「人生で大切なものは、ガラガラの大阪球場と南海ホークスに教わった」という森脇健児氏 「人生で大切なものは、ガラガラの大阪球場と南海ホークスに教わった」という森脇健児氏

現代プロ野球にはない「圧倒的な熱量」と「男くささ」「喜怒哀楽」にあふれていた80年代、パ・リーグ。南海ホークス時代からの熱狂的なホークスファンとして知られる森脇健児(もりわき・けんじ)氏が、80年代パ・リーグの真実を明かす!

■観客のおっちゃんが面白くて球場に

―80年代、南海ファンとして熱心に大阪球場に通っていたそうですが、なぜパ・リーグに惹(ひ)かれたんですか?

森脇 うーん……なんでやろね(笑)。あの頃も大阪は阪神か巨人のファンばかりで近所に南海、近鉄、阪急と3つも球団があったのに球場はいつもガラッガラ。選手も巨人の「紳士たれ」とは対極にいる水島マンガさながらの個性派選手ばかり。阪急の森本(潔)なんて、ナイターでティアドロップのサングラスかけとったしね(笑)。

でも僕らは、プロ野球を観に行きながら、半分は観客のおっちゃんらが面白くて球場に通っていたところがある。昔、太平洋(クラブライオンズ)に梅田邦三って選手がおってね。プレー中にちんたら歩いてたんですよ。そしたら近くのおっちゃんが「おーい、梅田がナンバ(大阪球場)でウロウロすなー」ってね。すごいやろ? 「なんてレベルの高い笑いなんや!」ってシビレましたよ。

―日生、藤井寺、西宮、大阪、西京極と、演芸場に通うように球場で野次を楽しんでいたと。

森脇 そういうとこもあったね。南海には小寺(廣和)さんという応援団の方がおってね。後で話を聞いたら、南海は野球が弱い、球場もガラガラ、「そんな中でも来てくれるお客さんを我々が楽しませないと」という使命感を持ってやっていたんやて。

阪急・近鉄との野次り合いはおもろかったなぁ。今も残っている「近鉄電車ではよ帰れ~」を僕らが言うと、近鉄ファンが「近鉄電車は2階建て、南海電車はボロ電車~」と返してくる。阪急は高級住宅地やから「悔しかったら阪急沿線住んでみ~」ってヤジられたりね。皆、ええオッサンが言うんですよ(笑)。

―…ものすごい関西私鉄沿線あるあるの応酬ですね。

森脇 それでも最後には「お互い西武だけには負けんとこなー」言うて、思わずホッとして微笑んでしまう。そんなおもろくて優しい空気がありました。

俺らが応援せな誰が球場に行く?

―ですが、80年代の南海はすべてBクラスでしたよね。

森脇 阪急と近鉄は優勝しとるけど、南海は6位、5位、6位…とボロッボロですわ。でも球場に行ってしまうのは、俺らが応援せな誰が球場に行く?という使命感かもしれへん。球団が潰(つぶ)れるとか身売りするなんて夢にも思わないですよ。

ただ、ガラガラの球場でも門田がすさまじいスイングで常にホームランを狙うみたいに、選手はその一挙手一投足、手を抜かず男の勝負をしてくれた。それと、お客さんのほうをよう見てくれたしね…まぁ、後になって選手に聞いたら「大阪球場はスタンドが急勾配だからパンツが見える」って言うとったけど(笑)。

―南海は88年にダイエーに身売りし福岡へ移転します。どんな思いでしたか?

森脇 福岡移転と同じ年に僕も東京に進出してね。川崎なんかで試合は観たけど、やっぱり少し離れましたね。でもホークスが優勝した99年、僕は夢破れて関西に帰ってきた。最悪にヘコんでいる時ですよ。そんな時だから、よくもあんなに弱かったホークスが…って、唯一の希望になったんです。

福岡まで優勝決定戦を観に行ってね。それからも仕事はないし、一緒にやってた人がいっぱい映ってるテレビを観るのもイヤやから、ホークスばかり追いかけたなぁ。二軍戦も観に行った。ヒマやったからね(笑)。

―森脇さんの人生の中でも、ホークスの影響はかなり大きなものなんですね。

森脇 東京の人からすれば、僕なんかは都落ちという言葉で片づけられるかもしれへん。せやけどね……人はなんと言おうが、全国中継の巨人戦も、ガラガラの大阪球場も同じ公式戦や。一挙手一投足に手を抜かず“その場のお客さんを楽しませる”のがプロの仕事ですよ。

全国ネットでゴールデンの仕事もありがたいけど、関西の小さなお寺のビンゴ大会の司会の仕事も大事な試合。誰も見ていないようでも、真剣にやり続けていれば誰かの心に刻まれる。それはあの頃の南海ホークスが教えてくれたことやと思います。

●森脇健児(もりわき・けんじ) 1967年生まれ、大阪府出身。南海ホークス時代からの熱狂的なホークスファンとして知られ、『オールスター感謝祭』などではダイエー時代のジャンパーやソフトバンクのユニフォームなどを着て出演している