“奇跡のクラブ”を襲った突然の惨事にサッカー王国ブラジルが悲嘆に暮れ、そして今、再び立ち上がろうとしている。
航空機墜落事故によって選手やスタッフの多くを失ったシャペコエンセの“その後”をブラジル在住のジャーナリスト、沢田啓明氏がリポートする!
■「チャンピオンが帰ってきた!」
ブラジル南部にある人口約21万人の小都市シャペコ。住民のほとんどはイタリア系移民の子孫で、温厚で親しみやすい人が多いとされる。
12月3日、シャペコは朝から冷たい雨が降り続いていた。雨脚が急に強まった正午過ぎ、シャペコエンセのホームスタジアム、アレーナ・コンダのピッチに、最初の棺ひつぎが運び込まれた。
「カンペオン、ヴォウトウ!(チャンピオンが帰ってきた!)」
朝7時の開門からスタンドで待ち続けていたサポーターが一斉に立ち上がり、声を限りに歌い始めた。このチャント(応援歌)は通常、かつての強豪が一時の低迷を乗り越えて王座に返り咲いたときに歌われる(今夏のリオ五輪で、近年低迷していたブラジルが初優勝を成し遂げた際にも繰り返し歌われた)。
シャペコエンセは、コパ・スダメリカーナ(南米のカップ戦。コパ・リベルタドーレスに次ぐ重要な大会。欧州のヨーロッパリーグに相当)の決勝にクラブ史上初めて駒を進めながら、晴れの舞台に立つことはなかった。選手たちはこの日、クラブ旗で覆われた棺に横たわり、無言での帰還を果たした。
スタジアムで行なわれた追悼セレモニーでは、クラブを代表してイヴァン・トッゾ会長代理が世界中のサッカー関係者とファンからの激励に感謝し、「選手たちは英雄として旅立ち、伝説となって帰還した」と述べた。「犠牲者に心からの祈りを捧(ささ)げる」というローマ法王からのメッセージが代読され、FIFA(国際サッカー連盟)のジャンニ・インファンティノ会長が「われわれはシャペコエンセのことを決して忘れない」とスピーチした。
この日、最も感動的な瞬間は、セレモニー終了後に訪れた。棺に取りすがって泣いていた遺族たちが、夫の、父の、息子の写真パネルやユニフォームを頭上に掲げ、セレモニー会場として仕切られていたピッチの一角を行進したのである。サポーターは選手ひとりひとりの名前をコールし、拍手を送った。
遺族たちは皆、泣いていた。しかし、どこか誇らしげでもあった。それは、彼らの最愛の人が、かくも大勢の人々から深く愛されていたことを全身で感じたからだろう。
そのとき、GKダニーロの妻レチシアさんが、号泣しながら夫のパネルを掲げ、ピッチを歩き始めた。ダニーロは、PK戦となったコパ・スダメリカーナのインデペンディエンテ(アルゼンチン)戦で相手のPKを8本中4本止めるなど、奇跡的なセーブを連発してチームの危機を何度も救い、サポーターから圧倒的な人気を集めていた選手だ。
ダニーロはいったん病院へ運び込まれて生存が確認されたが、治療を受けている間に容体が悪化して亡くなった。息を引き取る直前、レチシアさんと電話で話し、「短い間だったけど、君を愛せて幸せだった。ロレンゾ(2歳の息子)を頼む」と言い残している。
スタンドから「ダニーロ! ダニーロ!」の絶叫が降り注いだ。彼女が目指したのは、愛する夫が幾多の奇跡を起こした場所だった。ゴールの中に彼のパネルを置くと、短い祈りを捧げた。誰もが泣いていた。取材者の多くも涙を流しながら仕事を続けていた。
家族や友人のような“奇跡のクラブ”
■家族や友人のような“奇跡のクラブ”
1973年創立のシャペコエンセは、100年を超える歴史を持つクラブが少なくないブラジルでは新興勢力。2008年までは州リーグに参加するだけで、全国リーグには属さない無名のクラブだった。
しかし、この年、地元で果物の配送会社を経営する実業家サンドロ・パラオーロ(今回の事故で死亡)が、「将来、南米クラブ王者になる」という無謀としか思えない目標を掲げて会長に就任。精力的にスポンサーを集め、ソシオを増やして着実に収入を増やす一方、下部組織における選手育成に力を注いだ。トップチームには峠を過ぎたスター選手ではなく、実力を備えていて安上がりな選手を獲得して強化を図った。
09年、全国リーグ4部に初めて参戦して3位に食い込み3部へ昇格。12年に3部で準優勝して2部へ上がると、翌年、2部で3位に入って1部入りを果たした。わずか5年で4部から1部へ駆け上がったクラブは世界でも例がない。シャペコエンセは国内では“奇跡のクラブ”と、やがて欧州では“ブラジルのレスター”と呼ばれるようになっていた。
今年は国内の強豪20クラブが参加する全国選手権(1部)で過去最高の9位(第37節現在)。そして、コパ・スダメリカーナでは強豪を次々と撃破して、アトレティコ・ナシオナル(コロンビア)との決勝へ。シャペコの街は大騒ぎになった。
そんな小さな街の小さなクラブが、創設以来最高のステージで戦おうとしていたまさにそのとき、悲劇は起きた。11月30日の決勝第1戦を戦うため、28日午後、チーム一行はサンパウロからサンタクルス(ボリビア)を経由し、チャーター便でメデジン(コロンビア)へ向かった。
だが、飛行機は28日22時15分、メデジン郊外の山岳地帯へ墜落。事故の直接の原因は燃料不足とされており、航空専門家の多くは「そもそも中距離用の飛行機でこのルートを航行するのは無理があった」と指摘している。
飛行機には選手22人、会長ら役員とコーチングスタッフなどクラブ関係者26人、報道関係者21人、乗員8人の計77人が乗っていた。このうち71人が死亡し、生き残ったのは選手3人を含む6人だけ。世界スポーツ史上でも例のない大惨事だった。
犠牲者の中には、Jリーグ経験者が5人いた。09年に神戸を率いたカイオ・ジュニオール監督、05年に柏でプレーしたMFクレーベル・サンタナ、12年にC大阪、13~14年に千葉で活躍したFWケンペス、10年に京都でプレーしたCBチエゴ、昨年、川崎に在籍したMFアルトゥール・マイアである。昨年、福岡に所属したMFモイゼスは、遠征メンバーに入っていなかったため難を逃れた。
ブラジルへ事故の第一報が伝わったのは29日未明。各テレビ局は番組を中断し、以後、続報を流し続けた。
シャペコ市民は大きなショックを受け、悲しみに暮れた。市内でギフト店を経営するセリッタさん(52歳)は言う。
「ここは小さな街で、選手と市民の触れ合いは日常的なの。店にもよく来てくれたわ。だから、突然彼らがいなくなって、自分の家族や親しい友人を亡くしたように悲しい」
市内のすべての学校で授業が中止となり、生徒は帰宅。メンバーの大半を学生と若い労働者が占めるサポーターグループ「トルシーダ・ジョーヴェン」は、有志がスタジアム内に常駐して事態の推移を見守ることを決めた。テントやマットレスを持ち込み、30人以上が寝泊まりしながら、犠牲者のために祈りを捧げ、クラブ歌を合唱した。
30日、試合が行なわれるはずだったアトレティコ・ナシオナルのホームスタジアムは、4万4千人の観衆で超満員に。さらに数万人が外にあふれた。事故の直後から、選手たちは「タイトルはシャペコエンセに」と主張。
この日、レイナルド・ルエダ監督は「われわれコロンビア人はブラジルのサッカーが大好きで、シャペコエンセと今日、ここで対戦するのを楽しみにしていた。悲しみで胸が張り裂けそうだ」と声を詰まらせた。死亡した選手ひとりひとりの名前が読み上げられると、大観衆は「フォルサ、シャペ!(頑張れ、シャペコエンセ!)」と叫び続けた。
■来年8月には“幻の決勝”が実現
事故はブラジルのみならず、世界中のサッカー関係者に衝撃を与えている。
バルセロナ、レアル・マドリードなど欧州のメガクラブは、事故翌日の練習前に黙祷(もくとう)を捧げ、メッシ、クリスティアーノ・ロナウド、ペレ、ジーコ、マラドーナ、ジダンら、新旧のスター選手が追悼のメッセージを発信した。ブラジル代表の10番、ネイマール(バルセロナ)は、直後に行なわれたレアル・マドリード戦、シャペコエンセのユニフォームを手にスタジアム入りした。
日本でも、犠牲者が所属したチームやゆかりの選手を中心に、追悼と連帯のコメントが相次いでいる。川崎はクラブのHPにアルトゥール・マイアの写真を「2015年、彼は川崎フロンターレでプレーした」というポルトガル語のメッセージとともに掲載。また、J1昇格を決めたC大阪の柿谷曜一朗は、かつてのチームメイトについて「僕がここでサッカー選手としてできているのはケンペスのおかげ…」と語っている。
さらにシャペコエンセを具体的に支援する動きも始まっている。チームは選手、スタッフの大半を失った。チームをつくり直す以前に、クラブそのものを再建しなければならないからだ。
ブラジルサッカー連盟は資金面などで支援することを表明。また、国内外の多くのクラブが、無償で選手を貸し出すことを申し出ている。なかには元ブラジル代表MFロナウジーニョ、元アルゼンチン代表MFリケルメといった大物も、無償でのプレーを示唆している。
もっとも、あるクラブ関係者は「個人的な見解だが」と断りながら、「よそのクラブで余っている選手を貸してもらっても、あまり意味がない。また、われわれは地方の地味で堅実なクラブ。スーパースターが来てくれても、街とクラブになじめるかどうか」と、懐疑的な口ぶりだった。
幸いにして、クラブの財政基盤はしっかりしている。残されたクラブ関係者は知恵を絞って再建に向けて努力を続けるだろう。市民もこれまで以上にクラブとチームをサポートするに違いない。
近年、ブラジルをはじめ世界のサッカー界は、FIFAや各国協会の金銭スキャンダル、サポーターの暴力行為や人種差別的行動など、多くの問題を抱えてきた。しかし、今回の事故後、世界中からシャペコエンセに寄せられた有形無形のサポートは、ひと筋の希望の光のようでもあった。
南米サッカー連盟は12月5日、今年のコパ・スダメリカーナの優勝チームをシャペコエンセと認定することを発表した。追悼セレモニーでサポーターが叫んだように、彼らは文字どおり「カンペオン」となったのである。
これにより、シャペコエンセは来年2月に開幕するコパ・リベルタドーレス(欧州のチャンピオンズリーグに相当)の出場権を獲得。また例年、8月上旬に日本で行なわれるスルガ銀行杯で、今年のルヴァン杯王者である浦和と対戦することになった。そして、8月下旬に行なわれるレコパ・スダメリカーナ(欧州のスーパー杯に相当)では、今年のコパ・リベルタドーレスの覇者と顔を合わせる。“幻の決勝”となったアトレティコ・ナシオナルとの対戦だ。
“奇跡のクラブ”を襲った思いもかけない悲劇。しかし、ここで立ち止まるわけにはいかない。「フォルサ(頑張れ)、シャペ!」。カンペオンたちの夢を受け継いで、その挑戦は続くはずだ。
(取材・文・撮影/沢田啓明)