思い出を語り始めたら何時間あっても足りないと語るセルジオ越後氏 思い出を語り始めたら何時間あっても足りないと語るセルジオ越後氏

最後の日本開催となるかもしれないクラブW杯が幕を閉じた。来年、再来年はUAE(アラブ首長国連邦)での開催。以降は未定だけど、昨年からトヨタに代わって中国企業(アリババ)が大会のメインスポンサーになっていることを考えれば、中国開催が有力。もう日本に戻らなくても不思議はない。

前身のトヨタ杯(欧州王者と南米王者が対戦するインターコンチネンタル杯)の時代から、日本サッカーに大きな影響を与えてきた大会だけに、ひとつの大きな節目といえる。感慨深いね。

個人的に強く印象に残っているのは、1981年の第1回大会。あのときの国立競技場の雰囲気は異様だった。今とは大違い。スタンドは満員なんだけど、皆シーンとしていて、シュート場面になって、ようやく「おー」「あー」と声が上がる。真冬で暗い色の服を着ている人が多いこともあり、まるで北朝鮮で試合をやっているような感じ。選手はやりづらかっただろう。

さすがに、それじゃまずいということで、翌年は僕も大会の盛り上げをお手伝いすることに。バックスタンドで両チーム(フラメンゴとリバプール)の小旗を大量に配った。ブラジルのラジオ局のアナウンサーはその小旗が振られる光景を見て興奮し、「皆さん、地球の裏側の日本にもこんなにたくさんフラメンゴのサポーターがいます!」と実況していたね。

また、当時はピッチもヒドかった。芝というよりも土。第2回大会、前日練習で国立競技場に来たリバプールのコーチが「明日の試合会場はどこ? 芝のグラウンドでやるんだよね?」と関係者に聞いたのは有名な話。今では笑い話だけど、ピッチの見栄えをよくするために、緑のペンキで色を塗っていたときもあったんだ。

良くも悪くも役割を終えた…

でも、そうしたヒドい環境でも、世界のスター選手はさすがというプレーを見せてくれた。

81年、フラメンゴのジーコは自らの得点こそなかったものの、チームの3得点すべてに絡んでMVP。85年、ユヴェントスのプラティニも華があった。“幻のゴール”後に、ピッチに寝そべり、頬づえをついて判定に抗議する姿を覚えている人もいるだろう。ほかにも、オランダトリオを擁して89、90年と連覇したACミランや、92、93年と連覇したサンパウロなど素晴らしいチームもあった。思い出を語り始めたら何時間あっても足りないよ。

今ほど欧州にスター選手が集中しておらず、参加クラブのモチベーションも高い。欧州王者と南米王者の一発勝負という大会形式もわかりやすかった。プロリーグのなかった時代の日本にサッカーの魅力を伝えてくれた。七夕みたいに年に一度のお楽しみという感じで、ファンはもちろん、日本リーグの選手たちもたくさん試合を観に来ていた。また、Jリーグができてからも、世界トップのプレーとはこういうものなのかと教えてくれた。

今はテレビやネットで世界中のサッカーを見られる。トヨタ杯も規模を拡大してクラブW杯となり、参加クラブのモチベーション、レベルにもバラつきが生まれ、大会の存続意義にも疑問符がつく。見る側にも以前ほどの新鮮さやワクワク感はなくなった。実際、決勝以外はまるで盛り上がらない。

日本開催でなくなることに一抹の寂しさは覚えるけど、良くも悪くも役割を終えたように思うし、ちょうどいいタイミングなのかもしれないね。

(構成/渡辺達也)