1月4日の東京ドームでは久々に新日本プロレスのリングに登場し「毒霧」を披露。“東洋の神秘”は健在だ

東京・飯田橋で“東洋の神秘”ザ・グレート・カブキが営む「BIG DADDY酒場 かぶき うぃず ふぁみりぃ」。店主が焼酎片手に豪快エピソードを披露してくれた。

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昭和39年に16歳でデビューして約30年たった40代半ばの頃、そろそろ引退を考えたけど次に何をやろうか決まらなかったんだよね。

手っ取り早くちゃんこ屋でもと思ってるうちに49歳になって、ヤバイなと感じてたら、ちょうど誕生日の前日の1998年9月7日に後楽園ホールで試合があった。じゃあ49歳と364日で引退しようと。その後、飯田橋にこの店を出してもう15年になります。

お酒はもともと好きだったね。僕は宮崎県延岡市の生まれだけど、中学に入ると村祭りの青年部の宴会に参加してましたよ(笑)。

子供の頃から母親が飯の炊き方を教えてくれてたし、延岡は魚が美味いから鯵(あじ)寿司や鯖(さば)寿司も自分でつくってた。15歳で日本プロレスに入ってから2年半はちゃんこ番をやってたし、包丁さばきは得意でしたよ。

僕のお店にはちゃんこが3種類あります。鳥の水炊き風は「オリエンタル・クロー」。キムチ味は「赤い毒霧」。カレーちゃんこ味は「華麗」に舞う「連獅子」。みんなグレート・カブキに因(ちな)んだ命名だね。

アメリカ時代に知ったレストランの味を再現した「ガッデムポテト」もプロレスに因(ちな)んでいる。試合中のアクシデントでキックやパンチが相手の急所に入ってしまうことを「ポテト」と言うんですよ。やられた選手が「ユー・ガッデム・ポテト・オン・ミー!(急所に入れたな!)」なんて言うと、「アイル・センド・ユー・ア・レシート?(領収書やろうか?)」って言い返したりね。

調理法はじゃがいもをマッシュポテトにして、ひき肉とベーコンを炒めたのを混ぜ込んで、上にチーズをかけて焼く。タバスコをかけると美味しいよ。

「全日本時代は、いつもハンセンとブロディと食事に行っていた」

僕も若い頃はよく飲みました。新宿の居酒屋でビール5、6本と日本酒を一升飲んだ後、ゴールデン街でウイスキーを1本空けて、仕上げにジンライムとかを4、5杯。翌朝起きたらお金を払ったかどうか憶えてなくて、次の日に同じ店を回ったこともあった。ちゃんと払ってたけどね(笑)。

アメリカをサーキットしてた頃も楽しかった。クリーブランドからデトロイトまでは150マイルくらいあるんだけど、ドライブの間、ボボ・ブラジルなんて紙袋に入れたウイスキーの「カナディアン・クラブ」をずっとラッパ飲み。2時間かからない内にボトルが空いちゃうんだ。

この店にはレスラーもよく来ますよ。スタン・ハンセンは来日するたびに遊びに来てくれる。玄関先に彼のサインが入ったカウボーイ・ハットがあるんだけど、よくお客さんがそれを被って写真を撮ってる。

フランク(ブルーザー・ブロディ)とも仲がよかったね。80年代後半、僕がダラスにいたとき、日本から帰ってきたフランクに会ったら、新日本を追放されたと言うんだよ。「おまえ、また日本に行きたいか?」って聞いたら「もちろん」って言うから、僕はフリッツ(・フォン・エリック)に会いに行ったの。

「フランクが日本で揉めたみたいだから、馬場さんに電話してあげてくれないか?」と頼んだら、フリッツはすぐその場で馬場さんに電話した。「ハ~イ、ババ!」「オー、ハウ・アー・ユー。エブリシングOKよ」なんて馬場さんが答えて、その後、フランクの全日本復帰が決まった。それからフランクは僕を信頼してくれるようになったみたい。

全日本時代は、いつも夜はハンセンとフランクと食事に行ってました。ホテルに着くと「飯に行こう」と電話がかかってきて、彼らはたいてい「焼き鳥が食べたい」と言う。ふたりともビールのジョッキを4、5杯飲んだら酔っ払って、後は焼き鳥をバクバク食べてたね。深酒はしないで体調を維持するというプロ精神がありましたよね。

■ザ・グレート・カブキ1948年生まれ、宮崎県出身。アメリカでも大成功した元祖ペイントレスラー。「BIG DADDY酒場 かぶき うぃず ふぁみりぃ」(電話:03-5800-5801)では自ら厨房に立っている。『“東洋の神秘”ザ・グレート・カブキ自伝』(辰巳出版)好評発売中!

(取材・文/長谷川博一 撮影/平工幸雄)

■『燃えろ!新日本プロレス』vol.58(2014年1月2日号)に掲載http://weekly.shueisha.co.jp/moero/main.html

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