一日で3つの金メダルを日本にもたらした(左から)土性沙羅(69㎏級)、伊調馨(58㎏級)、登坂絵莉(48㎏級)。翌日には、63㎏級の川井梨紗子も金を獲得

我々に120%の勇気と感動と興奮を与えてくれた、リオデジャネイロオリンピックが閉幕した。日本は金12、銀8、銅21の計41個と、過去最多のメダルを獲得した。

中でも圧巻だったのは金4、銀3のメダルを獲得したレスリング。クライマックスはなんといっても17日に行なわれた女子の3階級だ。48㎏級で登坂絵莉(とうさか・えり)、58㎏級で伊調馨(いちょう・かおり)、69㎏級では土性沙羅(どしょう・さら)が優勝し、日本にトリプル金をもたらしたのだ。

もちろん1日に3つの金を獲得したのは日本レスリング初の快挙だ。女子の個人種目ではこれも初となるオリンピック4連覇を達成した伊調に対しては、日本政府が国民栄誉賞を与える意向を固めた。アマチュアレスラーで受賞すれば、吉田沙保里以来ふたり目の快挙となる。

翌18日には川井梨紗子も高速タックルを次々に決め、63㎏級を制して日本のレスリングに4つ目の金をもたらした。女子だけで金4つ。日本の金の総獲得数は12だから、そのうち3分の1はレスリングで稼いだことになる。

おまけに、登坂、伊調、土性の決勝はいずれも対戦相手にリードを許しながら、時間切れ寸前に大逆転するという、レスリングに詳しくない人が見ても手に汗握るシーソーゲームだった。一部のマスコミはこれを「ミラクル」と称するが、そのひと言で片づけてしまうのはあまりにも乱暴すぎるだろう。

立て続けに「ミラクル」が生まれたのには、必ず理由があるはずだ。日本代表総監督でもある栄和人氏を直撃すると、“最小失点の法則”を明かしてくれた。

「いくら得点能力の高い選手でも失点が多かったら勝つかどうかわからない。土性なんか去年の世界選手権では全部で20点くらい取られて3位になった。点を取られたら地力で逆転する力がないとダメなんですよ」

実際、去年の世界選手権の土性の戦績を調べてみると、1回戦から3位決定戦まで33点取っているのに対し、32点も失点を許している。栄監督は、この失点の多さが準決勝で敗れた要因のひとつと考えた。

「それからは試合形式のスパーリングで、失点を意識させてやらせるようにしました」

その効果は絶大だった。準決勝までの失点は6点のみ。決勝も2点リードを許したが、残り30秒を切ったところでタックルを決めて、他国の応援団も驚く大逆転勝ちを収めた。土性のヒーローインタビューがまた泣けた。

「世界選手権で金メダルを獲れなくて悔し涙を流したけど、今回は笑顔でいられるのが嬉しい。金メダルは重いです」

そんな土性の一年先輩で、一緒に居残り練習をして実力を磨いた登坂の優勝も劇的だった。逆転の片足タックルを決めたのは残り時間5秒とギリギリだったのだ。

もっとも、登坂にとって土壇場での逆転勝利は今回が初めてではない。昨年の世界選手権や全日本選手権の決勝でも逆転勝ちを収めている。大舞台で立て続けに逆転という離れ業を演じられるのは、やはりミラクルのひと言で片づけるわけにはいくまい。

その理由について栄監督に訊(き)くと、あっさりとこう答えた。

「スタミナや体力があるからですよ」

「あそこに行くと、強くなる」を真似はできない

日本代表ともなれば、スタミナや体力があるのは当たり前なのでは? 他に何か特別な秘密があるのでは? と突っ込むと、栄監督は一笑に付(ふ)した。

「秘密といわれても、そんなにないですよ(微笑)。練習量だけを増やしても疲れるだけでしょう。それよりもどこでどういう練習をしたらいいのか。どこでどういうふうに練習を変えたらいいのか。そういうことを考えるほうが大事だと思いますね」

今回の女子の日本代表はみな栄監督が率いる至学館レスリング部出身か、在籍中の身。つまり、日本代表になる前から栄監督の指導を受けてきたメンバーなのだ。その練習は質も量も折り紙付き。それは金メダリストたちから“浮いた話”が聞こえてこないことからも一目瞭然だ。カレシを作ったらいけないのではなく、作る暇がないといったほうが正しいかもしれない。

そういえば、金メダルを獲った翌日、他の日本代表の応援で観客席にいた登坂は、勝利を収めて恋人らしき人と抱き合う他国の選手を目の当たりにすると、ストレートに羨(うらや)ましがっていた。

「私もああいうことをしてみたいなぁ」

至学館は、鉄のカーテンは敷いていない。海外から「一緒に練習したい」というリクエストがあれば、栄監督は快く応じる。断る理由はない。向こうが栄監督の指導を真似したくても真似できないという絶対の自信を持っているからだ。

「モノだったら簡単にコピーできるけど、人のやることはそう簡単にはいかない。実際いろいろな国から練習に来て強くなって帰っていくけど、僕の言葉の使い方、練習内容、試合が近づいた時の追い込みの仕方などを真似することはできない」

栄が至学館の前身である中京女子大付属高校に教員として赴任したのは96年春のことだった。以来、20年以上にわたり高校大学一貫のレスリング部の指導を続けている。練習環境にも恵まれた。

「高校生も一緒に練習するウチのレスリング部には、キャンパス内でダッシュをするのに最適な坂道や階段がある。さらに寮も作って、育てていくうちに強化はうまくいった感じがしますね」

栄監督は、誰もが最初から強いわけではなかったと強調した。

「最初は選手が少なくても、その中からひとりでも全日本を獲る選手が出てくると、『あそこに行くと、強くなる』という話になって選手が増えてくる。そうすると、全日本を獲れる選手が増え、さらに世界選手権も制することができる選手が増えてくるうちに、どんどん選手が集まってきたわけです」

人の輪はさらなる人の輪を作る。先輩が世界チャンピオンになるのを目の当たりにした後輩が「私も世界チャンピオンになりたい」と思うのは、しごく当たり前のことだろう。

栄監督は言葉を続ける。

「あの人が世界チャンピオンになれるなら、私もなれるんじゃないか。そういう連鎖反応が次々に起こったことは確かだと思う」

伊調は「もっと沙保里さんを支えるべきだった」と反省

栄監督が真剣に女子レスリングに取り組み始めた頃、まだ他の大学(高校)はどこも強化をしていなかったこともプラスに働いた。

「軌道に乗り始めたのは4、5年経ってからですね。そのくらいはかかりましたよ。そして、(初めて女子が正式種目として認められた)アテネではウチからオリンピックに選手を3名も出しています」

そのアテネから北京、ロンドンとオリンピックで金を獲り続けた吉田と伊調は明暗を分けた。大会前から股関節や腰の痛みを訴えていた吉田は、初戦から相手が動いてきたところをカウンターで攻める省エネ作戦に徹して勝ち進んだ。

誤算だったのは、好敵手と目された選手が反対ブロックに集中してしまったことだろう。おかげで、決勝でレベルの異なる世界ランキング1位のヘレン・マルーリスと当たったが、準決勝までと同じリズムで試合をしてしまい、勝機を逸してしまった。いきなり強い選手と当たるより、徐々に強い相手と当たっていったほうが体や目は順応することができる。

大会前、ある関係者が頑張れと声をかけたところ、吉田は任せておいてと言わんばかりに自分の胸をポンと叩いたという。しかしながらマルーリスに完敗を喫すると、マット上で悔し涙を流した。

巷(ちまた)では「タレント活動をしながら狙えるほどオリンピックは甘くない」という厳しい声もあるが、女子レスリングのオピニオンリーダーとして率先して競技のPR活動に務め、日本代表のリーダーとして若い選手のまとめ役まで引き受けていた吉田を誰が責めることができようか。

試合翌日、運良く吉田と会う機会があった。気持ちの切り換えが早い吉田はサッパリとした面持ちだった。もう十分という気もするが、吉田ほどのアスリートだ。今後については自分で納得がいくまで考えたうえで決断を下してほしい。

伊調は優勝しても「自己採点は30点」と、自分に厳しすぎる伊調節を変えることはなかった。他の代表とは異なり、普段は男子との練習で腕を磨いたうえでの前人未到の4連覇だった。伊調は「男子との練習は私を成長させてくれた」と言い、それなしには3連覇も4連覇もなかったと言い切る。

チームリーダーとして若手を引っ張る吉田とは対照的に、伊調は徹底したレスリングの強さにこだわる求道者。後輩たちを手取り足取り指導するのではなく、「私の背中を見て盗みなさい」というタイプだろうか。それでも、かつて同じ釜の飯を食い、日々一緒に練習していた吉田を気遣った。

「日本選手団の主将として、ものすごい重圧と闘ってきたと思う。日本代表で(吉田に続く)2番目の年長者として、もっと沙保里さんを支えるべきだったと反省しています」

吉田同様、伊調もリオを最後に第一線を退くという話も耳にするが、果たしてどうなるか。ただ、吉田や伊調に続く次の世代がきちんと育っていることは確かだ。登坂、土性、川井の優勝は2020年の東京オリンピックに繋がっている。

(取材・文/布施鋼治 撮影/保高幸子)