1972年のミュンヘン五輪で柔道2階級制覇を成し遂げたウイリエム・ルスカが2月14日、母国オランダで死去した。74歳だった。

日本のプロレスファンに記憶されるのは、なんといってもアントニオ猪木との異種格闘技戦が有名だろう。白い肌が紅潮することから、“赤鬼”の異名で呼ばれた。

現地メディア『ザ・テレグラフ』には、故人を悼む声が多数寄せられている。

「オランダ柔道界はイコン(聖像)を失いました。ルスカはオランダ柔道界に多大なる貢献をした」(オランダ柔道連盟会長、ウィレム・ファン・ステヘマン)

「オランダには偉大なる王者がいた。オリンピックでふたつの金メダルを獲り、世界大会で2度優勝し、コーチとしても貢献してくれた」(スポーツ大臣、エディス・スキペルス)

「ルスカは私の最高のお手本でした。彼の爆発的なスタイルにものすごく影響を受けました」(柔道2005年世界選手権無差別級王者、デニス・ファン・デル・へースト)

「大いなる損失。子供の時に図書館でルスカの本『Vallen en opstaan(試行錯誤)』を3回借りて読んだ。この本のおかげで僕は頑張れた」(シドニー五輪90㌔級金メダリスト、マルク・ハイジンハ)

オランダから現地の格闘技情報を発信している遠藤文康氏が、晩年のルスカの様子を教えてくれた。

「ルスカは95年から『Gladoor』というカフェを開いていました。ルスカを慕う仲間たちが集まる楽しい店で、彼はビリヤードを楽しみ、奥さんが接客していました」

98年4月4日、猪木が現役を引退。試合後のセレモニーでは、ルスカはモハメド・アリらとともに東京ドームのリングに上がり、闘魂の有終を祝福。おそらく、これが最後の来日だった。その後、カフェを営みながら妻と穏やかな日々を送っていたルスカだったが、2001年、不運に見舞われる。

14年にも渡る車いす生活

「スペインでヨットを楽しんでいる最中に脳出血を起こし、場所が沖合いだったため処置に時間がかかり言語障害と身体の麻痺が残りました。以降、14年にわたり車椅子生活を送っていましたが、先週、様態が急変し逝去されました」

格闘ファンにとっては76年2月6日、日本武道館で行なわれた猪木との激闘が色褪せず記憶に刻まれる。ルスカは柔道の投げ技や絞め技で猪木を苦しめたが、バックドロップの連発で敗れた。

当時、猪木とともに新日本プロレスの看板選手だった坂口征二に、ルスカの思い出を語ってもらった。

「奥さんが病気になって、治療費を稼ぐために一大決心してプロ転向したと聞いたよ。アリ戦の4ヵ月前か…猪木さんにとっても最初の格闘技戦だったし、どういう試合をしたらいいか不安もあっただろうな。でもすごい試合になった。

俺はその日、(タイガー・ジェット・)シンとシングルでやって、その後に猪木vsルスカだった。ゴールデンタイムで生中継したけど、放送時間内に試合が終わらなくてね、翌週も流したら両方ともすごい視聴率だったな(笑)」

試合当日の生中継は34.6%、翌週の再放送では26.8%という驚異の視聴率が当時のルスカの注目度を物語っている。

しかし、ルスカに会ったのはこの時が初めてではない、と坂口は言う。

「(64年の)東京オリンピックの時、俺は神永昭夫さんの付き人をやっていたから、決勝戦で神永さんが(アントン・)ヘーシンク(オランダ)に押さえ込まれて負けるのを目の前で見ていた。その時、ヘーシンクの練習相手かなんかでルスカも来ていたと思う」

ルスカはミュンヘン五輪で2階級制覇を果たし、次の76年モントリオールでも連覇を期待されていた。その直前のプロレス転向だったから格闘家として、まさに全盛期。その強さに坂口は舌を巻いた。

「俺は腕相撲で誰にも負けたことなかったけど、ルスカには勝てなかった。腕力がホント強かったね。走っても泳いでも速いし、サッカーもうまかったよ」

汚いモーテルでのよき思い出

ルスカは76年末に猪木との再戦で敗退。以降は、通常のシリーズ巡業にもたびたび来日するようになった。坂口とも何度も対戦し、78年3月20日にはニューヨークのMSG(マジソン・スクエア・ガーデン)で柔道ジャケットマッチを行なっている。

「MSGでやった後もニューヨークに残って、ルスカとタッグを組んでWWWF(現WWE)のサーキットに入った。俺はルスカのお目付け役みたいな感じでね。ブロードウェイのあたりの汚いモーテルにふたりで泊まって、試合がないときは汚い映画館でポルノ映画見たりよ(笑)、中華料理食ったり、ひと月くらい一緒にいたかな。

ルスカはイタズラ好きでね。(スタン・)ハンセンのメガネのレンズを黒く塗り潰したりよ、グレート・アントニオの鎖をストーブに置いて、アントニオが首に巻いたらアチッ!となったり(笑)。でも、憎めないヤツだったね」

東京五輪で神永がヘーシンクに敗れると、「次のオリンピックではお前が仇(かたき)をとれ」と、柔道界は坂口に期待をかけた。翌65年、坂口は全日本選手権で優勝。同年10月にブラジルで開催された世界選手権ではヘーシンクに敗れた。そんな中、次の68年メキシコ五輪では、柔道が実施種目から外れることが決定する。

「選手として一番油が乗っている年齢は25~26歳。メキシコの次(72年ミュンヘン)だと、俺はもう30歳を過ぎてる。7年先はキツイなと思って、プロレスは昔から好きだったから転向した。柔道界からはずいぶん叩かれたよ。25歳の誕生日にニューオータニでプロレス転向を発表してよ、その晩、馬場さんと一緒にハワイに逃げるようにパーッと飛んだ(笑)。それくらい、当時の柔道界は厳しかったんだよ」

ヘーシンクはブラジルの世界選手権で金メダルを獲得した直後、現役を引退。その後、オランダ柔道がルスカ時代に移行したことを鑑(かんが)みると、もしメキシコ五輪で柔道が実施されていたならば、坂口vsルスカが実現していたかもしれない。

(取材・文/週プレNEWS編集部)

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