かつて日本中で格闘技ブームを巻き起こしたK-1が、昨年11月に復活した。旧K-1に比べればまだまだ小規模ではあるが軽量級、中量級を中心に強い日本人選手が次々と生まれている。
中でも、-55kg初代王者となった武尊(たける)はケタ違い。打ち合いになればニヤッと笑い、KOが出にくいと言われる軽量級でダウンの山を築いている。憎たらしいまでの強さの秘密に迫った――。
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武尊と書いて「たける」と読む。
リングネームではない。歴史好きな両親が「日本武尊」(やまとたける)から付けてくれた本名だ。この名前はすごく気に入っていると武尊は切り出した。
「子供の時からプロになったら(リングネームは)武尊でやろうと決めていました」
その言葉に偽りはない。武尊は筋金入りの格闘家だ。小学2年生の時にTVでK-1を見て“鉄人”アンディ・フグのファンになると、すぐ地元の空手道場に入門した。
「ヘビー級って結構ポッチャリしていた選手もいたけど、アンディは空手家という雰囲気を醸(かも)し出していた。体のラインもスタイリッシュで動きもキレキレ。自分も空手をやったらK-1に出られると思っていた」
1991年に生まれ、鳥取県米子市で育った。海と山に囲まれた環境はアスリートの基礎を作り上げるのにもってこいだった。
「TV番組のSASUKEが好きで、よく友達と勝手にコースを作って木登りとかをしていました。そういう遊びをやったおかげで運動神経が発達したんだと思います」
最初の大きなターニングポイントは、高校時代に本場の技術を学びたいとムエタイを国技とするタイへ武者修行に出かけた時に訪れた。武尊は行くだけで強くなれるだろうと思っていたが、すぐ心が折れそうになったという。
「1日8時間も練習するんですよ。寝泊まりはタイ人とザコ寝。お風呂もないし、僕みたいな下っ端は雨水を溜めた水がめの水を頭からかぶるしかなかった」
タイへの渡航費や滞在費の30万円はアルバイトやバイクを売って調達したお金だった。帰りたくても帰るわけにはいかなかった。
「親からの資金援助? 昔からウチは自分のやりたいことは自分で責任を持ってやりなさいという方針だったんですよ。何とか自力でやろうと思いました」
「ここで試合を止められたらすべてが終わる」
帰国後、目標のひとつだった『K-1甲子園』の予選に出場したが「蹴り数制限」という独特のルールに馴染めず敗北を喫してしまう。納得のいかない武尊は本部席にいた大会プロデューサーの前田憲作(現K-1プロデューサー)に泣きながら訴えた。
「僕の力はこんなもんじゃない。もっと強いんで!」
前田はやさしい視線を送りながら答え、「すごく良かったよ。ウチ(チームドラゴン)にきたら、もっと強くなるよ」
高校卒業後、武尊は迷うことなく東京都町田市に拠点を置くチームドラゴンに入門する。お金はなかったが、夢はいっぱい。特売で19円のモヤシばかり食べていても苦ではなかった。
「家賃を払うだけで精一杯だったので、自炊するとしたらモヤシと100g40円の鶏のムネ肉を食べていました。夜は居酒屋でバイトしていたけど、そこの料理長がすごくいい人で、賄(まかな)いは本来一食なんですけど、僕のために二食も出してくれました」
プロデビュー後は連戦連勝。リングに上がるのが楽しくて仕方なかった。
「小さい頃から本当に目立ちたがり屋。デビュー戦なんか前座でお客さんもガラガラなのに自分では何千人の観客が見ているような感覚で入場していましたよ」
デビューから5戦で4KO。KO勝ちするとコーナーポストから宙返りをするパフォーマンスも最初からそうしようと決めていた。
「毎回のようにバック宙していたらお客さんも注目してくれるじゃないですか。赤いモヒカンにしたこともあったけど、それもちょっとでもお客さんに武尊という選手を印象づけようと思ったからです」
ふたつ目のターニングポイントは6戦目で初黒星を喫した時に訪れた。試合中に鼻骨が折れ、TKO負けを喫してしまったのだ。リングドクターがストップを告げた瞬間、武尊は鬼のような形相で食ってかかった。
「まだできると思ったし、ここで試合を止められたらすべてが終わると思っていたんですよ。リングを下りたら、めっちゃ痛かったですけどね(苦笑)」
「自分が中心にならないとK-1は盛り上がらない」
武尊は超がつくほど負けず嫌い。控室で自分の敗北を認めた瞬間、自分は格闘技に向いていないと思い、その場で「僕、辞めます」と口にした。思い止まるように説得したのはジムメイトで武尊同様、K-1やKrushで活躍する弘嵩(ひろたか)と功也(こうや)の卜部(うらべ)兄弟だった。
弘嵩が「おまえ、甘いんだよ」と雷を落とせば、反対に功也は「まだできるから一緒に頑張ろう」と温かい言葉をかけてくれた。
そのやりとりをきっかけに武尊は現役続行を決意するが、負けた悔しさはくすぶったままだった。
「練習していてもイライラするし、復帰戦で勝つまではずっと気分が悪かったですね。でも、練習はきつくても負けたくないから頑張れるようになったし、試合でも慎重にいくべきところはそうしようと思えるようになりました」
それから闘い方は一変。パンチ一辺倒の猪突猛進型をやめ、ガードを意識しながらカウンターの攻撃を増やすように務めた。
「以前はパンチで倒すのが一番カッコいいじゃんと思って、パンチだけを振り回していたけど、それからはヒザ蹴りも打てばローキックも打つようになりました。前田先生から攻撃を上中下(頭、腹、下半身)に散らすのはキックの基本だと教えられていたことがようやくできるようになった感じでしたね」
とはいえ、倒して勝つというこだわりを捨てたわけではない。昔も今もパンチはコントロールより思い切り振り回すことを心がける。
「なので、当たらないことも結構多いけど、当たれば絶対に倒れる。軽量級はKOが少ないと言われるのが悔しくて」
努力の甲斐あって、2013年5月、武尊は寺戸伸近を撃破してKrush-58㎏級王座を獲得する。そして昨年11月、復活したK-1からの出場オファーが舞い込んだ。魔裟斗が活躍していたK-1を目標に上京してきた武尊にとっては願ってもない復活だった。
「僕が上京してしばらくしたら(旧)K-1はなくなってしまった。だからやっときたかという感じでしたね。自分が中心に立たないとK-1は盛り上がらないと、それから自分にプレッシャーをかけるようになりました」
今年4月には『K-1WORLD GP-55㎏初代王座決定トーナント』に出場して見事チャンピオンに。翌日から武尊の目の前には新しい風景が広がっていた。
「渋谷を歩いていても普通に声をかけてもらえるようになりました。海外からの反響もすごく大きくて、YouTubeでの試合映像は海外の人々にかなり見られている」
「新生K-1を知らない人がいる。それがすごく悔しい」
ただ、現状に満足してはいない。旧K-1は地上波で放送され、大晦日には特番が組まれるほどの人気を博していた。スタートしたばかりの新生K-1で武尊は何を望むのか。
「確かに前のK-1は本当にすごかったけど、そんなもので終わらせたくない。僕はそれを乗り越えるためにやっている。魔裟斗さんはK-1で活躍して芸能界でも知名度を持っているじゃないですか。K-1は本当のスターが集まる場所。その中のチャンピオンはホンモノのスターじゃないといけない」
先日、武尊はBSジャパンの新番組『メンズ温泉』のオーディションに自ら応募して、レギュラーの座を勝ち取った。自分から動かなければ何も変わらないと思っているからだ。
「目立って知名度を上げて、試合を見てもらうのが一番。残念ながら今、K-1をやっていることを知らない人がいる。それがすごく悔しくて『また始まったんですよ』と声を大にして言いたい」
相手がどんなに強くても、試合が心から楽しくて仕方ないという武尊。7月4日の代々木第二体育館大会ではアルジェリアのハメッシュ・ハキムとスーパーファイトを行なう。今回の試合後も宙に舞うことができるか――。
■武尊(たける) 1991年7月29日生まれ、鳥取県出身。初代K-1WORLD GP-55kg王者、初代Krush-58kg級王者。戦績は20戦19勝(12KO)1敗。オフィシャルブログはコチラ
■『K-1 WORLD GP 2015 -70kg初代王座決定トーナメント』 7月4日(土)14:30開場、16:00開始(予定) 東京・国立代々木競技場第二体育館 詳しくはコチラ
(取材・文/布施鋼治 撮影/編集部)