新日鐵住金かずさマジックに兼任コーチとして就任した渡辺俊介 新日鐵住金かずさマジックに兼任コーチとして就任した渡辺俊介

地上わずか3センチの低さから繰り出す個性的なアンダスローで「サブマリン」の異名をとった元千葉ロッテの渡辺俊介

2013年に千葉ロッテを退団した彼が最後に選んだのはプロのマウンドではなかった。7月に行なわれた都市対抗野球では惜しくも1回戦で敗退したが、彼の想いは続いていく――。

* * *

新聞記者たちの囲み取材が一段落すると、渡辺俊介はいきなり通路の床にへたり込み、両手をついてうめくように呟(つぶや)いた。

「ああ~、疲れた~」

シャワーを済ませ私服に着替えているというのに、まだ顔は紅潮している。

「WBCより疲れた。日本シリーズより……」

どこまでが本気で、冗談なのか。ただ、表情は晴れやかだった。

6月5日、埼玉県営大宮公園野球場。この日、社会人の「都市対抗野球大会」最終予選の南関東大会では新日鐵住金(しんにってつすみきん)かずさマジックとJFE東日本の試合が行なわれていた。

勝てば東京ドームでの本戦進出が決まる大事な試合。そんなマウンドに、渡辺はかずさマジックの5番手として、8回から延長13回までの6イニングを投げ切り、9-8の勝利に貢献した。

ただ渡辺は、その3日前にも7回から登板し、こちらも延長の末、10回まで4イニングを投げ勝っていたのだ。

中2日で計10イニング。球数は優に100球を超え、日差しはすでに夏のそれだ。39歳の渡辺にとって、過酷でなかったはずはない。

「でもね、これが社会人野球ですからね……」

渡辺はへたり込んだまま小さくほほえみ、また「ふう」と息を吐いた。

■社会人野球には“諦める”という概念がない

2000年、ドラフト4位で千葉ロッテに入団。プロ13年で255試合に登板し、87勝82敗、防御率3・65。だが残した数字以上に、“地上わずか3cm”とも称された低さから繰り出す個性的なアンダースローは、プロ野球の世界でもひときわ異彩を放っていた。

そんな渡辺俊介が13年に千葉ロッテを退団。2年間のアメリカ独立リーグなどを経て、社会人野球の新日鐵住金かずさマジックに投手兼任コーチとして加わったのは昨年12月のことだった。千葉県君津市にある同チームは、かつて渡辺がプレーした、いわば古巣でもある。

プロから社会人へ。それも古巣なら近年では珍しくない移籍だ。ただ、渡辺ほど実績があり、またベテランともなれば異例なことではあった。

社会人野球に戻った理由

 マウンドでのポーカーフェースぶりとは対照的に、穏やかな表情で取材に応じる渡辺俊介。この日は完全にコーチの顔だった マウンドでのポーカーフェースぶりとは対照的に、穏やかな表情で取材に応じる渡辺俊介。この日は完全にコーチの顔だった

なぜ、今この年齢で社会人野球に戻ったのか?

本戦出場決定後のある日。君津にあるかずさマジックの球場を訪れた。渡辺は、マウンドで見せるポーカーフェースとは少し異なる、穏やかな表情をしていた。

「ひと言で言うのは難しいですけれど……」

言葉を探しつつ、渡辺は丁寧な口調でこう続けた。

「僕を必要としてくれたから、ですかね。やっぱり自分を必要としてくれる場所があるということはありがたいですし、嬉(うれ)しいことですし」

昨オフには、台湾や日本のプロ野球チームから打診もあったという。しかしどこよりも早く、そして強く自らを求めてくれたのが古巣だった。

それに、と渡辺は続けた。

「社会人には“諦める”という概念がないんです。どんな点差でも最後のアウトを宣告されるまで絶対に諦めない。そんな執念が社会人野球にはあるんです。高校や大学とも、もちろんプロとも違う執念。僕、社会人野球って、日本の野球の原点だと思うんですよ」

それは社会人野球の成り立ちに起因している。企業チームの役割は、会社の知名度を上げること。同時に、社員の士気高揚を目的としている。

そのためには都市対抗という、最も大きな夏の全国大会への出場は絶対的な条件となる。極端な言い方でなく、社会人野球の選手の存在意義は、都市対抗に出られるか否かにかかっている。

だから諦めない。

事実、渡辺が登板した2試合とも、相手チームの打者たちはまさに渡辺にしがみつくように、粘り強く攻め立てていた。彼のキャリアからすれば初対戦の打者でも欠点を見抜き、打ち気をそらし、ゴロを量産することもたやすいはずだった。ところが相手打者たちは渡辺の投球に食らいついた。空振りしそうなコースもファウルで逃げ続け、渡辺を苦しめた。

廊下にへたり込んだのは、もちろん疲労もあった。しかしそれ以上に役目を務めた重圧、そして解放された安堵(あんど)感が渡辺を包み込んだのだ。

「そんな野球にもう一度戻ってみるのもいいかなって……。ただ、チームのメンバーに言われましたけどね。『16年ぶりに戻って、社会人の洗礼浴びましたね』って(苦笑)」

しかし渡辺は、必ずしも“助っ人”として戻ったわけではなかった。むしろ、心はマウンドになかった。

「個人的には、正直言って、もう投げたくはないんです」

渡辺は、そう言った。

自分はコントロールが悪いと思い込んでいた

渡辺の国学院大学時代の恩師である竹田利秋監督(現・同大学総監督)の回想。

「当時の渡辺は、決して目を引く投手ではなかった。しかし人の話をちゃんと正面から聞き、受け入れる。そういう素直さ、謙虚さを持った選手でした。言葉にすれば凡庸に聞こえるかもしれません。でも自分の足りない点を理解し、認めることは案外難しいことです。渡辺はそれができた選手だったんです。

投手としては、大学でもコントロールに難があった。渡辺は、それまで『自分はコントロールが悪い』と思い込んでいたようでした。でも“生まれつきのノーコン”なんていない。その投手本来の動きさえ見いだせれば、ある程度のコントロールはつく。渡辺は私の指導を素直に受け入れ、一緒になってフォーム矯正をしました。その結果、コントロールだけでなく、自分で自分の殻を破ることができたんだと思います」

竹田の下、渡辺は初めて本気で野球をやる、ということを学んだ。いや、思い知らされた。

「うまくなりたかったら、人間から変わらなければダメだ」

それが竹田の持論だった。

小手先の技術ではなく、人間性を高めて初めてうまくなれる。野球を通じての人間教育といってもよかっただろうか。グラウンドが雨で使えなければ、ノートを持たせ、6時間も講義した。

「もうあの時期には絶対に戻りたくない(笑)。でも僕にとってはプロ以上に影響を与えられた時期だったんです」

大学時代の渡辺のベストピッチは、4年生になる春の沖縄キャンプでのピッチングだという。

故障上がりで急遽(きゅうきょ)登ったマウンドで、地元の大学相手に1イニングだけだったが、見事なピッチングを見せた。

それをたまたま観戦した新日鐵君津時代の監督が渡辺に惚(ほ)れ込み、入社となった。

渡辺は「厚板調整グループ」という部署に配属され、試合がない日は午前中だけ仕事をして午後から練習に向かった。

「基本給は当時で20万円。手取りは寮費など引かれて十数万円だったと思います。決して高給じゃなかったけれど楽しかった(笑)。寮の近くに、野球部員は安く飲ませてくれる店があったんです。そこに行ってはみんなで飲んで」

都市対抗に出られなかったら廃部の危機

時代はすでに不況下で、企業が野球チームを維持するのも難しい状況になっていた。

「今年、もし都市対抗に出られなかったら廃部だ!」

大会前、渡辺ら選手たちはマネージャーからそう告げられた。あるキャッチャーの先輩が、渡辺にこう言った。

「頼む。都市対抗連れていってくれ。まだ野球がやりたい」

渡辺が2年目の予選のことだ。しかし先輩の願いに反し、先発した渡辺は4回途中、ノックアウトを食らった。

「ただ、その後、エースの恩田(寿之)さんという先輩投手が踏ん張ってくれたおかげで都市対抗に出場できたんです」

都市対抗に出場しても、プロのように給料が上がるわけではない。良い選手はプロに行く。そして残った者はまた都市対抗を目指す。本当に野球が好きでなければ続けられない世界。

かずさマジックで長年トレーナーを務め、渡辺の入社時から今回の復帰までを知る萩原彦太郎の回想。

「入社した頃は、相当負けず嫌いな男でした。でも選手としてのセンスはハッキリ言ってなかった(笑)。コントロールもない。バネもそこそこ。後になって『下手投げという職業があってよかったな』なんてよく冗談言っていました。

あの独特のフォームを支えたのは身体の柔軟性なんです。アンダースローという投げ方は、ほかのフォーム以上に股関節、肩関節はもちろんのこと、全身のしなやかさ、柔軟性を必要とする。その点、俊介は柔軟さを超えて“緩かった”といってもいいかもしれません。だから試合前にかなりのボールを投げておかないと、肩に適度な張りが生まれずフォームが安定しなかった。

『これが制球難の原因のひとつかな?』と思って本人と相談し、トレーニング方法を工夫していきました。それが今のフォームです。俊介の柔軟性は、今でもそう衰えていません。だから39歳になっても投げ続けられているんだと思います」

◆この続きは『週刊プレイボーイ』31号「渡辺俊介『野球人生の最後に都市対抗で優勝したい』」にてお読みいただけます!

(取材・文/木村公一 撮影/下城英悟)