平山相太(ひらやま・そうた)。1985年生まれ、福岡県出身。長崎・国見高校時代に全国高校選手権で史上初の2年連続得点王。その後は筑波大学を中退し、ヘラクレス(オランダ)、FC東京、仙台でプレー。日本代表通算4試合3得点。 平山相太(ひらやま・そうた)。1985年生まれ、福岡県出身。長崎・国見高校時代に全国高校選手権で史上初の2年連続得点王。その後は筑波大学を中退し、ヘラクレス(オランダ)、FC東京、仙台でプレー。日本代表通算4試合3得点。

身長190cmの恵まれた体格を武器にゴールを量産し、“怪物”と呼ばれた平山相太(32歳)が現役を引退した。

今年1月下旬、その発表は唐突で、早すぎる引退を惜しむ声もあるなか、将来は指導者を目指し、4月からは仙台大学に入学するという。

年代別の代表では飛び級で世界大会に出場するなど早熟だったが、近年はケガに悩まされてきた。昨季は11シーズン所属したFC東京を離れ、再起をかけて仙台に移籍。開幕戦の札幌戦でベンチ入りし、交代出場のためライン際で出番を待った。だが、直後に仙台が先制したことで出場は立ち消え、翌日の練習試合で左足首を負傷。その後は公式戦に一度も出ることなく現役生活にピリオドを打った。

「最後ギリギリでピッチに立てなかったのは運命かもしれないですけど、年齢的にも(引退は)今かなと。周囲からはまだできるでしょ? 休めば治るでしょ?と言ってもらいました。でも、年末年始は普通に歩くだけでも足が痛くてもうサッカーどころじゃなかった。Jリーグの開幕戦を見ても、あらためてもうあんなに動けないなと思いました(苦笑)。足が壊れるまでやったので現役への未練はまったくないです」

国見高校時代に高校選手権で挙げた通算17得点は今も大会記録として残る。そして、高校卒業後はプロ入りせず、筑波大学に進学したものの2年時に休学し、オランダ1部リーグのヘラクレスに加入。当時はJリーグを経由しない海外プロデビューと話題になった。本人はこうふり返る。

「大学に行ったのは、そもそもプロになれると思っていなかったから。選手権でゴールを量産できたのは、チームメイトに恵まれた部分も大きかったです。確かに、3年時の選手権はワールドユース(現U-20W杯)の直後だったのでラクにプレーできました。

その大会はブラジルが優勝して、日本は準々決勝で1-5と負けているんですけど、例えばダニエウ・アウベス(現パリ・サンジェルマン)はサイドバックなのに(ドリブルで)何人抜くんだって感じでハンパなかったですから。それに比べると正直、高校生はかなり差がありました(笑)。

ヘラクレスに加入したのは、その後もう一度ワールドユースを経験して、自分がもっと成長したいと思ったから。それに当時、大学に籍はありましたけど、U-20や五輪代表候補の合宿が続いていて半分も授業に行けない状態で、なんのために大学に行ってるのかな、という思いもあったんです」

オランダ1年目のシーズンの8得点は光るが、J1168試合33得点という通算成績には物足りなさもある。それでも、ヘラクレスでのデビュー戦で2ゴール、2010年1月のA代表デビュー戦となったアジア杯予選のイエメン戦のハットトリックなど、節目となる試合では大きなインパクトを残した。

「いつも“つかみ”はよかったんですけど、それが継続できなかったですね(笑)」

印象に残っているゴールについては「1点は1点で、どれも一律」としながらも、09年のナビスコ杯(現ルヴァン杯)決勝で、試合を決める2点目のゴールを挙げたことは「今でもいい思い出」と話す。

 2010年のA代表デビュー戦ではハットトリック。節目となる試合ではいつも大きなインパクトを残した。 2010年のA代表デビュー戦ではハットトリック。節目となる試合ではいつも大きなインパクトを残した。

「それだけは心残りですね」という後悔は…

 「練習が厳しくて入学後すぐに後悔した」という国見高校時代。“怪物”フィーバーを巻き起こした。 「練習が厳しくて入学後すぐに後悔した」という国見高校時代。“怪物”フィーバーを巻き起こした。

高校時代から怪物と騒がれ、メディアに注目された。だが、自他共に認めるのんびりとした性格ゆえか、それが過度の重荷になることはなかったという。

「自分のことが書かれた新聞や雑誌の記事は見なかったですし、自分としては1ミリもそんな感じを出したつもりはなかったんですけど、国見時代に小嶺(忠敏)監督(現長崎総科大付高監督)から『天狗(てんぐ)になるな』と口酸っぱく言われていましたので。

20歳前後の頃は代表合宿などでこっちも話すことがなければ、向こうも聞くことがないのに、なぜか毎日のように記者に囲まれるのがイヤだった時期もありました。作り話でもできればよかったんですけど、そもそも話すのは苦手でしたから。ただ、取材に来る記者が減ってしまうと寂しく感じるもので、そこでありがたみに気づきましたね」

現役時代に一緒にプレーして「この選手はすごい」と思った選手は誰かと聞けば、こんな答えが返ってきた。

「DFなら中澤佑二さん(横浜Fマ)。ヘディングも強いし、その強さを出すだけじゃなく、念には念を入れたような(緻密な)守備でなかなか自由にさせてもらえなかった。FWは10年の代表合宿で一緒になった佐藤寿人さん(現名古屋)。当時から毎年ゴールを量産していましたけど、動きだしがめっちゃ早かった。自分にもあんな動きができていたら、もう少し結果を出せただろうなと思います」

04年のアテネ五輪ではチーム最年少で日の丸を背負い、ワールドユースにも2度(03年、05年)出場したが、プロ入り後に「3大会連続出場を目指す」と目標に掲げたW杯の舞台に立つことはなかった。

「それだけは心残りですね。ブラジル代表が好きで、ロナウドのように若い頃から3、4度続けて出るのに憧れていたんです。10年の南アW杯は一番(出場に)近づいたかもしれないですけど、W杯を目指すならプロに入ってからじゃなく、やっぱり10代の頃から頑張らないとダメでしたね(苦笑)」

3月7日、ルヴァン杯の仙台vs新潟戦では解説者デビューを飾った。今後はあくまで学業優先ながら、可能な範囲で解説の仕事にもチャレンジしたいと話すが、初仕事で難しさも痛感したという。

「緊張もあって、どのテンションで話せばいいのかがつかめませんでした。自分でも何をしゃべっていたのかわからないですし、自己採点は0点です。3月31日のJリーグの仙台vs長崎戦でもう一回チャンスがあるので、そのときには違った形で攻めてみたいです。でも、最初のデキが悪かったので、その次はないかもです(笑)」

規格外のプレーとユーモアのある言動で愛されたキャラクターは今も変わらず。怪物の第二の人生も楽しみだ。

(取材・文・撮影/栗原正夫 写真/共同通信社)