新日本プロレスを退団した中邑真輔が4月2日、テキサス州ダラスで鮮烈なWWEデビューを果たした。
リングネームは本名のシンスケ・ナカムラ、コスチュームも新日本時代そのままの赤のロングタイツ、そして必殺技「ボマイェ」(現地では「キンシャサ」に改名)で20分超の激闘に終止符を打った。
多くの日本人レスラーはアメリカデビューに際しリングネームやキャラクターを変更するが、試合後に中邑が「ストロングスタイルがやってきたぞ!」と叫んだように、新日本で培ったスタイルが“直輸入”されたことも、日本のファンには嬉しいニュースだろう。
中邑は、渡米直前に週プレのインタビューを受けている。そこで語った「戦いの原点」、そして「自分との約束」とは?
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「物心ついた頃から、男らしいものに憧れていたんですよ。理由はふたつあって、ひとつは家庭環境かな。親父はいましたけど、祖母と母親がいて上に姉がふたりいたので、何かにつけて男らしいものを求め、探し続けていた男の子でした。その男らしさの代名詞のひとつにプロレスがあったわけなんです。
確か3歳の時ですか、初めてプロレス中継を見たのは。別に野球が嫌いなわけじゃなかったんですけど、父親の晩酌に付き合いながらプロ野球中継を見ているのがなんかイヤで、プロレス好きな祖母の部屋に行き、当時はまだ金曜夜8時に放送されていた新日本の中継を見ていた記憶があります。
藤波辰爾(たつみ)さんがピンク色のジャンパーを着てリングに上がっていたんですよね。男のくせにピンク色のジャンパーを着やがってと思っていました。たぶん、幼くても、やっぱり許せなかったんでしょう、藤波さんのピンク色のジャンパーが(笑)」
ということは、プロレスは常に身近な存在だった、と。
「本格的に見始めたのは小学生になってからですね。当時の少年マンガ誌にプロレスマンガが連載されていて、そこにプロレス豆知識みたいなコーナーがあって。“初代タイガーマスクの正体は佐山サトル”だと書いてあったんですよ。その記述は小学生の僕からすると、すごいショックで。だって、そうでしょ? マスクマンというのは正体不明が基本なのに、堂々とその中身をバラしちゃってる(笑)。
それからはもう、佐山サトルの顔が見たくてプロレス専門誌を読みまくりました。でも、あの頃の佐山さんは新しい格闘技の運営に奔走していて、プロレス専門誌には載らない時期だったんですけど。
そうとは知らず佐山さんの顔を見つけるために専門誌を読み込んでいくうち、自然とプロレスの知識が増えていき、ファンになった感じですかね」
「“ビビりぃ”の自分が子供の頃からコンプレックスだった」
では、強いものに憧れていたふたつめの理由は?
「僕って、すんげえ“ビビりぃ”なんですよ。生まれてからずっと“ビビりぃ”。例えば、ジェットコースターに怖くて乗れなかったり。中学生になっても、友達がよその学校にケンカを売りに行くぞって誘ってきても、マジに怖くて行けなかったり…。そういう“ビビりぃ”の自分が子供の頃からコンプレックスだったんです。イヤでイヤで仕方なかったですよ、“ビビりぃ”の自分が。完全に自己否定の状態だったというか。それが常に強いものに憧れていた理由だったと思いますね。
で、コンプレックスを克服するには、子供ながらに恐怖に慣れちゃえばいいと思って。プロレスって素人には恐怖だらけに映るじゃないですか。屈強な男たちがたくさんいるだけで恐怖だし、練習も恐怖。しかも、入団したら逃げ出せないという恐怖もある(笑)。だけど、そんな環境に慣れてしまえば、いつか必ず“ビビりぃ”ではなくなるはずだと信じて、プロレスラーになろうとしたんです」
中邑選手が“ビビりのチキン野郎”だったとは…。
「高校はレスリング部に入部したんですが、そこでも“ビビりぃ”全開でした。試合は月に1回あるかどうかなのに、その度にすっげえ緊張ばかりしていたし。特に団体戦の時なんかは責任重大なんで、極度の緊張のせいでトイレで吐いたりして、涙目になりながら試合に臨んでいたんですよ。
ホントに、試合前は相手が強そうで怖いとか、負けたらどうしようとか、そんなことばかり考えている非常に情けない自分がいました。練習の成果が出せなかったらどうしようとか、ネガティブなことばかりをフォーカスしてしまい、調子を崩してしまったこともあります。
それなのに、プロレスラーは毎日のように試合をしている。それって、僕からすると“すさまじいこと”だと思えた。そして、よりプロレスラーに強い憧れを持つようになったわけなんですよ。そんな“すさまじい”環境に身を置いてしまえば、もう大丈夫だろう、“ビビりぃ”のコンプレックスに悩むこともなくなるだろう、と。
ただ、それだけじゃなかったかな、プロレスラーになりたかった理由は。正直な話、表面的な華やかさにも憧れていたし、海外にも行きたかったし、お金持ちになりたかったし、親孝行したかったし。そんな願望をまとめて叶えてくれそうな職業がプロレスラーだったんですよね」
実際のところ、新日本プロレスに入団することで、“ビビりぃ”は克服できたのですか。怖そうな先輩もたくさんいそうですが。
「誰かが怖いとかではなかったんです。現場監督が怖いとか、そういうことではなかったんですよ。
【自分との約束】を守れるかどうか。入団後に、それが恐怖を乗り越える最大の手段だと気づけましたね。要するに、先輩や対戦するデカい外国人レスラーが怖いのではない。そんなことより、自分と向き合うことが一番怖い。【自分との約束】を守れるかどうか、ということなんです」
「自分史上最大のプレッシャーがかかった試合」
その点をもっと具体的に説明すると、どうなりますか。
「自分自身に課した練習をどれだけやり通せるか、あるいはどれだけ戦略を練られたか、ということです。それらをひとつひとつ確認していくことが【自分との約束】を果たすことにつながっていく。それが徐々にできるようになってからは試合への怖さもなくなり、“ビビりぃ”の自分もいなくなりました。
言い換えれば、こうなりたいという自分をイメージできるかどうか…。そのイメージに近づくために【自分との約束】を交わすわけです。
例えば、2回目のアレクセイ・イグナショフとの総合格闘技戦(2004年5月22日)は、絶対に負けられない戦いだったんですよ。1回目(03年12月31日)はノーコンテストの裁定でしたけど、僕が負けたも同然の内容だったし。これで2回目も負けようものなら、プロレスは弱いと糾弾されるのは間違いなかったし、僕自身がプロレス界に戻れるかどうかの瀬戸際の試合でしたから。自分史上最大のプレッシャーがかかった試合だったんです。
だからもう、すがるような思いでいろんな人たちにアドバイスをいただいたり、練習を見てもらったんですね。その過程の中で、やはり大事なのはなりたい自分をイメージすること。あの時は『イグナショフに勝ち、両手を挙げる』のがなりたい自分なのだから、そのイメージに近づくために、教えてもらった練習をやり通すという【自分との約束】を交わしたんです。
他にも、どれだけ勝てる戦略を築けるか。それもまた【自分との約束】の範疇(はんちゅう)に入る。あのイグナショフ戦、僕は笑いながら入場した。開き直っていたわけじゃなく、自分に対する作戦でした。笑って口角が緩むと肩の力も抜けるし、欧米人にはアジア人の笑いって不気味に見えるから。
そのうち、だんだんと日々の生活のすべてが【自分との約束】を守れているか、その確認作業に集中していくようになり、心が【自分との約束】にしか向かないようになる。余計なものは自分の中に入ってこなくなるし、恐怖すら感じるヒマがなくなる。そうなれば、自然体で相手と向き合うことができる。その結果が2戦目の勝利(ギロチンチョークで一本勝ち)につながったんじゃないですか」
なりたい自分をイメージする。そうなるために【自分との約束】を交わす。これはでも、なかなか難しい作業になりそう。それができるようになるには、どのような心構えでいればいいと思いますか。
「今の社会は、何かと情報過多でしょ。ネットでうんざりするほどの情報が得られる。でも、なりたい自分をイメージするのに、余計な情報なんかいらないんですよ。
ある少年がバスケットの選手になりたいと思っている。そこで必要なのはバスケ部で頑張っている先輩たちの助言や親のサポートだったりする。極端な話、彼にはそれしか必要ないんです。それなのに、無駄な情報――背が高くなきゃいけないとか、中学、高校のバスケ部にはイジメがあるとか、しょーもない情報も入ってくる。
そういう情報はすべて遮断すべきで、自分の中に入れるな。バスケの選手になりたいとか、美大に入って絵描きになりたいとかイメージできているのなら、そのまま進めばいいだけのこと。なりたい自分に向かう道を邪魔するような情報は入れちゃダメだよね。
入れてしまうと【自分との約束】もブレて、これはムリだと諦めの気持ちも強くなるかもしれないし、結果的に自分自身で約束を反故(ほご)にしかねない。【自分との約束】を果たせなかった時の無念さ、やるせなさってないから」
「戦い続けていけば、約束の地にたどり着く」
中邑真輔は【自分との約束】を交わせたことで、“ビビりぃ”を増長させる要素を排除でき、なりたい自分に真っすぐ進めたわけですね。
「どうかな(笑)。まあ、ここまではなりたい自分の理想像に向かって真っすぐに進めている感触はありますけど、結構、道を踏み外してるし(笑)。そうは言いつつ、最終的にはなんとかつじつまを合わせて本道に戻っていますが」
今のところ、WWEではどんな自分になりたい?
「誰かに勝ってチャンピオンベルトを巻きたいとか、そういうことじゃないんですよね。そうではなくて、今の自分が描いているイメージというのは…ほら、アメフトのスーパーボウルのハーフタイムショーがあるじゃないですか。そこでパフォーマンスをしたアーティストのドキュメンタリーを見たことがあるんです。カメラはステージに向かうアーティストの肩越しに、スタジアムを埋め尽くす大観衆を映し出していた。
僕は今、ソコに立ちたいとイメージしています。びっちりと埋め尽くされたスタジアム、うなるような大歓声。僕は恐怖を捨て、心を整理してから、ゆっくりとリングに向かう…その光景を思い浮かべるだけで、ちょっと気持ちいいじゃないですか。ワクワクしてくる」
そうイメージした瞬間から【自分との約束】が交わされているのかもしれませんね。
「そうかもねえ。だからといって、ソコにたどり着くんだとガチッと決めるのはよくないかな、とも思います。決めた瞬間に息が詰まってきそうだし。そのイメージを描き続けていたら、勝手に周りの環境がそうなるように動きだしますよ」
手は抜かず、肩の力を抜いただけってことですかね。
「ふんわりと前に進めればいいかな、と。イメージを描きつつ、“ええかげん”に余計な力を抜き、戦い続けていけば、約束の地にたどり着くと思います」
■中邑真輔(なかむら・しんすけ) 1980年生まれ、京都府出身。青山学院大学レスリング部を経て、2002年に新日本プロレスでデビュー。必殺技「ボマイェ」と決めぜりふ「イヤァオ!」を代名詞にIWGPヘビーほか数々のタイトルに輝き、日本プロレス界を牽引してきた。総合格闘技では3勝1敗1無効試合
(取材・文/佐々木 徹 撮影/平工幸雄)