2000年に浦和レッズへ入団。06年には日本代表に初選出され、07年、浦和の主将としてアジアチャンピオンズリーグを制覇した

「プロサッカー選手として、浦和の男で始まり、浦和の男で終わります」。

Jリーグ屈指の人気と実力を誇る浦和レッズひと筋16年、オシム監督時代の日本代表では「水を運ぶ選手(汗かき役)」として高い評価を受けた鈴木啓太(34歳)が、2015年シーズン限りで現役を引退。不整脈という病を抱えながら、最後まで貫いた〝浦和愛〟。その深層に迫る!

●「負けたときの重圧はハンパじゃない(苦笑)」

2000年の夏のことだった。鈴木啓太との初対面。端正な顔立ちに白のサマースーツ、やたらと丁寧な言葉遣い。すべてが抜かりなく、どこか“鎧(よろい)”をまとっている印象が強かった。

「(その年の)レッズ入団会見のとき、僕、『日本代表に入ります』って、たんか切ったんですよ。入りたいです、じゃなくて、入りますって。今にして思えば、どんだけ生意気だったか(笑)。あの頃は、とにかくとんがってた。このクラブでのし上がるんだって、野心の塊(かたまり)でした。でも、いざフタを開けてみれば、そこはプロ。きっちり洗礼を受けて。俺、やっぱり全然ダメじゃん、と。そこから猛烈にトレーニングをしましたね」

出身は静岡県清水市(現在の静岡市清水区)。幾多(いくた)の人材を輩出してきたサッカー王国だ。片や浦和もまた、昔からサッカーの街を自負している。啓太は〝清水プライド〟を盾(たて)にしていたが、徐々に浦和が持つ熱に溶かされていった。

「僕の地元である清水は、人々の間にサッカーがすごく根づいているんです。それこそ、近所のおじいちゃん同士が茶飲み話で『今年はどこそこの高校が結構イイらしいよ』と盛り上がっている。

僕の祖父もまた、自宅から名門校の清水商高(現・清水桜が丘高)まで自転車をこいで、練習を見に行ってたんです。フェンス越しにかぶりつきで(笑)。そんな街で18年間育ったわけですからね。でも、浦和に根を下ろして、日々を送っているうちに、だんだんなじんでいく自分がいた。プロに入るきっかけをつくってくれたクラブ、ずっと見守ってくれるサポーターの皆さん、街の雰囲気。気がつけば、清水出身といわれてもピンとこなくなっていた。周りからも『え、浦和出身じゃないの?』なんて言われて(笑)。

浦和の熱気って特別なんですよ。ものすごく巨大。サポーターの思いがすべて乗っかってくるんです。僕はみんなの『勝ってくれ!』っていう意思を背負ってピッチで戦うだけ。そんな気持ちでした。だから、ピッチに立たせてもらう以上は全力です。埼玉スタジアムに来てもらえばわかると思うんですけど、本当に夢のような空間です」

浦和サポーターによる応援はすさまじい。歓喜も、怒気も。前者で思い出されるのは、06年のリーグ優勝から07年のアジアチャンピオンズリーグ制覇に至る道。後者でいえば、ここ最近の勝ち切れない鬱々(うつうつ)たる状況。ただ、すべてをひっくるめて浦和レッズなのだと啓太は断言する。

海外クラブからのオファーを踏みとどまった理由

「確かに、06年、07年の頃のチームは強かったです。正直、負ける気はしなかった。よくよく思い出してみると、外国のクラブっぽい感じでしたね。メンバーもワシントンやポンテ、ネネと外国籍選手がいて、日本人も山さん(山田暢久・のぶひさ)や(田中)達也、アレックス(三都主)、闘莉王とか。イケイケでしたけど、それは役割分担が明確だったっていうこともあります。でも、じゃあ今のチームがダメかっていうと、それは違います。そもそも監督が違うし、戦術、コンビネーションもそうです。どっちがどうなんて、比較するのは難しい。

調子がいいときは、サポーターの応援は素晴らしい追い風になるし、無敵だって思える。でも、逆にふがいない戦いをして負けてしまったときとか、その重圧といったらハンパじゃない(苦笑)。僕らも人間ですからね。正直、サポーターのブーイングやヤジにイラつくことも多々ありました。『ふざけんな。今に見てろよ』って思うことも(苦笑)。でも、そういう応酬もすべてひっくるめて、『This is 浦和レッズ』なんですよ。お互いの熱をぶつけ合って、前に進んでいく。

よく選手とサポーターの関係って、戦友って言われ方をしますが、浦和レッズに限っていえば、家族っていう表現が一番合ってます。サポーターの愛情の深さは、誰よりも知ってるつもりです。だから、現在のチームに対しても、今までどおりにずっと見守っていてほしいというのが、正直な気持ちですね」

チームのために黙々と努力する啓太のキャプテンシーは誰もが認めるところ。だが、個人としては常にコンプレックスと向き合い、もがき続けてきた。

「周りを見渡せば、うまい選手は死ぬほどたくさんいます。単純にうまいだけじゃなくて、それ以上の何かを持つ選手も見てきました。ふと思い浮かぶのは俊さん(中村俊輔)。スゴイですよ、放つオーラが。『おまえは俺からボールを獲れない』って空気をぶつけてくる。僕としては、なんとか対峙(たいじ)するわけですが、瞬間的に『ウッ!』と固まりそうになったことは何度もありました。

ウチのチームにも、うまい選手はたくさんいます。一方の僕は何度も言うとおりヘタ(苦笑)。高校時代は、もうちょっと攻撃的な選手でしたが、その頃、先生に『おまえは木の幹(みき)になれ』と言われて。この言葉が自分の指針になったんです。際立ったスキルがない分、監督のオーダーを確実にこなす、どんな苦しい状況であってもチームを鼓舞(こぶ)する。目立たないけどチームには欠かせないよね、っていう存在を目指したんです。

どうにもならない時期もありました。(J1残留争いに陥[おちい]った)11年なんて、本当に苦しかった。何をどうあがいてもダメで。ちょうど自分がキャプテンを務めていた頃で、自分のやり方のどこがいけないのか、ずっと自問自答の繰り返し。ロッカールームの雰囲気とかも本当に重くなっていて最悪でした。だから、みんなに呼びかけ、話し合い、日々の生活習慣から見つめ直そうと。そこでも、やっぱり諦めない努力が必要だったんです。最近、知人から聞いた『努力は運を支配する』っていう言葉があるんですけど、まったくそのとおりだなと思います」

違うユニフォームは想像できなかった

かつて日本代表を率いたオシムは啓太を「水を運ぶ人」と評した。だが、そこに源泉は必要だ。欠かせないもうひとつの泉、それは自身の家族の存在である。

「サポーターも大切ですが、自分自身の家族の存在も大きい。今だから言えることですが、かつて海外のクラブからオファーがあって、相当悩んだこともあった。その話を親にしたら、祖父に伝わって。それまで一度も僕の選手生活に口を挟まなかった祖父が『(移籍は)やめたほうがいい』と、ボソッと言ったそうなんです。祖父は僕の浦和での歩み、クラブに対する思いとか、すべてわかっていたんでしょう。そのひと言で踏みとどまることにしました。

自分の家庭もまた、大きな源です。僕は家ではほとんどサッカーの話をしないんですが、ふたりの娘たちは自分の父親の職業がサッカー選手だっていうことはうっすらわかっていて。ある日、嫁さんが気を利かして、動画を送ってくれたんです。娘たちがボンボンを作って、『パパ、頑張れ~!』って。スゴく励みになりました。また明日から頑張ろうって」

鎧(よろい)を脱いだ啓太の顔に、もはや険しさはない。自身も、引退を表明してから顔つきが温和になったと言う。「悔いはないのか?」との問いに、きっぱり「ない」と答える。16年間、チームを牽引(けんいん)してきた彼は今後、別の形で浦和を盛り上げたいという。

「僕としては、コンディションも含め、いろいろと考えた結果、ここが引き際だと感じて引退を決めました。もう少し続けるという選択肢もあったかもしれない。でも、違うクラブのユニフォームを着ている自分の姿は想像できなかった。漠然としていますが、今後はサッカー界に、まずは浦和に恩返ししたいです。レッズに関わるすべての人が幸せになるようなことをしたい。

昔、サポーターの方から『私、試合を見て元気になれるんです』っていうお手紙をもらったことがあって、選手以前に人としてうれしかった。誰かを元気にさせる、そんなことをしたいですね」

●鈴木啓太(すずき・けいた) 1981 年生まれ、静岡県出身。2000 年、東海大翔洋高から当時J2の浦和に加入。02年にはボランチとしてレギュラーに定着。その後は06年、07年とJリーグベストイレブンに選出されるなど、チームの黄金時代を築き上げた。06 年には日本代表入りし、オシムジャパンの中核として活躍。昨年、試合中に体調不良を訴え、不整脈との診断を受けるもチームを精神面から鼓舞。15年11月22日、今季限りの現役引退を発表。J1通算379試合、国際Aマッチ28試合に出場。177 ㎝、72㎏

『週刊プレイボーイ 1・2号』「現役引退! 鈴木啓太『埼スタは夢のような空間でした』より

(取材・文/高橋史門 撮影/山上徳幸)