国内では“善戦マン”だったが、海外の大一番では2戦2勝と抜群の勝負強さを見せた。彼が“本気を出した”数少ないレースだったのかも?

現役時代、“希代のシルバーコレクター”とファンに愛された名馬・ステイゴールドが2月5日に亡くなった。

その節目となるレースの多くでパートナーを務め、勝利に導いてきた武豊騎手が知られざる秘話を語った。

■ゴドルフィンブルーの勝負服を見ると燃える!?

生涯成績は50戦7勝。

この数字だけを見ると、今なお語り継がれる馬としては、ちょっと…いや、かなり物足りない。しかし、この7つの勝利の中には、どでかい勲章がふたつある。

ひとつは、2001年3月24日、アラブ首長国連邦のドバイで開催された世界的規模の大レース「ドバイミーティング」のひとつであるGIIドバイシーマクラシックと、ラストランとして選んだ国際GI香港ヴァーズ。どちらのレースも武豊に導かれての快挙達成だった。

「いつもは左に斜行していく癖があるのに、このふたつのレースだけは、そんなそぶりさえ見せなくて。理由ですか? このレースの大事さを知っていたといえばカッコいいんでしょうけど、たぶん、違うでしょうね。たまたまだと思います(笑)」

ドバイシーマクラシックのレース前は、体調が悪いという話も伝えられていたが、最後の直線、馬1頭分のスペースを見つけると、強引に隙間をこじ開け、矢のような速さで襲いかかった。

「先頭を走っていたのは、世界No.1ジョッキーのフランキー(ランフランコ・デットーリ)と、世界に君臨するゴドルフィン所有のファンタスティックライト(前年のワールドシリーズ王者)。最後は写真判定になり、心臓がバクバクしていましたが、ゴールした瞬間、勝ったという手応えはありました」

競馬ファンですら目を疑うような鮮やかな差し切り勝ち。優勝がわかった瞬間、普段は勝っても負けてもポーカーフェイスの武豊がコブシをぎゅっと握り締め、何度もガッツポーズを繰り返していた。

「ゴドルフィンブルーの勝負服は、僕にとっても憧れの勝負服で。そこの馬にサンデーサイレンスの仔で勝ったんですから、日本の競馬にとってもサンデー産駒にとっても歴史的な第一歩で。やった!という感じでしたね」

L・デットーリと検量室で交わした秘話

帰国したステイゴールドはその後、国内で4戦を消化。ドバイで見せた快走が嘘のように、またしても左にヨレるという悪癖を見せ、GII京都大賞典では他馬の進路を妨害したとして失格となるなど、ついに念願だったGIタイトルを掌中にすることは叶(かな)わなかった。

そして、このステイゴールドが通算50戦目のラストランの舞台として選んだのが、先に述べた香港国際競走のひとつ、国際GI香港ヴァーズだった。

レースは、ゴドルフィンブルーの勝負服を身にまとったL・デットーリ騎乗のエクラールが向こう正面でロングスパート。最後の直線でさらに後続を突き放しにかかった。

「コーナーを回ったとき、エクラールとの差は10馬身。普通なら絶対に届かない距離です。勝ちたい、勝たせてあげたいという気持ちはありましたが、まさか勝てるとは思っていませんでした」

しかし、その絶体絶命の場面から、ステイゴールドは自らの脚で、キセキを起こした。

「前を走るエクラールが止まって見えるほど、ステイゴールドの脚が強烈で。この後に登場してきた無敗の三冠馬、ディープインパクトの走りを“飛ぶ”と表現しましたが、あのときのステイゴールドは“背中に羽が生えている”ようでした」

静かに笑みを浮かべた武豊はレース後、L・デットーリと検量室で交わしたという会話を披露してくれた。

デ 「またあの馬にやられたよ。どうも、僕とは相性が良くないみたいだ」

豊 「ゴドルフィンブルーの勝負服を見ると燃えるみたい。でも、これが引退レースなんだ」

デ 「ユタカは寂しくなるだろうけど、僕にとってはとてもいいニュースだね」

世界のNo.1ジョッキーにここまで言わせたステイゴールドは今でも武豊の勲章であり、誇りだという。

翌02年1月20日。名前の由来となったスティーヴィー・ワンダーの『Stay Gold』が流れるなか、希代の癖馬は静かにターフを去った。

(構成/工藤 晋 撮影/山本輝一)