前人未到のオリンピック柔道2階級制覇を達成した“赤鬼”ウイリエム・ルスカが2月14日、母国オランダで死去した。
追悼記事の後編では、1994年にアントニオ猪木と最後の試合をした以降の、ルスカの足取りを辿(たど)る。(前編はこちら→http://wpb.shueisha.co.jp/2015/02/19/43781/)
76年のプロレス転向以来、長らく柔道界から遠ざかっていたルスカだったが、97年に「柔道家として」来日したことがある。
前年秋、群馬県の医師、関口明氏は学会に出席するためオランダ・アムステルダムに滞在していた。関口氏の曽祖父、関口孝五郎は講道館柔道の創始者、嘉納治五郎の直弟子で、群馬県で初めて道場を開いた人物だ。柔道一家に生まれた関口氏は「関口杯」という柔道大会を毎年開催している。
現地在住の格闘技ライター、遠藤文康氏とともにルスカが経営するカフェを訪れた関口氏の前に現れたミュンヘン五輪2階級制覇王者は、明治の武道家のような佇(たたず)まいだったという。感激した関口氏は、ルスカに「関口杯」に来てくれないかと申し出る。ルスカは快諾し、柔道家として久々に日本に行けることを心から喜んだとか。
ルスカは、日本のお家芸の金メダルをさらった宿敵であり、さらにプロレスに転向したことから日本柔道界にとっては扱いにくい存在となっていた。そのため講道館や群馬県柔道連盟にかけあうなど奔走、97年4月、ルスカの来日が実現する。「関口杯」で模範試合を行なった後、前橋市の高校生や群馬県警柔道部員らを指導。陸上自衛隊の朝霞駐屯地も訪れたルスカとの濃密な数日間をこう語る。
「一般的にはあまりいいイメージを持たれていなかったけど、私が見たルスカさんはまったく違いました。日本に迎えるにあたり、ロールスロイスを運転手付きで借りたのですが、移動中、ルスカさんはずっと助手席に乗っているんですよ。『後部座席でゆっくり寛(くつろ)いだらいかがですか?』と勧めたのですが『私はロールスロイスの後ろに乗るような人間ではないですよ』と笑って答えた。ものすごく謙虚な方でした」(関口氏)
オランダでは孤立し用心棒をやっていた
ルスカにとって、この来日の一番の楽しみは高校生を指導することだった。一年半ぶりに道着に袖を通したルスカは、現役時代と変わらない軽快な動きで約2時間にわたり熱血指導。ところが、高校生たちは伝説の世界チャンピオンの威光に固くなり、乱取り稽古の時、積極的に前に出てこなかったそうだ。
「ここでルスカさんが本気で怒ったんです。『やらされている柔道ならば、すぐにやめるべきだ。積極的に楽しく柔道ができなければ、世界チャンピオンにはなれない』って。本当に柔道が好きで、誰にも負けない純粋さを持っていましたね」(関口氏)
ルスカを受け入れた群馬県柔道連盟には、樺澤(かばさわ)博之氏という人物がいる。樺澤氏はミュンヘン五輪以前からルスカを間近で見ていた。所属した中央大学柔道部では、東京オリンピックの軽量級金メダリスト、岡野功が指導しており、ルスカも岡野の教えを受けていたのだ。「ルスカさんは日本人以上に日本人的だった」と、樺澤氏は言う。
「先生を絶対的に尊敬し、武道の礼法をよくわきまえていました。私は中央大を卒業後、警視庁に入ったのですが、ここにもルスカさんは稽古に来ていました。みんなが興奮して近寄ってきても、決して奢(おご)った態度を見せない。練習後の風呂も隅っこに入っていましたよ。
97年の来日の時もまったく変わっていなくて、道場でも酒宴の席でも礼儀正しい。年寄りを敬い、子供をかわいがる。素顔は“赤鬼”のイメージとは程遠いんですよ」
関口氏の幼馴染である落語家の立川談之助氏も、来日したルスカのアテンドを手伝ったひとりだ。もともとプロレスファンだった談之助氏は興味津々でいろいろな裏話を聞いたという。
「オランダ柔道界はヘーシンクが牛耳っていて、その主流派から外れたルスカさんは孤立し、ミュンヘンオリンピックの後はバウンサー(用心棒)をやっていたそうです。さらに、奥さんが難病を患いお金に困っていた。だから、プロレスのリングに上げてくれた猪木さんには感謝していると言っていました。本当に助かったって」
疎遠になっていた盟友と感動の再会
そんなルスカと懇意にしていたのが前出のオランダ在住、格闘技ライターの遠藤文康氏だ。忘れられないエピソードとして、遠藤氏はルスカとクリス・ドールマンの再会を挙げる。ドールマンはUWFやリングスなど日本のリングでも活躍し、オランダから日本に多くの選手を送り込んだ功労者でもある。76年の猪木戦ではセコンドを務めた弟分であり、ルスカの大親友だった。
だが、そのふたりは長年、疎遠になっていた。きっかけは、ドールマンが新日本プロレス参戦を考え、ルスカに仲介を頼んだが、同時に前田日明のリングスからオファーがあり、リングスを選択してしまったことだ。ルスカは『あいつは俺を天秤にかけた』と怒り、袂(たもと)を分かった。ドールマンは沈黙し、そのまま距離をおいたという。
その再会は、97年9月のこと。猪木が小川直也を引き連れオランダを訪れ、その受け入れ役をルスカが務めた。猪木一行が現地の大会を視察する中、キックボクシングの会場でふたりは数年ぶりにめぐり会う。その様子を目撃していた遠藤氏が回想する。
「年月がルスカさんの怒りを氷解させていました。笑顔でドールマンと握手を交わし、ふたりの心はみるみる柔らかくなっていった。猪木さんを中心にルスカさん、ドールマンの3人を多くの人々が囲んでいました。まるで映画のワンシーンのような情景でした」
その後、ルスカは2001年に脳出血を起こし、14年にわたる闘病生活の末に亡くなった。大親友の訃報に接したドールマンの落胆を遠藤氏は聞いたという。
「俺とルスカの付き合いは長い。闘う者として練習も試合もいつも一緒だった。お互いに良い時期も悪い時期もあったが、亡くなってみると良い思い出しか残っていない。彼からは学ぶことばかりだった。ルスカは間違いなくオランダの歴史に残る人間だ。
突然、体が不自由になったことは本当に気の毒だった。あの強靭なルスカが車椅子に乗っていて、俺は愕(がく)然としたよ…。でも彼自身は障害の辛さを乗り越えていたと思うし、悔いはなかったと思う。彼は強い人間だった。大切な親友が逝ってしまった。いずれ俺も逝くさ…」
死の前日に見舞っていたホーストの思い
ルスカが最後に会った格闘家は、K-1世界王者に4度輝いた、あのアーネスト・ホーストだった。ホーストはルスカと同じ街に住んでおり、彼の様態がよくないと聞いて見舞ったのだそう。2月13日、亡くなる前日のことだった。
冒頭の写真は、ホーストが自身のフェイスブックに公開し、今回快く提供してくれたものだ。車椅子姿ではあるが、ルスカの頑丈な上半身と屈託のない笑顔は、亡くなる前日とはとても思えない。
最後に、ホーストが遠藤氏に語った言葉で、格闘家たちが恐れファンが愛した“赤鬼”を葬送しよう。
「同じ地元だし、お見舞いに行ってきたんだよ。明るく元気そうな顔だったけど体はちょっと弱っていた。みんなから激励の手紙を送ってもらおうと思って、彼の住所をフェイスブック上に発表しておいたんだ。そしたら翌日に亡くなるなんて…僕は本当に驚いたよ。
どう言っていいのか、言葉が見つからない。オランダどころか、世界の柔道そのものに足跡を残した人だ。安らかにおやすみくださいとしか言葉がないよ」
(取材・文/週プレNEWS編集部)
■ルスカと猪木の激闘は、DVDマガジン『燃えろ!新日本プロレス』 vol.2(http://weekly.shueisha.co.jp/moero/vol02.html)、 vol.40(http://weekly.shueisha.co.jp/moero/vol40.html)でチェック!