『詳説 新日イズム 完全版 闘魂の遺伝子がここにある!』 流智美・著 定価 1500円+税

新たなブームを巻き起こしている新日本プロレスの年始最大イベント、1月4日の東京ドーム大会が近づいてきた。棚橋弘至vsオカダ・カズチカのIWGPヘビー級選手権をメインに、中邑真輔vs飯伏幸太のIWGPインターコンチネンタル選手権など今年も黄金カードが目白押しだ。

最近は若い世代や女性ファンも急増中だが、1972年の旗揚げ以来、プロレス界を牽引し走り続けている新日本の歴史を知れば、「1・4」の楽しみも倍増すること間違いなし!

大ヒットDVDマガジン『燃えろ!新日本プロレス』の人気連載をまとめた『詳説 新日イズム 完全版 闘魂の遺伝子がここにある!』(流智美・著)から、ファンなら知っておくべきトリビア満載の基礎知識を紹介!

■ ストロングスタイルは「和製英語」だった!

新日イズムの根幹を成す「ストロングスタイル」という言葉は、もともと英語には存在しない。その反対の意味を持つ「ショーマンスタイル」という言葉もなかった。似たようなニュアンスを表す単語はなんだったかというと、前者は「本格派」であり、後者は「ショーマン派」だった。

ストロングスタイルという言葉が“つくられた”のは72年の夏頃、新日本と全日本が誕生した時期で、東京スポーツの「プロレス特集号」が紙面で盛んに使い始めた。

ライバル全日本との差別化をはかるためにつくられた言葉でもあり、「新日本がやっているプロレスこそ本物・本流であり、全日本のプロレスはショーマンシップが主体の見せ物」というイメージをファンに植えつけたのである(全日本にとっては非常に迷惑な仕分けではあるが…)。

そして、ストロングスタイルの象徴だったのが“プロレスの神様”カール・ゴッチ。その強さのあまりアメリカマット界で孤立していたゴッチとアントニオ猪木の師弟関係なくして、この概念は生まれなかった。ストロングスタイルの原点は「道場における練習の重要性」というゴッチの揺るぎないポリシーにある。

IWGPは「タイトル」ではなかった!

■IWGPは「タイトル」ではなかった!

70年代、新日本の看板タイトルといえば「NWFヘビー級選手権」だった。NWFはNWA、AWA、WWWF(現WWE)のアメリカ3大メジャーに次ぐ第4勢力として誕生した団体。当時、3大メジャーと交流できず興行の目玉となる世界タイトルを保持していなかった新日本は、このNWF王座にターゲットを絞る。

73年12月10日、新日本は王者ジョニー・パワーズを招聘(しょうへい)、猪木が見事王座を奪取し、新日本に念願のシングル王座をもたらした。以降、猪木はストロング小林や大木金太郎、タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンといった国内外の強豪を相手に防衛を積み重ね、その試合内容によってNWF王座の権威を高めていった。

80年12月、新日本は「世界マット統一」をぶちあげる。それは「アジア、中近東、欧州、中南米、カナダ、米国の6地域で予選リーグを行ない、勝ちぬいた代表者が決勝リーグを闘って真の世界一を決める」という壮大なプランで、それこそが「IWGP」だったのだ。

新日本はIWGP開催にあたって、興行の看板であるNWF王座ほかすべてのタイトルを封印し、83年5月に『IWGP決勝リーグ』は開幕。優勝決定戦は猪木とハルク・ホーガンの間で争われ、ホーガンのアックスボンバーによって猪木が病院送りになった「舌出し失神事件」はあまりにも有名だろう。

その後、IWGPは87年の第5回を最後にリーグ戦としての形を終え、タイトル化された。以降30年近い年月が経った今でも日本マット界の看板ベルトとして健在だが、ベルトの権威を永久に維持していくためには、そんなIWGP創設時の初心を忘れないことが重要だろう。

マイクアピールの元祖は?

■マイクアピールの元祖は?

今でこそマイクアピールはプロレスラーにとって欠かせない要素のひとつだが、日本プロレスの時代はタブーとされていた。その禁を破ったのはアントニオ猪木だ。

70年4月15日、札幌中島体育センターで猪木はクリス・マルコフと対戦。60分三本勝負で1—1からの3本目、猪木がコブラツイストで追い込んだところにマルコフのセコンドが乱入し、凶器で猪木の額を割ってマルコフが反則負けとなった。

試合後、マルコフ勢が控室に逃走すると、猪木は猛烈な怒りをあらわにしてマイクを握り、こう絶叫した。「あいつら、もう一回呼んでこい! 半殺しにしてやる! 半殺しだ!」

これは、リング上の攻防以外にもレスラーの器量によってはマイクという新たな武器を持つことができるという、ファンにとって目からウロコの体験であった。そして新日本旗揚げ以降、長州力が藤波辰爾に向けて言い放った「俺はおまえの噛ませ犬じゃないぞ!」など数々の名マイクアピールが生まれていったのである。

東京ドームで復活した「闘いの原風景」

東京ドームで復活した「闘いの原風景」

プロレスのリングは四角いのに、なぜRING(円)と呼ばれているのか? その起源ははるか昔のヨーロッパにあり、地べたで闘う競技者を見物する人々が自然と「輪」を形成したことによる。そこから闘いの場が「リング」と呼ばれるようになったのだ。

現在のようなリングが本格的に組まれるようになったのは19世紀後半、プロレスがアメリカに輸出されてからのことで、観客が試合を見えやすいように4本のコーナーポストを立ててロープで各ポストを固定し「三次元の戦場」をつくった。以降、プロレスは大衆娯楽として20世紀にかけて大いに繁栄していった。

その神聖なるリングを「破壊」しようとしたのがアントニオ猪木だ。87年4・27蔵前国技館、マサ斎藤との一騎打ちは死闘の様相を呈し、逆上した猪木が唐突にターンバックルを外し、リングを完全なノーロープ状態にしたのである。さらに同年10月4日、遺恨深まる両者は巌流島で決闘。リングは設置されたものの戦場は再三リング外の草むらに及び、2時間5分14秒で猪木が勝利している。

そして89年4月24日、新日本初の東京ドーム大会で猪木はついに「闘いの起源」に到達する。旧ソ連の柔道金メダリスト、ショータ・チョチョシビリとの異種格闘技戦でノーロープ円形リングを設置、「リングの原風景」をよみがえらせたのだった。

■入場テーマ曲はご法度だった!

レスラーの入場時に「テーマ曲」がかかるようになったのは、74年9月15日の後楽園ホールが最初だった。国際プロレスに来日したスーパースター・ビリー・グラハムの入場に合わせ、101ストリングス・オーケストラの演奏する『ジーザス・クライスト・スーパースター』が流されたのだが、当時のファンには衝撃的な演出だった。

日本プロレスと国際プロレスの2団体時代には、プロレスの生観戦は中年層のやや高価な娯楽であり、テーマ曲のような「楽しいノリ」は皆無で会場にミュージックなどまったく無縁、ご法度の時代だった。選手がゆっくりと花道からリングに上がるとき、通路の奥から少しずつ「馬場ッ!」「猪木ッ!」といった歓声と拍手が沸き起こり熱気が拡散していくーーそれが入場テーマの代わりだったのだ。

ビリー・グラハム以降、最初に定番化したテーマ曲といえば77年2月、全日本のリングでミル・マスカラスの入場に使われた『スカイ・ハイ』。ドラマチックな旋律とともにマスカラスは“仮面貴族”ブームを巻き起こした。

全日本による、この新しい演出は新日本を大きく刺激した。77年秋、モハメド・アリの伝記映画『アリ/ザ・グレーテスト』が日本でも封切られ、その主題曲『アリ・ボンバイエ』が猪木にプレゼントされたのを機に、これを入場テーマ曲にアレンジしたのがご存じ『炎のファイター』である。以降、長州力の『パワーホール』や前田日明の『キャプチュード』など数々の名曲が生まれ、テーマ曲はプロレス会場に欠かせない演出となり現在に至っている。

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『詳説 新日イズム』は、50の項目で新日本の歴史や神髄を徹底検証、さらに「海外関連団体ヒストリー」としてNWA、AWA、WWF、カナダ、メキシコ、韓国など世界のプロレスと新日本の関わりまで詳述。また、30ページのボリュームで「入場テーマ曲大図鑑(昭和編)」を特別収録している。初心者からマニアまで納得の新しいプロレスの教科書だ。

『詳説 新日イズム 完全版 闘魂の遺伝子がここにある!』流智美・著定価 1500円+税

(構成/週プレNEWS編集部)