お~、いたいた! あいつ、スゴかった! ヘンだった!…プロ野球ファンならば、懐かしい外国人助っ人たちの思い出話で盛り上がったこともあるだろう。

今年のプロ野球も交流戦真っ盛り、ビールジョッキ片手に飲み屋での話題も懐かしいそんな話題に…。そこで、1970~1980年代に活躍した忘れられない個性派キャラをピックアップ!

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長髪、ヒゲ面の異様なルックスで“ライオン丸”と呼ばれたのが、72年来日のシピン(大洋ほか)。左足を踏み込むフォームからの打球は強烈だったが、身勝手な言動も多い問題児だった。78年の巨人移籍で長髪とヒゲを落とし、“紳士”に変身。だが、内角球に怒って乱闘を起こすなど気性は変わらなかった。

巨人V10を阻止した74年以降、中日の主砲だったマーチンは、当時の応援歌を聴いたことのある人もいるだろう。

75年の広島初優勝に貢献したホプキンスは当時から医者志望。ゲームの合間に大学に通う“二刀流”で、引退後は本当に整形外科医になった。

76年から阪神で活躍したラインバックは、その長打力やファイトあふれるプレイと共に名前のインパクトが強く、多くのファンの記憶に刻まれた。名前といえば、王天上(おうてんじょう 南海)の話題性はそれ以上。オーテンジオという名前を「王(貞治)の上をいってほしい」という意味で漢字登録にしたのだが肝心の成績は…。

バットを短く持って体を寝かせる独特の構えは78年来日のミヤーン(大洋)。球団史上初の首位打者に輝くと、多くの小学生がマネをしたものだ。

同時期、クラウチングスタイルからの打撃でヤクルト日本一に貢献したヒルトンは、「村上春樹が、神宮球場でその二塁打を見た瞬間に小説を書こうと思い立った」ことで、世界の文学史に名を残す!?

清原和博にヘッドロックをかけたのは?

ライトから矢のような返球が光ったライトル(広島)は、80年の日本シリーズでMVP。81年の日本ハム優勝を支えたクルーズ、僚友で“サモアの怪人”と呼ばれ恐れられたソレイタとのコンビで打ちまくった。ソレイタは4打席連続本塁打をシーズン2度記録、本塁打・打点の2冠も獲得している。

81年、巨人で20本塁打を打ったトマソンは三振も多く、新聞に「トマ損」の見出しが躍るなど「役に立たないもの」「無用の長物」を意味する“超芸術トマソン”の語源となり代名詞的存在に。

アイルランド(広島)は隠し球の名手で、83年の1シーズンに3度成功させた。広島では、87年に三振王、規定打席到達者の最低打率ながら本塁打王を獲得したランスも極端なキャラとして印象深い。

86年に巨人の抑えを務めたサンチェは、怖い顔と重い速球で注目されたが、故障もあって2年で退団。同時期に抑えで活躍したアニマル(阪急)は、試合を締めると、「ウォー!」と雄叫びを上げ人気者に。後にタレントとして日本のバラエティ番組でも活躍した。

88年、日本ハムに途中入団したイースラーのゴルフのように伸び上がるフォロースルーは、お笑い芸人360°(さぶろく)モンキーズのネタになっている。

89年本塁打王のパリッシュ(ヤクルトほか)は、ワニ肉好きが話題に。タイトルを争ったフィルダー(阪神)は、日本野球で学び、メジャーに戻って本塁打王となるほど大成。甲子園に遊びに連れてきた息子のセシルもメジャー屈指の強打者になっている。

89年にロッテ入りしたディアズは、乱闘で清原和博(西武)にヘッドロックをかけたり、外国人では珍しく急遽、捕手を務めて話題になった。アイケルバーガー(ヤクルト)は、89年の初登板で自らの暴投によるサヨナラ負けを記録して退団。「何しに来たのか?」と不思議がられた。

昭和くくりでお送りした最後の締めは、88年に大洋に入団し、阪神でも活躍したパチョレック。まじめな姿勢と確実に3割を打つ打撃は、今もファンに愛されている。

(文/キビタキビオ)

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