地上わずか3センチの低さから繰り出す個性的なアンダスローで「サブマリン」の異名をとった元千葉ロッテの渡辺俊介。2013年に千葉ロッテを退団した彼が最後に選んだのはプロのマウンドではなかった。
●前編記事参照→「“世界一低いサブマリン”渡辺俊介が投手兼コーチとして社会人野球の舞台に帰ってきた理由」
■アメリカで感じた日本野球の限界
千葉ロッテでは誰もが認める活躍を残した渡辺。しかし二軍暮らしが多かった晩年の2、3年は、もどかしい時期だった。若い選手が一軍に呼ばれても「なぜ俺じゃないんだ」と思えなくなる。悔しさが次第に薄れていく。それどころか自身が助言した若手投手が昇格し、活躍すれば嬉しさすら感じた。
長年やっていればチーム事情というものもわかる。30代後半の自分より、チームは若い投手が伸びてくることを願う。それも当然のことだ、と。理解できてしまう自分に気づいたとき、渡辺は思った。
「現役は続けたい。だったら環境を変えないとダメだな」
結局、1勝も挙げられなかった2013年のシーズンのオフ、渡辺は球団に退団を申し入れた。
翌14年春、ボストンの招待選手としてメジャーのキャンプに参加した。フロリダの球場に足を踏み入れ、シドニー五輪やWBCなど海外のマウンドでの高揚感を思い出した。
天然芝。爽やかな風。すべてが心地よい。
3月下旬、契約には至らず解雇となったが、それでも渡辺は帰国することなく、ボストンが橋渡しをしてくれた独立リーグに参加した。オフにはベネズエラのウインターリーグにも。
野球をしていて、楽しいと感じたのはいつ以来だったろう。それがアメリカに残り、ベネズエラにまで行った理由のひとつでもあった。
「野球ってこんなもんかな」と感じていた千葉ロッテの晩年。やりきったという自負もないが、冷めていたわけでもない。でも、どこか引いて野球を見ていた。
だが、アメリカは違った。
自分が現役のほうが効果的に指導できる
「真剣勝負で打たれもしましたけど、それも含めて楽しめた。日本では、野球は武道に近い感覚がありますよね。苦しみに耐えて我慢してこそ、その向こうに何かが見える、みたいな。でもアメリカではスポーツはまずは楽しむものだというのが根本にあるんです。
お客さんもよく野球を知っていて、いいプレーには精いっぱいの拍手や歓声をくれるし、手抜きプレーや点差の離れた場面での盗塁などはブーイングの嵐(笑)。あのグラウンドとスタンドの一体感は、とにかく心地よかったです。日本にいるときはどうしてこんなふうに楽しめなかったんだろう、もったいなかったなって思いましたね」
若い投手たちには、助言も与えた。言葉は満足に通じないから、突っ込んだ部分まで伝えることはできない。それでも安いモーテルの一室で、暗い照明のグランドの隅で、言葉を変え、手本を示し、伝わりきらないものを伝えようと心を砕いた。
「アメリカでもベネズエラでも、変則ピッチャーはみんな僕に話を聞きに来るんです(笑)。日本で普通に話すのがどれだけ楽だと思ったか(笑)。でもその分、伝わるとすごく嬉しかった」
■「都市対抗では俺、投げないからな」
2年間のアメリカ、ベネズエラでのプレーを終える頃。渡辺に強いラブコールを送ったのが、現在、かずさマジックで監督を務める鈴木秀範(ひでのり)だった。
鈴木秀範の回想。
「実はその前年、彼が千葉ロッテを辞めて1年アメリカに行っていた後にも声はかけていたんです。プロでの経験はもちろんですが、アメリカやベネズエラでの若い選手たちとの話を聞いたとき、その経験をぜひ、うちの若い投手に伝えてほしいと。結局、2年越しに実現したわけですが、すぐに効果は表れました。
最初は俊介とまともにしゃべれない連中もいましたし(笑)、遠目に見るだけで近寄れない子(投手)もいました。
でも彼はそんな若い連中に自分から歩み寄り、ひとりひとりに合った指導をしてくれました。なぜそのトレーニングをするのか。どんな意味があるのか。押しつけではなく、考えさせながらやるトレーニングです。みるみる選手の目の色が変わっていきました。
彼は投手兼任コーチとして復帰してくれましたが、現役を続けたいというのは、本人からの希望です。でも正確に言えば、自分がマウンドに立ちたいからではなかった。若い選手を指導するとき、自分が現役のほうが効果的に指導できると考えたからなんです。
実のところ、俊介にとって社会人で投げるメリットはありません。あれだけの実績があれば抑えて当然と思われるし、打たれれば叩かれる。なのにアイツは社会人に戻ってきてくれた。いざという試合では投げなければいけないとわかっていて。その男気に報いるためにも、アイツを“負け投手”にしちゃいけない。彼を迎え入れるとき、それも私の責任なんだと思いました」
悔しさを覚えたのは野球で活躍してから
かずさマジックの投手陣は、兼任コーチの渡辺を除いて14名。平均年齢は23歳と若い。
「若いから、考え方もその深さもそれぞれです。そこで心がけているのは、安易に答えを教えないこと。答えは考えさせ、自分で導き出させたい。でないと自分のものになりませんから。それで結果を出してくれるほど嬉しいことはありません」
もどかしさを感じるときもある。もっと球速が出ていいはずの子が、なかなか上がってこない。技術的な課題か、精神的な問題か、つかみきれないこともある。復帰したのが去年の12月。毎日時間を共にしているとはいえ、投手全員の性格、気質をつかみきれているわけでもない。
ただ渡辺には、引き出しがある。
「もともと自分は『これで打たれたら仕方ない』というだけの球威、球速がある投手ではなかったですから」
渡辺にとってアンダースローという投げ方は、派手に三振の山を築く投法ではない。いかにアウトを取れる可能性を高めていくか。そのためには、打者がイメージしていないことをし続ける。それに尽きた。
理想を追い求めるより、現実の中から活路を見いだす。それは渡辺俊介というひとりの男の生き方にも通じるものかもしれなかった。
「子供の頃から、僕は何をやっても飛び抜けたものがなかったんです。なので自分で自分にあまり期待をしていなかった。期待しないから挫折もしたことがない。できなくても『ああ、そうだよな』と納得できてしまう。悔しさを覚えたのは、やっぱり野球で活躍してからですね」
そんな思いを抱く渡辺だからこそ、若い投手たちはかわいい存在に映った。
ただし野球の、本当の意味での指導は練習の中にはない。投手として最も大事なものは、いくらコーチが教えようとしても伝えきれるものではないからだ。マウンドで自らが感じ、つかみ取らなければならない。それも、より重要な場面を経験してこそ、つかむものもまた大きくなる。
ところが社会人野球は一戦必勝の世界。重要な舞台を教育の場にすることはできない。そしてそんな場面こそ、復帰した渡辺の登板が望まれる。それはジレンマと言い換えてもいいのではないか?
渡辺は、苦笑した。
「望まれる以上、マウンドには登る。絶対に結果を残さないといけないとも思っています。それもコーチの役割なんだと考えているんです。こういうふうにすれば抑えられる。そんなヒントを若い投手たちが感じ取ってくれればいい。僕が社会人で、うちのチームでマウンドに登る理由は、そこにあるんです」
都市対抗では俺、投げないからな
ただ内心では、やっぱり育てた投手に行かせたい。
「ほかのピッチャーが投げているときは、自分が行きたいとは思わない。交代と言われ『ピッチャー渡辺』ってコールされたら、諦めて行く(苦笑)」
それもまた本音だった。
復帰した昨年末。渡辺は「指導のため」と言いつつも、投げる気は満々だったと関係者は語っていた。だが、その気持ちも若い投手たちと接する中で、彼らへの情に変わり、次第に薄れていったという。
精神的にも時間的にも、今、渡辺はコーチに重きを置いている。投手としてのトレーニングも重ねてはいるが、心はやはりコーチだ。
都市対抗への進出が決まった後、ミーティングで渡辺は投手陣にこう言ったという。
「都市対抗では、俺、投げないからな。みんなでどうやったら優勝できるか、考えろ」
なかには「それでは優勝できません」と答えた者もいたという。渡辺はこう返した。「だから考えることが大事なんだよ」
俺がいるからと思って頼るな。でも、いざとなったら「ケツ拭いてやるから思い切っていけ」と送り出すだろう。その結果、安心して投げ切ってくれたらいい。それで自分が投げないで勝てたら、一番いいんだ、と。
渡辺は言った。
「僕はもう、投げることでワクワクすることはできません。でも若いヤツらがマウンドで力を発揮している姿を見たら、きっとワクワクできると思うんです。そんな都市対抗になったらいいし、したいですね」
そう言うと、渡辺俊介は窓から見える山並みのほうに視線を送り、若者のような澄んだ瞳で、少しだけほほえんだ。
7月に行なわれた都市対抗野球では登板もなく惜しくも1回戦で敗退したが、彼の想いは続いていく――。
◆『週刊プレイボーイ』31号「渡辺俊介『野球人生の最後に都市対抗で優勝したい』より
(取材・文/木村公一 撮影/下城英悟)