 水上! Thisis プロ野球!」という朝日放送、安部憲幸アナの名実況は多くのファンの記憶に残った。

その一方で、この日、空気を読まずに本塁打を放って近鉄の優勝を阻止したロッテのダメ外国人は「マドロック立ち入り禁止」という詠み人知らずの落書きという形で川崎球場の負の遺産として記録された。

ねぇ監督、こんなもん食べてなんで痛風なの?

悲惨だったのは89年、近鉄に敗れて優勝を逃した西武の森祇晶監督。堤オーナーから「監督をおやりになりたければどうぞ」と球史に残る屈辱的な続投要請を受け、ちゃぶ台をひっくり返すものと思っていたファンから一斉に「受けるのかよっ!!」とツッコミを受けた。

ロッテの大エースといえば「人生先発完投」を座右の銘とする村田兆治。終生のライバル・門田博光(南海)はアキレス腱断裂から80年に復活。「ホームランなら足に負担がかからない。全打席ホームランを狙う」と狂気の宣言。

88年、その南海がダイエーに身売りした際、最終戦で杉浦忠監督が残した「長嶋君ではありませんが、ホークスは不滅です。ありがとうございました。行ってまいります!」との無念の挨拶(あいさつ)も記憶に残る名言だ。

そんな杉浦の立教大学の先輩、日本ハム・大沢啓二監督は82年プレーオフで対戦する自然食推進派の広岡・西武に対し「草の葉っぱを食べているヤギさんチームに負けるわけがねぇだろ」とハ厶屋らしい挑発。

その大沢の愛弟子・江夏豊もハムから西武に移籍した84年、遠征先の朝食会場で通風持ちの広岡達朗監督と席を同じくし、「ねぇ監督、こんなもん食べて監督はなんで痛風なの?」とイノセントすぎるディスり。江夏は広岡の怒りを買って干され、その年限りで引退。

そんな名言ぞろいの80年代パ・リーグには、壮絶な戦いを告げる鬨(とき)の声……いや、金森永時の「いやああぁっぁおっぉぉぉ!」という死球時の叫び声がいつまでもこだましたのだった。

(取材・文/パシフィック・リーグ1980研究会)