2020年東京オリンピック・パラリンピック競技化を目指し、4月、画期的な空手界の大同団結が成された。
いわゆる伝統派の空手団体を統括する全日本空手道連盟(JKF)と、大山倍達(ますたつ)が興したフルコンタクト系の世界最大団体、極真会館が手を握り合ったのだ。
JKFと極真会館は、ともに前回の東京五輪の1964年に発足し、半世紀にわたり別々の道を歩み発展してきた。その違いを簡単に言えば、ノンコンタクト(寸止め)か、フルコンタクト(直接打撃)かである。また、前者はポイント制、後者は5人の審判による判定制を採用している。
五輪競技化を主導するのはJKFで、ルールはノンコンタクトを基本とするものになるという。極真会館にとっては相手の土俵に上がる構図となる。その先に見据えるものは何なのか? 大英断ともいえる一歩を踏み出した松井章圭(しょうけい)館長に聞いた――。
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―今回の大同団結は、まずJKFのほうから話があったんでしょうか?
松井 旧知のJKF関係者からきっかけをもらいましたが、どちらからともなくですね。オリンピックが引き金になったのは事実ですが、以前からJKFとなんらかの交流はすべきだと考えていました。
64年の東京五輪では柔道とバレーボールが種目となった。空手は日本を象徴する武道スポーツとも言えますから、ほかに名乗りを上げている競技には申し訳ないですけど、空手に分があるんじゃないかと思いますね。メダルが期待できる競技であるし、新たな競技場建設の必要性もありませんから、非常に可能性があると思います。
―極真とJKFでは、ルールが全然違いますよね?
松井 ルール的には180度違うともいえる競技ではありますが、同じ空手ですし基本の突き、蹴りも同様で元来一緒なんですよ。楽器演奏に例えると、ギターとバイオリンは違う楽器ですが、弦楽器であることは同じですよね。
―とはいえ、アマチュアボクシングとプロボクシング以上に違うような気がします。
松井 そうですね。だから、今日の明日では我々はとてもノンコンタクトのルールには適応できないです。しかし、ではフルコンタクトを五輪競技化しようとした場合、それは困難だと思うんです。フルコンタクトも素晴らしい競技ですが、JKFやWKF(世界空手道連盟)は50年という時間をかけて、いわゆる国際スポーツとしてルールも含めて競技体系を構築してきた。WKFはIOCの加盟団体で、WKFの傘下にJKFがあり、日本国内ではJKFはJOC、体協に加盟して内閣府直轄の公益財団です。こういう団体はここしかないわけですから、ことオリンピックを考えた場合は、そちらを尊重するのは当たり前じゃないかということです。
―目指す方向性が一緒じゃないと大事は成せず、というわけですね。
松井 そうです。フルコンタクト派とノンコンタクト派には、主義主張の違いによる軋轢があり長い間疎遠でした。しかし我々、それぞれの空手界の者のこだわりを差し引いて、一般の目で見れば誰しも、一致団結して仲良くするのはいいことだと思うでしょう。
ルールは違うが、5年あれば選手は育てられる
―テコンドーがソウル五輪から採用されています。似ている競技の存在はハードルになるんでしょうか?
松井 それを判断するのはIOCですからなんとも言えませんが、第三者的に見れば大きな意味では似たような競技ですからね。もちろん、テコンドーも(五輪に)残ってね、空手も採用されて、どちらかが淘汰されるのか共存できるのか、わかりませんけど。それはやはり第三者が決めることですからね。
―総合格闘技UFCの元チャンピオンのアンデウソン・シウバが、リオ五輪のテコンドーでブラジル代表を目指すと言ってファンの間で話題になったそうです。空手が採用されたら日本の格闘家も名乗りを上げたら面白いと思います。極真会館には五輪を目指すと宣言している選手はいますか?
松井 是非オリンピックを目指したいという選手も出てきてますね。現役の選手の言葉ですから、極真をやっている後輩の子供たちの中には影響があるでしょう。今後そういう意識を持つ選手たちはたくさん出てくると思います。5年後ですから、12、13歳の子供から20歳くらいの選手は十分目指していけるんじゃないですか。
―フルコンタクトが体に染みきっていない子供のほうが対応できそうですね。
松井 子供はいろんな意味で柔軟性はありますよね。体もそうだし、思考もそうだし、育っていく過程ですから。さきほど50年かけて体制を構築してきて今があると言いましたが、実動している競技者はその過程で入れ替わるわけです。
この4、5年で(オリンピックに適応するための)競技体系を仕上げることは難しい。しかし、体制を整えることができれば選手は育つ。そういう意味で5年というのは、十分育成できる期間だと思うんです。特に若い選手に期待したいですね。
―レスリングの選手がフリースタイル、グレコローマンをやるようにフルコンタクト、ノンコンタクトを両立させるのは可能ですか?
松井 難しい部分は当然あるでしょうが、可能だと思います。フルコンタクトでチャンピオンになった、ノンコンタクトでもチャンピオンになった、加えて型や試割りも優勝したとなれば、グランドスラム的な形でもあるし。団体は人の集まりなので、いろんな個性や価値観があるわけですが、それぞれが自分に合う方向を目指してもよし、全方位に頑張ってもよしです。
実際に、自分は美しく優雅に型を演じたいと、型に特化して稽古するような人もいますし。昔はある意味、型は二の次みたいなところがありましたけど、今はそういう多様性がある。または、自分はあくまでもフルコンタクトで勝負するんだ、またはノンコンタクトで勝負するんだという人がいてもいいし、いろんな方向性があっていい。
50年の歴史の中でも、キックボクシングに挑戦した、K-1に挑戦した、総合格闘技に挑戦した…様々な選手がいましたが、我々はある時期からそれを是認しているわけです。彼らの経験は周囲にいる人たちに拡散し、その体験的情報を組織内すべてが共有できるわけです。これはものすごく大きなことです。そういう意味では、ノンコンタクトの話に戻すと、正直言って我々はノンコンタクトに無頓着過ぎたと思うんです。
決勝で負けたら、準優勝でも「極真敗れる」になる
―え、どういうことですか?
松井 大山総裁が一時期、「寸止め空手はダンス空手だ」みたいに言い切ってしまっていた部分もあったり、我々も若い頃はそれを鵜飲みにしてフルコンタクトが優れていると思って、ノンコンタクトには見向きもしなかった。でも現状、改めてノンコンタクトを見たら、ものすごいクオリティの高い世界があるわけです。フルコンタクトのルールも変遷があるわけですが、50回近くの日本選手権、10回の世界大会を経た今、もしかしたら後退している部分もあるのかなと。
もちろん現在の選手たちも頑張っていますけど、草創期の試合の中に今は見られない質の高い本来の空手の技も見られます。ノンコンタクト競技にも当然変遷はあったでしょうが、すごく発展しているなという感じはします。
―それは国際スポーツとして、ルールなど競技体系が洗練されているという意味ですか?
松井 それもそうだと思いますし、技のバリエーションなども。実戦性も発展してきている。だから、フルコンタクトの選手にとっても学ぶべきところは多いと思いますよ。五輪競技化されたらいいなとは思いますけど、仮にそうならなくても、フルコンタクトをやる人はノンコンタクトの情報も入れるべきだと思いますね。
―極真もウエイト制採用などスポーツ的になってきていますが、一般的には「地上最強」のキーワードで強さを求めるイメージがあります。
松井 そのイメージはもともと大山総裁が発信したものですが、今となっては極真に対する期待でもあるだろうし、期待には応えるべきですが、それによって極真には「勝つこと」が義務付けられたような部分もあります。
K-1にもうちの選手が出ていって、ふたりが準優勝している(フランシスコ・フィリォとグラウベ・フェイトーザ)。うちの出身者であるアンディ・フグ(正道会館に移籍)は優勝もしている。K-1スタイルでいえばほとんどキック初心者に近い人間がね、いきなり世界のトップ選手と試合をするわけですから、そこでそれだけの成績を残すのは簡単なことじゃないわけですよ。フィリォに至っては、K―1世界王者4人に勝っているわけですしね。
―フィリォのK―1デビュー戦は衝撃でした。フグを一発で失神KOし、極真最強神話が復活しましたね。
松井 そうそう、ところがトーナメント決勝で負けたら、準優勝でも「極真敗れる」になるわけですよ。
―あ~、極真空手の看板の大きさですね。
松井 それは、意気に感じてがんばるべきだと思いますけど。正直言って、5年後、オリンピック選手をうちから輩出できるかはわかりません。間違いなく言えるのは、(ノンコンタクトルールで)最初の1、2年は惨敗を繰り返すでしょう。それでいいんです。そこからがスタートです。「体験恐るべからず」が極真の精神でもあるし。追っていく強さ、挑戦する強さというものがありますからね。
―K-1に挑戦したように、他流試合のような意味合いでの対ノンコンタクト、という捉え方もできますか?
松井 他流試合という対立の構図にはしたくないですね。JKFの笹川会長が言われたように互いに認め合った上での切磋琢磨だと。お互いを尊重した上で、勝負になったら「負けないぞ」という意識でやることが大事で、それが空手界の底上げになると思います。とにかくJKFとの今後については、私も含めて、頭(こうべ)を垂れて学ぶ姿勢で臨まなければいけないなと思います。
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■松井章圭(まつい・しょうけい) 1963年生まれ、東京都出身。13歳で極真空手に入門し、入門後約一年で初段取得。80年、第12回全日本大会に初出場し第4位入賞。85年、第17回全日本大会優勝。86年には、空手界最大の荒行といわれる「百人組手」を完遂し、87年の第4回全世界大会でついに優勝。94年、大山倍達総裁の生前の遺志に基づき館長に就任。現在、組織運営のかたわら世界各地を訪問し、技術指導、後輩の育成にあたる
(取材・文/中込勇気 撮影/ヤナガワゴーッ!)