一般的に格闘家の全盛期は30歳前後と言われているが、40歳を迎えた吉田善行(よしだ・よしゆき)は現在6連勝中で、大晦日にさいたまスーパーアリーナで開催される『DEEP DREAM IMPACT 2014~大晦日special~』ではメインイベントを張る。その先に見据えるのは、世界最高峰UFCへの再挑戦だ。
四十路になり、なお夢を追い続ける格闘家の生き様をノンフィクション作家・田崎健太が活写した――。
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吉田善行がフロリダ州タンパにあるUSFサンドームの控え室に着いたのは、今年10月30日午後2時半のことだった。
翌日、吉田はこの会場で「タイタンFC」という団体のライト級タイトルに挑戦することになっていた。ライト級の契約体重155ポンド(70・2キロ)に合わせるため、吉田は前日に身体中の水分を抜き、5キロ以上も体重を落としていた。椅子に座っているのも辛く、ソファに横たわり、計量の時間がくるのを待つことにした。
ところが――。午後3時から、メディカルチェック、そして計量が始まると聞かされていた。同じホテルに泊まっていた選手たちと一緒のバスで会場入りしたのだが、一向にメディカルチェックが始まる気配はなかった。この部屋は冷房が効きすぎだと身体を縮めながら、吉田は目を瞑(つむ)った。しばらくして、吉田は明日の自分の試合相手、マイク・リッチの姿が控え室にないことに気がついた。
吉田の記憶によると、書類関係の処理が始まったのは午後5時過ぎ、メディカルチェックは5時半頃に始まった。リッチが控え室に姿を現したのは、他の選手のメディカルチェックが始まってからのことだった。
(時間通りに全てが行われていれば、こいつは試合放棄扱いになったんじゃないか?)吉田は軽い苛立ちを感じた。
計量が始まったのは午後6時半からだった。吉田の体重は契約通りの「155ポンド」。一方、後に体重計に乗ったリッチは「157ポンド」、2ポンド(約900グラム)オーバーだった。
試合コミッショナーが「2ポンドオーバーだから、タイトルマッチではなくなる」と話をしているのが吉田の耳に入る。ふざけるなと思った。こちらは必死で体重を落としてきたのだ。
「2ポンドぐらいならば落とせるだろう」
「2ポンドぐらいならば落とせるだろう」
吉田は英語で言い返した。彼はもともと英語が得意ではない。さらに減量の影響で頭は回らなかったが、通訳が同行していないため自らが主張するしかなかった。「今までサウナに入り、体重を落としてきた。身体がきついので他の部屋で休んでいたのだ」。これ以上、体重を落とすことはできないと、リッチとそのトレーナーと思われる人間は言い張った。
言葉は通じなくとも、必死で減量してきたかどうかは選手ならばわかる。控え室に入ってきたリッチの様子を見る限り、減量で苦しんでいたとは思えなかった。他の日本人選手たちは、不穏な空気を察知して吉田の周りに集まってきていた。彼らも吉田と同意見だった。
「やるのならば、3ラウンドか5ラウンドか?」
リッチのマネージャーが畳みかけてきた。タイトルマッチは5ラウンド制。タイトルマッチでないならば、5ラウンドを戦う必要はない。
「やるのだったら、3ラウンドだ。ただ、うちのマネージャーと相談させてくれ」
吉田は会話を打ち切った。とにかく、ホテルに戻って身体を休めたかった。
もともと、一階級上のウェルター級だった吉田にとって減量はひとつの課題だった。2012年10月、フィンランドで試合した際、計量後にいきなり食事を摂ったためか体重が戻らなかった。計量時の身体はスポンジを絞ったような状態だ。その後、水分、食事を摂ると10キロほど増えることもある。ところが、フィンランドでは2キロも体重が戻らず、勝利はしたものの最終ラウンドまで手こずることになった。
吉田は、ホテルに戻ると少しずつ水分を口にしながらマネージメントを担当しているシュウ・ヒラタに電話を入れた。ヒラタはニューヨーク在住の総合格闘技専門のマネージャーである。体重オーバーの相手に対して試合を受けなければならないのか?と吉田は訊(たず)ねた。ヒラタは、吉田は契約体重を守っている、試合を断ったとしても報酬も予定通り受け取ることができると答えた。
「じゃあ、今回は試合をしません」
吉田はきっぱりと答えた。選手が契約体重に落とせないまま試合をすることをキャッチウエイトと呼ぶ。吉田はキャッチウエイトで苦い思い出があった――。
勝てばそれだけ稼げるという世界
1974年、吉田は千葉県柏市で生まれた。柔道場を経営している親の影響で自然と柔道を始めた。いや、柔道以外の選択肢はなかったというのが正確な表現だ。小学生のとき、吉田は野球をやりたいとごねて泣いたが、父親は認めてくれなかった。
中学から講堂学舎に所属、世田谷学園高校3年生のときには団体戦の一員としてインターハイなど高校柔道の三大大会で団体三冠を成 し遂げている。ただ、同階級には後にシドニーオリンピックで金メダルを獲得する瀧本誠がいたため個人戦出場の機会は与えられなかった。
大学は東京学芸大学に進み、卒業後は都内の私立高校で柔道を教えていた。人生の転機となったのは、2001年5月のことだ。高校時代の親友、大山峻護(おおやま・しゅんご)が『PRIDE.14』に出場、ヴァンダレイ・シウバと対戦した。
「単純に面白そうだなと思った」とは、吉田の言葉だ。柔道の経験を職業に生かすことはできないかと考えていた彼は「東京イエローマン」というジムで総合格闘技を始め、05年2月、30歳のとき遅咲きのプロデビューを果たした。
ただし――日本の格闘技熱はそこから数年で急速に萎(しぼ)んでいくことになる。その熱を引き継いだのは、アメリカのUFCだった。吉田は自然と活動の舞台をUFCに移すことにした。08年5月24日、吉田は『UFC84』に出場、ジョン・コッペンヘイヴァーに開始56秒、スピニングチョークで勝利し、その強さを見せつけた。
UFCは吉田がこれまで体験してきた日本の格闘技の世界とは違っていたという。
「単純に待遇もいいし、ギャラもいい。本当のプロアスリートという感じで扱ってくれるんで、勝てば勝つほどファイトマネーが上がっていくんです。勝てばそれだけ稼げるという世界だった。本当のトップはペイパービューの収入とかもあるから本当に凄いですよ。1試合で億とか普通に稼いでいますからね」
UFCでは出場給、勝利給のほか、1大会につき「一本勝ち」「KO勝ち」などの特別ボーナスが存在する。当時、一本勝ちのボーナスは7万5千ドルだった。吉田は初参戦で一本勝ちしていたため「7万5千ドルもらえるな」と他の選手から冷やかされた。
しかし、特別ボーナスの対象は1大会につきひとり。賞金は同じ大会で一本勝ちした他の選手に渡ることになった。しばらくして日本に戻った吉田に小切手が送られてきた。特別ボーナスとして1万ドルが与えられたのだ。
戦い続けるのは――UFCに戻るため
勝てば勝つだけ、金が稼げる。強い人間が全てである――それは同時に、勝利に対する激しい執念がなければ生き残れない世界でもある。
吉田はUFC2試合目のジョシュ・コスチェック戦で1ラウンドで右フックを食らい、ノックアウトされる。続く3試合目、ブランドン・ウルフ戦ではフロントチョークで1ラウンド勝利した。
そして09年10月24日、4試合目のアンソニー・ジョンソン戦で吉田は躓(つまづ)いた。ジョンソンは契約体重から6ポンドもオーバーしていた。その後、彼がライトヘビー級にクラスを上げていることを鑑(かんが)みれば、ウェルター級で戦うことには無理があったのだろう。試合当日、普段の体重に戻った彼は明らかに吉田よりも身体が大きかった。
「断ることもできたんですよ。そのときは経験も浅かったので『やってやるよ』という感じでやっちゃったんです。今考えると、やるべき試合ではなかった」
吉田は1ラウンドでノックアウト負け。さらに痛めていた右足の半月板を決定的に悪化させ手術、長期欠場を余儀なくされる。その後、10年5月8日に復帰したが判定負け、2連敗となりUFCからリリースされた。
「あのときはスランプに陥っていましたね。膝を手術したのもあったし、試合勘がなくなっていたというのもあった。自分の戦い方がわからなくて…自分を完全に見失っていました」
相手選手と相対するときの“構え”から悩むようになった。サウスポーの吉田は右足を前に出して構える。その構えが正しいのか…身体の開き方、拳の位置など他の選手の構えを参考にしてみた。しかし、考えれば考えるほど、何が自分の最良の形なのかわからなくなった。
スランプから脱出したのは、2011年のことだ。
「ふと鏡の前で、構えていたら閃(ひらめ)いた。単純に自分のやりたいように殴りたいように、動きやすいように構えればいいんだと」
11年7月以降、吉田は国内外の様々な団体に出場し6連勝。一度も負けていない。
今年5月、吉田は40歳になった。格闘家としては最高齢の部類に入る。まだやり続けているのは、アメリカ――UFCに戻るためだ。
■明日配信予定の後編に続く!
■『DEEP DREAM IMPACT 2014~大晦日special~』 2014年12月31日(水) さいたまスーパーアリーナ 14:00開場 15:00開始予定 【DEEPライト級タイトルマッチ】 北岡悟(王者)vs吉田善行(挑戦者) 大塚隆史vs石渡伸太郎 横田一則vsISAO ほか、全20試合程度予定 詳しくはコチラ【http://www.deep2001.com/】
(取材・文/田崎健太 撮影/吉村輝幸)
■田崎健太(たざき・けんた)ノンフィクション作家。主な著書に『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』 (講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』 (講談社)などがある。