現在では最後の三冠王となった、元ソフトバンクホークス・松中信彦が今春の現役引退後、ここまで語り尽くした!
ホークス黄金時代の礎(いしずえ)を築いた4番打者であり、“ラストサムライ”ともいえる野武士プレイヤーが、打撃を極めた栄光と怪我からの苦闘を激白!(聞き手/野球評論家・橋本清)
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橋本 松ちゅん(松中の愛称)、長い間、ご苦労さまでした! 自分も現役最後に1年だけ一緒にやらせてもらったけど、やっぱり寂しいね。ホークスの顔やったもんな。土台をつくってね。
松中 いえいえ、ありがとうございます(笑)。
橋本 俺が辞めた時、1年目は解説で試合見るのもすごい疲れて。まだまだやりたい気持ちがあったしストレスも感じてね。実際、今年のシーズン始まって、どう?
松中 やっぱりプロ野球選手がいいなって思いましたね。ユニフォームを着ていたかったなと。本当に野球しかやってこなかったんで、ぽっかり何か空いてるというか。
橋本 春のキャンプまでオファー待ちでね、現役のこだわりも強かったと思うし。
松中 でも、やりきった感はすごくあったんで。引退会見で言ったように悔いなくっていうのが正直な気持ちですけどね。あれだけホークスが戦力そろってるところで構想外になって居場所がないというか…でも、そこで拾っていただけるチームがあれば完全燃焼して。ダメだったら終わりと納得してましたから。
橋本 引き際の美学っていうのもそれぞれ難しいわな。
松中 実際、体はまだこんな元気だし、もうちょっとこういうふうに打てるんじゃ、もっとここを鍛えたらって。自問自答した時に、まだこの先、満足感のある最後が迎えられるんじゃないかという気持ちはすごいあったので。
橋本 体は戻ってたんや?
松中 はい、すごくよかったんですよ。この3、4年、ケビン山崎さんのとこ(トータル・ワークアウト)行って、トレーニングも変わって。すごく走れるようになって体のキレもよくなったんで。もっと早くやっとけばよかったなと。ほんと、怪我しなくなったんですよ。下半身を怪我するとすぐ衰えますから。
一軍でバリバリやってたら見えないものがある
橋本 でも二軍生活も経験してね、4番張って三冠王まで獲った男のプライドとしては忸怩(じくじ)たるものもね…。
松中 いや、よくそういうプライドとか言われるんですけど、もう下に落ちたときに全部消えてましたから。三冠王とかも一切ないし、ただ目標を持って早く一軍上がって活躍したい、ファンの声援浴びたいとか。そこは真っすぐな気持ちというか…。
橋本 野球選手は結構、みんな純やけど、特に松ちゅんはほんま野球好きやもんね。よく練習する姿を見てたし。
松中 もし僕にそんなプライドがあったら3、4年前に辞めてますよね。それよりも膝に負担のかからない打ち方があるんじゃないかとか、二軍で打つのは最低限当たり前のことなんで、一軍のピッチャーからどうやって打つかという、常に考えてたんでやりがいがありましたし。
橋本 さすがやね。二軍の経験もしっかり糧(かて)にして…。
松中 二軍生活もここ5年くらい長かったですけど、全然折れることもなく。ほんと両極端、いいものも悪いものも見れましたし。一軍のレギュラーでバリバリやってたら見えないものがたくさんありましたから。
橋本 それ、俺も工藤さん(公康、現ソフトバンク監督)に言われたことあるよ。「ハシは怪我で二軍も移籍も経験して、指導者になった時に生きてくるよ」って。残念ながら機会ないままやけど(笑)。
松中 やっぱりトップで終わるのと、こうしていろんな経験をさせてもらうのとでは指導者として今後目指していくのにもすごいプラスになるなと。そこはもう切り替えられましたね。
橋本 ほんま、そこまでやり尽くしたし、と。
松中 はい。やっぱり辞めてからのことも考えないといけなかったんで。そういう蓄(たくわ)えというか自分の中で引き出しはいっぱいつくったほうがいいじゃないですか? その前にもちろん、もっとこのトレーニングを早く知っとけば違うバッティングを残せたんじゃ…とか、追い求めたい気持ちはありましたけどね。
◆この続きは、『週刊プレイボーイ』22号(5月16日発売)「松中信彦(元ソフトバンクホークス)独占インタビュー」にてお読みいただけます。バッティングを極めたあの時代、そして松坂、ダルビッシュとのしびれる勝負についても独白!
●松中信彦(MATSUNAKA NOBUHIKO) 1973年生まれ、熊本県出身。新日鐵君津から96年、ドラフト2位で福岡ダイエーホークスに入団。2003年に初の打点王に輝くと、翌年には三冠王に輝く。06年にはWBC日本代表の4番として優勝に貢献。その後、けがで苦しみ二軍生活を経験、今春引退を発表
●橋本清(HASHIMOTO KIYOSHI) 1969年生まれ、大阪府出身。PL学園時に甲子園優勝。87年、ドラフト1位で巨人に入団。セットアッパーとして活躍、“勝利の方程式”と称されるが、けがのためホークス移籍後の2001年に引退。現在、評論などで活躍
(撮影/五十嵐和博)