日本を初のW杯に導いた岡野雅行氏。

誰もが頭を抱えて涙した1993年「ドーハの悲劇」から4年後。

日本代表を初のW杯出場に導いた超快速FW・岡野雅行(おかの・まさゆき)が歓喜の瞬間を語る。

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アジアの第3代表を決める一戦となった、1997年11月16日のイラン戦。負ければアジア4位としてオセアニア1位との大陸間プレーオフに回る(当時のアジア地区の出場枠は3.5)緊張感のなか、劇的なゴールを決めた岡野は何を思っていたのか。当時の記憶を岡野本人が振り返る。

実は僕、フランスW杯の最終予選は、このイラン戦の延長しか出ていないんですよ。監督だった岡田(武史)さんからは「おまえは“秘密兵器”だから、敵に存在を知られたくない。ここぞの場面で必ず出番は来る」と言われてたんで。

最後のイラン戦は勝たなきゃいけない試合でしたから、日本が先制して後半の序盤に逆転されたときは、「ここで登場か」と監督の近くをバンバン走ってアピールしました。それで、FWを一気に2枚代えるというから、「キターッ!」って思ったんですけど、城(彰二)と呂比須(ロペス)ワグナーが呼ばれて…。

それで完全にふてくされてたら、城がゴールを決めて同点になった。「もうひとりFWを出すかもしれない」とまた期待が膨らみますよね。でも、同点になってから試合は膠着(こうちゃく)します。

現地まで応援に来てくれたサポーターは「ドーハの悲劇」を経験している方ばかりでしたから、「あのときと同じ展開じゃない?」とか言いながら、ざわつきだしたんです。僕もその異様な雰囲気を感じて、逆に「こんな場面で試合に出るのは絶対にいやだな」と思うようになりました。それからは、アピールなんか一切しないで、岡田さんと目が合わないように隅のほうに隠れていましたよ(笑)。

実は、後半が終わった後の休憩のときに、本田(泰人)さんからVゴール方式だってことを教えられて、初めてその試合のルールを知ったんです。それで怒られていたら、岡田さんから「岡野!」と呼ばれちゃって、「いやいやいや、“秘密兵器”でもここはやめましょうよぉ~」って、心の中で叫んでいました(笑)。ピッチに入ってからは、チャンスを3本も外しちゃいましたし…。本当の地獄でした。

それでも、延長前半が終わったときにはみんなが励ましてくれて。ヒデ(中田英寿)も、「おまえしかいないから」と何度も言ってくれた。僕はヒデと一番呼吸が合ってたんです。

だから、あのときも、「ヒデがボールを持った。じゃあ走ろう」と、本能的に体が動いたんでしょうね。僕が外しまくってたから(最後の場面で)ヒデはシュートを打ったみたいですが、僕がいつもどおりに走ったらGKのこぼれ球が目の前にあった。そんな感じでしたね。

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(取材・文/井川洋一 撮影/ヤナガワゴー!)

岡野雅行(おかの・まさゆき)1972年7月25日生まれ、神奈川県出身。現役時代は「犬より速い」ともいわれたスピードを生かし、浦和レッズなどで活躍。“野人”の愛称で親しまれ、現在はJ3ガイナーレ鳥取の代表取締役GM