今はなき横浜大洋ホエールズの最終戦で運命的にデビューした男は、暗黒時代と呼ばれた苦しい時代も、ただ横浜のために堂々と投げ続けた。そして初のCS出場、盛大な引退試合。“ハマの番長”・三浦大輔と横浜の物語。
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「引退を発表してから、横浜の街全体で三浦大輔を送り出していただいて……本当に幸せ者です。成績を見たって、ここまでやってもらえる選手ではないですからね(笑)」
引退試合の数日後、三浦大輔はそう言って24年前の秋の日を思い出していた。
1992年10月7日。
横浜大洋ホエールズ最後の日に、ルーキーの三浦大輔は初登板を果たした。スタンドには大洋、そして引退するエース遠藤一彦の最後を惜しむファンが詰めかけたが、三浦には感傷に浸る暇はなかった。
「高校からドラフト6位で入って、周りにはすごい球を投げる投手がたくさんいる。球も遅い、体力もない自分がプロで生きるにはどうすればいいか。とにかく試合に出るために必死でした」
三浦は7回から打者6人を完璧に抑えてデビューを飾ると、そのまま試合後の遠藤の引退セレモニーを目撃する。スタンドからは万雷の拍手と涙まじりの声援が送られ、遠藤は盟友の齋藤明雄と抱き合い大粒の涙を流す。18歳の三浦の胸には熱いものが込み上げていた。
「このときの遠藤さんのセレモニー、そして翌年の明雄さんの引退セレモニーを見て、『いつかこんな引退試合をしてもらえる選手になろう』と思っていました」
若い頃は生き残ることに必死だった。当時の厳しい練習のなかで小谷正勝(こたに・ただかつ)コーチと共に自身の投球スタイルを築き上げていく一方、1年目のオフには髪型を代名詞のリーゼントにし、そろいのスーツのときでも靴下だけは赤いものをはくなど、人々の印象に残るようにとなんでもやった。
4年目の95年に先発ローテーションに入ると、97年には10勝。翌年には背番号を18に変更して12勝を挙げ、入団以来初の日本一に貢献した。
「ミスして先輩に怒られたり、いろいろなことがありましたけど、優勝した瞬間に選手、コーチ、裏方さん、皆が泣いて喜び合うんです。『優勝するってこんなにいいものか』と思えた年でした。連勝で登板が回ってくるプレッシャーもあるけど、そこで自分が勝って『よっしゃ! 次につないだよ』って。厳しかったけど、楽しい時代でしたね」
史上最強のマシンガン打線を擁するベイスターズには黄金時代が来るはずだった。しかし、現実には2005年の3位を最後に、最下位が指定席のチームに転落していく。
何があっても弱いところを見せちゃいけない
「98年のメンバーだった誇りは今もあります。あのときは(石井)琢朗(たくろう)さんや谷繁(元信、たにしげ・もとのぶ)さんなど、20代後半の脂の乗った世代が中心で、『これから横浜の時代だ!』と思っていましたが、1年たち、2年たち、3年ぐらいしたら優勝メンバーのほとんどがいなくなってしまった。
自分も30歳を超えて、『俺がやらなきゃ』という立場になった。でも、チームは勝てない。何かを示さなければ。そう思ったとき、先輩たちの堂々としていた姿が頭に浮かんだんです。どんなに負けても、何があっても俺が下向いて弱いところを見せちゃいけない。そう決めたんです」
それは受け継いだエースの誇りだった。しかし誰もが認めるエースでも、三浦はついに“エース”の称号を自ら受け入れることはなかった。
「エースって簡単なものじゃないですよ。1年だけじゃない。3年、4年と続けて結果を残し、誰からも認められる存在。俺なんて、2桁勝ったのも数回だけです。三浦がエースだと言ってくれる人もいましたが、胸張って『俺がエースです!』とは言えない。ずっとエースを追い続けて……結局、なれなかったな」
2006年から昨年までの10年間で最下位7回。そのうち5回は勝率3割半ばという圧倒的な最下位に沈んだ。
「勝てないのはつらいです。お客さんも減り、ひどいやじもありました。それでも応援してくれるファンがいるから、なんとか勝てるようにと思うけど……ここだけ直せば、っていう簡単な問題じゃなかった。選手がどの方向を向けばいいかわからない。
そういう状況では、出ていく選手がいたこともしょうがないですよ。僕だって当時は疑問を持っていましたからね。(08年オフの)FA交渉のときも、宣言前から球団と何度も話し合いました。条件どうこうじゃない。『優勝するために球団はどうするのか』と、自分の疑問も全部ぶつけました。今思えば、球団批判ですよ」
FA宣言をした三浦は、父親が大ファンでもある阪神への移籍が濃厚と報じられたが、最終的にファンの「残ってくれ」という声を聞き、横浜への残留を選択した。
それでも、勝てなかった。
親会社がDeNAに変わった2012年の7月。通算150勝を挙げた三浦は、お立ち台で「横浜に残ってよかったです!」と叫んだ。それは否定され続けた横浜ファンが初めて聞く肯定の言葉だった。
150勝は通過点だと思っていたので、特別な感慨はなかったんです。だけど、お立ち台に上がってスタンドを見渡すと、俺以上にファンの人たちが喜んでくれている。その姿を見て『残ってよかった』と心から思えた。それが言葉に出ただけですよ」
なんとしても、もう一度優勝したい。負けが続いても声援を送ってくれるファンに「横浜を応援していてよかった」と思わせたい。三浦はそう言い続けてきた。
ホームランを打たれても強がってロッカーまで帰る
■始球式のマウンドに長男を立たせた理由
今年9月19日。これまで12球団で唯一CS(クライマックスシリーズ)出場のなかったベイスターズが、初めてCS出場権を獲得した。
試合後、歓喜に沸く選手たち、そしてスタンドを眺(なが)める三浦の表情は穏やかに見えた。
「あんなに満員のお客さんに喜んでもらって……。そして、もう俺が投げなくてもCSに進めるチームになったんだなって。引退は8月に一軍に呼ばれなかった時点で決めました。葛藤は常にありましたよ。『もう1年やればもっと登板機会が回ってきて、また復活できるかもしれない』って。でも勝てなかった以上、自分自身に甘えてはいけないと言い聞かせました」
ロッカールームに引き揚げた後、三浦は選手全員の前で引退を伝えた。
「本当は一緒に戦いたい。だけどそれができない。ずっとやってきた仲間ですから……つらかったですね。ただ、引退するけど、終わるまでは、こう、ずうっと一緒に……一日でも長く、みんなとユニフォームを着ていたい。だから日本シリーズまで連れていってほしい。そんな話をして、やっとスッキリできました」
現役最終登板はシーズン最終戦、9月29日のヤクルト戦に決まった。
勝たなければいけない試合だった。勝てばチームは01年以来のシーズン勝率5割。ラミレス監督は「勝負に徹する」と宣言し、三浦も「いつもと同じ。勝つだけです」と、先発マウンドに上がる。その幕開けとなる始球式、三浦の横には背番号18を背負う長男がマウンドに立っていた。
「あれだけは自分から球団にわがままを言わせてもらいました。あいつも野球をやっていますから、『親父はこの場所で投げているんだ』って、あの景色を経験させてやりたかった。託す思いもありましたよ。でも、マウンドで緊張する息子を見ていたら、涙が溢(あふ)れてきてね……。そのまま試合が始まって、ポンポンといきなり無死一、三塁。それで目が覚めましたけど(笑)」
このピンチは併殺打と三振で1点に抑えたが、2回に19歳のルーキー廣岡大志(ひろおか・たいし)の初打席で豪快なスリーランを浴びる。その裏に一度は味方打線が逆転したものの、4回、6回と3点ずつ奪われ、大量10失点。それでも三浦は顔色を変えず投げ続けた。
「申し訳ない、悔しい、それだけでした。あれだけの応援をもらって、味方にも援護してもらいながら逆転された。それでも、最後まで『やっぱりもうダメだな』という気持ちにはなれませんでした。ボール自体は……まだ勝負できる。自分の狙いどおりの球もありました。でも、勝負にいって、ちょっと甘くなるとことごとく打たれる。悔しい。それでも下を向くわけにはいきませんでした」
打ち込まれる三浦の姿を後輩たちが見ている。声をからして声援を送る3万の観衆が、テレビを通じて多くの人たちが見ている。それが折れそうになる心を奮い立たせた。
「見てくれる人がいる以上、絶対に膝に手はつかない。サヨナラ満塁ホームランを打たれても、思いっきり強がってロッカーまで帰る。それは最後まで貫きたかったことです」
三浦大輔はただの一投手
■いいチームだろ、と胸を張って言える
6回を投げ終えると、三浦はスタンドに一礼し、ベンチに引き揚げた。これで終わりだろう。そう思い横を見ると、ラミレス監督が1本指を立てている姿が目に入った。
「終わったと思っていましたから。『打席に行って、もうひとり投げるよ』と言われたときには、『もう一度打席に立てる、もう一度マウンドに上がれるんだ』って、いろんな思いが込み上げてきてね。スタンドの声援や拍手が聞こえたら、もうこらえ切れませんでした。特に最後のマウンドですね。髙城(たかじょう)が来て『最後は全部真っすぐでいきましょう』って。見たら号泣しているんです」
この日、三浦が希望してバッテリーを組んだ5年目の髙城俊人(しゅうと)は、マスク越しにもわかるほどに泣いていた。
「今年は2番手捕手という難しいポジションでも、腐らずに明るく盛り上げてくれた。あいつがルーキーのときから、投げた試合後には『あの場面、俺はこういう感じで投げたかった』と感想を言ってきたんですが、それを全部メモるんです。ほかの投手の試合でも同じように勉強してね。そういうことを知っていましたから」
最後のバッター雄平(ゆうへい)を追い込むと、三浦はマウンドを外し、バックスクリーンを見た。次が最後のボールだ。そう思うと、髙城のサインも涙で見えなくなっていた。
「腕を思い切り振ろう」
最後のボールはインローに決まる137キロのストレート。三振のコールが響くと、三浦は帽子を取り一礼し、その手を初めて膝(ひざ)についた。
投手交代が告げられると、三浦はボールを加賀繁(かが・しげる)に直接手渡し、マウンドを降りた。
「加賀がリリーフカーで出てきたときに、ブルペンにいた投手がみんな手を振っていてね。それが見えたとき……うれしかった。普段はワイワイ言ってても、最後の場面で気持ちが伝わってきて。だから直接、自分の手でボールを渡したいと、篠原(貴行)投手コーチにお願いしたんです。
チームのことは皆に託せます。若い選手も出てきたし、CSを経験することで確実に成長しますよ。高崎(健太郎)や国吉(佑樹)、勝てなかった時代からなかなか結果が出せていない世代も何も感じていないわけがない。監督にエースと指名された山口(俊)も、やるべきことはわかっているはずです。そして、球団の方にもあれだけのセレモニーをしていただけたことは本当に感謝しかないです。僕が憧れたように、若い選手たちが『ああいうふうに送り出してもらえる選手になりたい』と感じてくれたらと思います」
横浜大洋ホエールズ、横浜ベイスターズ、横浜DeNAベイスターズ。25年間、さまざまな時代を経て、三浦大輔は何を受け継ぎ、何を残したのだろうか。
「何も残せたなんて思っていませんよ。三浦大輔はただの一投手です。ただ、この25年間、いろんなチームの形がありました。苦しい時代、他球団の選手に『おまえのところ、大変だな』とよく言われましたが、今は胸を張って『横浜、いいチームになっただろ』と言える。そして何年かたった後、『俺は昔、横浜で25年投げてたんだぞ』って、きっと自慢できる。そんなチームになってきた。そのことが本当にうれしいんです」
●三浦大輔(MIURA DAISUKE) 1973年生まれ、奈良県出身。高田商業高校から91年ドラフト6位で横浜大洋ホエールズ入団。6年目に初の2桁勝利を挙げると、長年ベイスターズのエースとして活躍。オールスター出場6回。昨年まで日本タイ記録の一軍公式戦23年連続勝利。14年から投手コーチを兼任し、今季限りで引退
(取材・文/村瀬秀信 撮影/ヤナガワゴーッ!)