次の半世紀も語り継ぎたい名勝負&珍シーンをプレイバック!

週プレよりも長いプロ野球の歴史。その最高峰の対決である日本シリーズでは毎年、死力を尽くした闘いが繰り広げられてきた。涙あり、笑いあり、ホームランあり、ボーンヘッドあり。この50年に起きた、後世に残る伝説の瞬間をふり返ってみよう。まずは【激闘!昭和編1から!

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【1978 ヤクルトvs阪急】初出場の広岡ヤクルトがパ・リーグ王者にガチで挑む阪急・上田監督が1時間19分の猛抗議

シーズンで43個の貯金をつくるなど、圧倒的な強さでパ・リーグを制した阪急。

一方、セ・リーグでは広岡達朗監督の徹底した管理野球により、球団創設29年目のヤクルトが初制覇。こうして1978年の日本シリーズは、4連覇に挑む阪急が「絶対優位」との下馬評のなかで開幕した。

ところが開幕直前、阪急の絶対的ストッパーの山口高志が腰痛により登板できなくなったことで雲行きが急変。切り札を欠いた阪急は、好調ヤクルト打線とがっぷり四つの打ち合いを余儀なくされてしまう。

それでも地力に勝る阪急は、第3戦でベテランのアンダースロー足立光宏が完封勝利を挙げて2勝1敗。さらに第4戦も先発した“酒仙投手”今井雄太郎の奮投で、阪急が5-4の1点リードで9回を迎えた。2死一塁、あとアウトひとつで日本一に王手の場面で、打席にはリーグ優勝の立役者・ヒルトン。

このとき阪急は初戦で勝利したエースの山田久志がブルペンで待機していたが、今井が続投を志願し、上田利治監督も了承。だが、これが完全に裏目となり、ヒルトンに左手一本でレフトスタンドに運ばれ逆転を許してしまう。その裏、阪急は一塁走者の福本豊が盗塁を仕掛けるも、警戒していた松岡弘-大矢明彦バッテリーに刺され、万事休す。大逆転勝利でシリーズの流れは一気にヤクルトへと傾いた。

そして3勝3敗で迎えた第7戦。ヤクルト1点リードの6回、大杉勝男がレフトポール際へ大飛球を放つ。これをレフト線審の富沢宏哉がホームランと判定すると、上田監督は「ファウルやないか!」と激高。選手をグラウンドから引き揚げさせ、そのまま試合放棄も辞さない覚悟で猛抗議を続けた。

これを見かねた金子鋭としコミッショナーがグラウンドに下りてきて説得したものの、上田監督は「線審を代えない限り、試合続行はできない」と頑として譲らない。最後はようやく阪急球団社長らの説得に応じたが、試合が再開されたのは日も傾き始めた午後4時過ぎ。中断は実に1時間19分にも及んだ。

その後試合は、大杉のこの日2本目の本塁打などで着実に追加点を挙げたヤクルトが勝利し、初陣で臨んだ日本シリーズでいきなり日本一を達成する。

ちなみに、このシリーズのヤクルト主催試合は、東京六大学のリーグ戦と日程が重複したため、本拠地の神宮球場ではなく後楽園球場で行なわれた。もし神宮での開催なら、疑惑の一打はどうなっていただろうか。

世界の王貞治が逆転サヨナラ3ラン

【1971 巨人vs阪急】若きアンダースロー、山田久志の快投をひと振りで粉砕!世界の王貞治が逆転サヨナラ3ラン

敗れた若きサブマリンはマウンド上でうずくまり、そのバックで殊勲のヒーローがダイヤモンドを悠然と回る。

日本シリーズ史上屈指の名場面とされる、王貞治(巨人)が山田久志(阪急)から放った逆転サヨナラ3ランのシーンだ。

昭和40年代のプロ野球は、ミスタープロ野球こと長嶋茂雄と、一本足打法の王による「ON砲」が円熟期を迎えていた。

一方のパ・リーグは、闘将・西本幸雄監督率いる阪急がリーグ制覇の常連となるものの、日本シリーズでは3度巨人に敗れていた。そして、これが4度目の挑戦。

だが、1勝1敗で迎えた第3戦、9回裏に起きたドラマが、打倒・巨人に燃える阪急ナインの意欲をそぎ取ってしまう。

シーズン22勝、最優秀防御率を獲得した山田と、セ・リーグ新人王の関本四十四(しとし)が、それぞれ移動日を挟んで中1日で先発するという、現在ではありえない投手起用から始まった第3戦のサヨナラ劇。

この一打を、王は「生涯一のホームラン」と語り、山田は「あの一発で鼻をへし折られ、成長できた」とふり返る。結局、シリーズは4勝1敗で巨人がV7を飾った。

劇的な一打が伝説になる一方、阪急サイドが悔やんだのは、王の一発よりもその前の3番・長嶋に打たれたセンター前ヒットだった。当時、阪急コーチで、後に監督となる上田利治は、事前のデータから長嶋のヒットコースを想定していながら、二遊間を詰める確認が甘かったのだ。

「飛んだ瞬間、勝ったと思った」というゴロは、ショート阪本敏三のグラブのすぐ先を抜けた。そのわずかな差が、シリーズの勝者と敗者を分ける結果となった。

江夏の21球に悲運の名将またも散る

【1979 広島vs近鉄】あまりにも有名な最終回、走者には福山雅治の義父江夏の21球に悲運の名将またも散る

両チーム3勝3敗で迎えた第7戦。

この試合で生まれたのが、「プロ野球史に残る最高の名場面」といわれている永遠の伝説シーンだ。

4-3とリードした広島は、7回途中から江夏豊を投入。試合は9回裏を迎えた。ところが、江夏は先頭打者にヒットを許すと、盗塁と悪送球が絡み、わずか11球で無死満塁の大ピンチを迎えてしまう。このとき、誰もが“悲運の名将”西本幸雄監督の悲願達成を想像した。

しかし、ここから江夏劇場が幕を開けたのである。まず、代打・佐々木恭介を三振で1アウト。続く石渡茂の打席に西本監督はスクイズを敢行するが、江夏は寸前で察知し、カーブの握りから外角高めに大きく外す離れ業をやってのけた。ボールは石渡が必死に出したバットの下をくぐって空振り。三塁走者は三本間で憤死して2アウト。最後は石渡が空振りの三振で3アウトとなり、広島が初の日本一に輝いたのだった。

無死満塁になってからの10球は、ファウル以外、ゴロもフライもひとつもなく、バッテリー間のみで劇場は幕を閉じた。

余談だが、9回裏の近鉄の攻撃は、無死一、三塁になった場面で、四球で出たアーノルドに代走が送られた。その選手の名は吹石徳一。愛娘は女優の吹石一恵であることは有名だが、「江夏の21球」の登場人物のひとりでもあったのだ。三塁走者の藤瀬史朗がスクイズ失敗で憤死した後、吹石は三塁まで到達したが、同点の走者にはなれなかった。

現在の吹石は、社会人野球・日本新薬のヘッドコーチ。DeNAの倉本寿彦を育てた恩師でもある。

サヨナラ、サヨナラ、またサヨナラ!

【1983 西武vs巨人】球界盟主ががっぷり四つ、手に汗握る史上最大の大激戦サヨナラ、サヨナラ、またサヨナラ!

「巨人に勝ってこそ、本当の日本一」―。

前年の1982年に中日を下して日本一になった西武・広岡達朗監督は、そう繰り返した。

そんな広岡の念願が叶(かな)ったのが、1983年のシリーズだ。1979年に球団創設され、パ・リーグの強豪となった新鋭・西武と球界の盟主・巨人の初対決は日本中から注目された。

第1戦は、巨人の先発・江川卓を西武打線が攻め、4番・田淵幸一の鮮やかな本塁打などで先勝。続く第2戦は、巨人が若き4番・原辰徳の一発と、先発・西本聖が武器のシュートで内野ゴロの山を築く完封で1勝1敗とした。

そして、舞台が後楽園球場に移ると、日本シリーズ史上まれに見る大激戦へともつれ込む。第3戦は、1点差を追う巨人が、9回裏2死からレジー・スミスのヒットで同点に追いつき、続く中畑清がリリーフで登場した駒澤大時代の後輩・森繁和から三遊間をライナーでぶち抜くサヨナラヒット。超満員の巨人ファンで埋まる後楽園球場に大歓声が轟(とどろ)いた。

ところが、続く第4戦で、巨人はエースの江川がプレー中に右足肉離れを起こして5回途中で降板するアクシデントが発生。後続も打たれて2勝2敗のタイになる。すると、第5戦でも田淵が西本のシュートをレフトポールに直撃させる本塁打を放ち、西武がリード。これで流れは西武に向くかと思いきや、巨人は7回に同点に追いつき、9回裏にヘクター・クルーズがサヨナラ3ラン。後楽園は再び大熱狂の渦となり、巨人が王手をかけた。

続いて、所沢に移動した第6戦。西武は左腕・杉本正が巨人打線をかわし、2-1のリードで9回へ。しかし、ここも簡単に終わらず、中畑が右中間を抜く2点三塁打を放って巨人が逆転。ここを抑えれば日本一となる9回裏。藤田元司(もとし)監督は、このシリーズ2完投の西本をリリーフに送る。

しかし、その西本が西武打線につかまり、またもや同点で延長戦に突入。10回裏には、故障を押して登板した江川から、小兵・金森栄治がサヨナラヒットを放つ。このシリーズ3度目のサヨナラは西武がものにし、巨人は目前の日本一を逃した。

そして、雨で1日順延して迎えた最終第7戦。序盤に巨人が“意外性の男”山倉和博の一発などで2-0とリードしたが、7回裏に3度目の先発マウンドを任された西本を攻め、無死満塁からテリーの走者一掃の二塁打でついに逆転。そのリードを7回からリリーフした東尾が守り切って、ついにゲームセットとなった。

宿願を果たして“真の日本一”になった西武は、以後、黄金時代を築いていく。★続編 ⇒ 後世に残る名試合ばかり!「激闘!昭和編2」

(文/キビタキビオ 谷上史朗 寺崎江月)