12月29、31の両日、さいたまスーパーアリーナで開催されるMMA(総合格闘技)の新イベント『RIZIN FIGHTIN G WORLD GRANDPRIX 2015』(以下、RIZIN)。
このイベントが“PRIDEの復活”と言われる所以(ゆえん)は、PRIDEの主催者だった榊原信行氏の“復帰”にある。そこで、榊原氏のロングインタビューを敢行!
そもそもPRIDEが消滅したきっかけは2006年、フジテレビの中継撤退とそれに伴うスポンサー離れだった。そこで救いの手をさしのべたのは、アメリカのメジャー団体UFCを主催するズッファ社。07年、PRIDEを買収し、UFCとの2大ブランドとして継続していく…はずだった。
だが、ズッファ社によるPRIDEは一度も開催されることはなかった。PRIDE買収の際、ズッファ社が榊原氏に課したのが「7年間の競業禁止」。つまり、7年間は格闘技ビジネスに関わってはいけないというものだった――。
*参照記事(前編「PRIDEファイターの引退の舞台をつくる」 中編「世界的規模の格闘技の祭典になります」)
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―PRIDEを手放した後の7年間は、格闘技界をどう見ていました?
榊原 最初は(格闘技に)触れたくなかったですね。なるべく見ないように、聞かないようにしていました。
―トラウマになっていた?
榊原 仕事という範疇(はんちゅう)を超えたレベルでPRIDEをつくってきて、重いものを急に下ろしたわけです。ふて腐れたような思いと、ここまでやったからという気持ちが錯綜(さくそう)していた。だけど、もし僕が離れた後もPRIDEが続いていたら、こうして復帰することはなかった。
―というと?
榊原 2007年の春にファンを集めて偉そうに会見をやって「PRIDEは未来永劫(えいごう)続く」って次のオーナーに渡したけど、それは叶(かな)わなかった。結果的に僕はファンを騙(だま)したことになる。それに対する罪の意識がどんどん増していったんです。
PRIDEに代わる「DREAM」や「戦極」が生まれたけど、それもなくなってしまった。でも僕は「7年間の競業禁止」という契約書にサインしているから、その間は刑務所暮らしのようなもので、やりたくてもやれなかった。
―その間、沖縄でサッカーチーム「FC琉球」のオーナーになりましたよね(07年~13年)。なぜサッカー界に?
榊原 何か夢中になれるものがないと、心にぽっかり空いた穴は埋められない。そこで新しいチャレンジをしました。スポーツの世界で一番大きな金額が動くのがサッカーなんです。サッカービジネスを世界的な観点から学ぼうと、まずフィリップ・トルシエを総監督に迎えました。
トルシエから多くのことを学んだ
―元日本代表監督をJFLの監督に迎えるという、あり得ない話でした。
榊原 トルシエからはサッカーが持つ意義、役割など多くのことを学びました。FC琉球のホームスタジアム(沖縄県総合運動公園陸上競技場)は、席数などJリーグ加盟に必要な条件を満たしていなかった。改修に40億円くらいかかるので、県知事に嘆願したり周囲に認めさせるのは大変なことでした。
トルシエには「クラブチームのオーナーに必要なのはお金ではない。一にも二にも忍耐だよ」と言われましたね。
―そもそもJ1やJ2ではなく、なぜJFLのFC琉球を選んだんですか?
榊原 完成されたクラブチームに関わる選択肢もあったんですが、そこにはあまり興味が湧かなかった。それよりも、沖縄という場所から世界を目指すことに魅力を感じた。サッカーがすごいのは、(J1ライセンスを取得すれば)FC琉球でさえ1年に一度は世界一を目指すチャンスが与えられていること。
可能性はもちろん低いけど、天皇杯に優勝すればいいんだから。そしたらアジアチャンピオンズリーグに出る権利が与えられ、そこで優勝すればクラブW杯に出ることができる。そんなチャンスが末端まであるようなピラミッド構造がサッカーにはある。そこは格闘技界にいたら全くわからなかったことだし、サッカーでの経験を生かしていきたいです。
―そして、昨年6月末に7年間の「競業禁止」が解けたわけですが、その当日は?
榊原 会社で普通に仕事していました。「ああ、今日で終わったんだなぁ」って感じで。
―シャンパン開けたり?
榊原 それはない(笑)。だけど、今まで閉じられていた扉が開かれた感じはありました。パンドラの箱じゃないけど、開けたらいけない箱だったのが、もう開けてもいいんだよ、と…そしたら、開けたくなるでしょう(笑)。
―その瞬間に「PRIDEを復活させよう」と?
榊原 迷いはあった。だから、まずはリサーチしてみようと。自分が離れている間も「榊原を待っている」など激励のメールをくれた海外のプロモーターもいたから、まずは会って話してみようかなと。
猪木さんにもぜひお越しいただきたい
―7年間は、彼らと会うことも禁止だった?
榊原 会話もしてません。簡単な挨拶(あいさつ)くらいなら問題ないけど、それ以上の具体的な話はダメ。メールも証拠として残るから「あと少し待って」みたいな返信すらしなかった。そしてリサーチ活動の後、昨年11月頃、手始めにポーランドの「KSW」(*1)に行きました。
KSWからはよい返事をもらったけど、やはりどうしてもアメリカのプロモーションの協力は必要。その点は旧知のスコット・コーカーが「ベラトール」(*2)の社長になったことに助けられた。年明けには話をして、同じタイミングで(エメリヤーエンコ・)ヒョードルと8年ぶりに再会しました。
1月末にはシンガポールの「ONE FC」(*3)に行って協力の了解を得た。これでUFCを除いて必要だと思われる3つの団体には話をつけられた。イギリスの「BAMMA」もリトアニアの「BUSHIDO」(KOK)もふたつ返事で、そうした話が整ったのが今年の7月頃だったかな。
*1 「KSW」…2004年設立の欧州最大の団体。かつてPRIDEで戦ったパウエル・ナツラらが参戦 *2 「ベラトール」…UFCの対抗勢力として2008年に設立された団体。今年3月には所英男が初参戦 *3 「ONE FC」…2011年に設立されたアジア最大の団体。青木真也がライト級王座を保持している
―9月20日には、アメリカでベラトールのリングに上がり、「True Pioneer(真の先駆者)」と紹介されて「ニューチャプター(新章)を始めよう」と英語で挨拶をしましたね。
榊原 その直前まで、ものすごく葛藤があったんです。ここで「やる」と言わなければ、まだ後戻りはできると。PRIDE時代も、プロモーターとしてハイになる部分と、他人に言えないくらいシンドイ部分が交互に襲ってくる感覚があったけど、またあの世界に戻るのか…という思いもありました。だけど、やらずに後悔するならやって後悔したほうがいいですから。
―PRIDEでは高田延彦氏が「出てこいや!」と選手を呼び出していました。ああいった演出はRIZINでも復活するんでしょうか?
榊原 何を見たいか、これからファンの声を大事に聞いていきます。アントニオ猪木さんにもぜひお越しいただきたいです。
―RIZINはどうしてもPRIDEと比較されるでしょうね。
榊原 亡霊と闘ったって勝てないですよ。あれに匹敵するものができるかどうかはわからないじゃないですか。
―PRIDEは高い壁です。
榊原 「やめとけばよかったのに」と言われるものしかできないかもしれない。失敗したら「ゾンビみたいに復活してくるからそんな目に遭うんだよ」って言われてしまうかもしれない。ただ、PRIDEを否定していかないと新しい個性は出ない。PRIDEなんてぶっ壊すつもりでやっていかないと。
ルールに限らず、リングやグローブにもまだ進化の余地はある。「やはりJ-MMA(日本の総合格闘技)は面白い」と世界中の人に言わせたい。最初はファンの思い入れのあるものをつくれるかもしれないけど、来年以降どう継続させていくか。チャレンジはこれからです。
(取材・文/“Show”大谷泰顕、編集部 撮影/山本尚明、乾晋也)