プロ野球選手からクリケット選手への転身――そんな記事が新聞やSNSで報じられたのは3月のことだ。もちろん、日本では初めてのことである。
この前代未聞のチャレンジに身を投じたのが、昨年まで西武ライオンズの内野手として活躍していた木村昇吾(しょうご)だというから二重の驚きがあった。 その経緯や決断までの覚悟を聞いた前編記事に続き、パイオニアとなるべく、日本代表を目指しトレーニングに励む木村に成功の可能性、思い描く未来図まで語ってもらった。
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昨年11月末から本格的な活動をスタートさせ、現在は週末を中心に栃木県佐野市にあるクリケット競技施設まで出向いて実技練習を行なう。並行して都内のトレーニングジムでフィジカルの強化にも取り組んでいる。
また、クリケット特有の練習方法として、週に二度ほど郊外にある野球塾の施設に行き、バッティングマシンをショートバウンドに設定し、それを打ち返す練習を行なったりもしているという。
説明が今さら遅れたが、そもそもクリケットとはどんなスポーツなのか?
英国発祥の球技で、それゆえ『ワールドカップ』優勝5度のオーストラリアを筆頭にニュージーランド、インド、パキスタン、スリランカ、南アフリカといった英連邦諸国が世界の強豪国として名を連ねる。中でもインドでは国民的スポーツとして高い人気を誇っているという。
「野球の起源」ともされているように、投手の投げたボールを打者がバットで打つという攻防が競技の軸となっているが、木村の表現では「野球とは似て異なるもの」で、バットもヘッド側が平たい形状に作られている。また、野手はグラブを使わず素手でボールを扱う。
1チーム11人でプレー。守備の布陣は、野球でいうところの投手が「ボウラー」、捕手が「ウィケットキーパー」と呼ばれ、残りの9人が「フィールダー」(野手)としてフィールド内に配置される。
打者の呼称は「バッツマン」。野球との大きな違いは、インフィールドが打者からの視点で90度の扇型である野球に対して、クリケットは360度、つまり打者を中心とした円形に設定されている。その全方向どこに打ってもいいということで、野球でいうファールがない。
そして、4つのベースもない。投手の後ろと打者の後ろに「ウイケット」と呼ばれる柱が立てられ、打者は打った後に投手側のウイケットに向かって走る。打球がグラウンドの境界線を越えたり、転がる間に打者がピッチ上を走ることで得点が入る。
3ストライクなどのカウントもなく、投手の投げた投球が打者の後方に立てられたウイケットに当たればアウト。そのかわり、ウイケットに当たらなければ何回空振りしてもアウトにはならない。そして、10アウトか規定投球数を超えると攻守交代となる。
…と、ざっくり書いてはみたものの、言葉で説明するだけではなかなかルールや動きをイメージするのが難しいだろう。そこは現場でのナマの観戦をオススメしたい。
木村自身、まだ試行錯誤しているところはだいぶある。「やっぱり野球を30年やってきたんで、スイングのクセがなかなか抜けないんですよ」…そう言って苦笑する。
今まではワンバウンドするフォークボールや外に逃げていくスライダーをどう見極め、バットを出さずに我慢するのかという勝負をしてきた。ストライクゾーンもルールも違うクリケットでは、そういったボールにも対応する必要がある。
自分がやってきた野球に誇りが持てた
投手のレベルが高くなると、バウンドさせたボールに変化を付けるような技術も持っているという。ワンバウンドだけでなく、野球なら避けていた身体にぶつかりそうなボールも打ち返さなくてはならない。
そうなると、これまでの野球のスイング軌道ではボールを捉えにくいし、ステップして右足を踏み込んでいくタイミングやトップの位置などクリケット仕様に修正していく必要がある。
「新しいことだし、できないこともあるけど、自分の中では伸びしろしかないですね。野球をやってきたことの強味がメチャメチャあるんで」と楽しそうに言う木村を見て、クリケット関係者も「進歩のスピード、上達のスピードがとんでもなく速い」と驚いている。
練習を始めてまだ間もない頃、木村が慣れるようにと、日本代表クラスの投手(ボウラー)たちが打撃投手のような形で代わる代わる投げてくれたことがあった。2時間、3時間と打ち続けていると、彼らが自信を持って投げたボールを木村がいとも簡単に打ち返してしまうようになった。そのたびに彼らは驚いて「なんでできるんですか?」「そのボールが打てるんですか?」と不思議そうな顔で聞いてきたそうだ。
だが、答えようがない。それは、木村にとって“できてしまう”ことだから。「だって、やってきたことだもん」と本人はまた笑う。
他のクリケットの選手たちよりも、単純にバットを振る力はあるはずだ。そういう面で突出したものがあったからこそプロ野球選手になっている。ましてや子供の頃、野球はクラスで一番運動神経の良い子がやるスポーツだった。それが小学校、中学校、高校とどんどんふるいにかけられ、淘汰されずに生き残った選手がプロ野球という世界に集まってくる。そこで15年以上も生きてきた。
「教えてもらったことを『こうだな』って自分の身体を使ってやってみる。そういう表現力というか、再現能力がすごく必要とされるのが野球だと思うんです。それをずっとやってきたんで。それも日本の中で一番高いレベルのプロ野球という場所で。『こうだよ』って教えてもらったことを自分の感覚で『こうかな、ああかな』ってやってみて、形にしてこなしていくことができないといけない世界でしたから」
あらためて自分がやってきた野球というスポーツに誇りが持てたという。
クリケットには「ガード」といって、打っても間に合わない(アウトになってしまう)と判断した場合、「ノー」とコールすることで打ち直しができるルールがある。野球のように打ち損じてサードゴロやショートゴロになっても、打った瞬間に「ノー」とコールして走らなければ何回でも打ち直すことができるのだ。
もちろん野球でそんなことをしたことがないだけに初めは戸惑った。だが、そもそも他の選手たちが打つのが難しくてガードしているボールを木村は普通に打ち返してしまう。そういう姿を見て、若い選手などは尊敬の念すら抱くようになっている。向こうから見たら、元プロ野球選手――元々、どこかに憧れもあっただろう。
選手たちは木村に対して敬語。木村も自分の息子くらいの年代になる大学生の選手を「先生」と呼ぶ。そういう距離感の中で冗談も言い合ったりするようになっている。そもそも野球界とは違い、上下関係のあまりない社会らしい。「それもなんか新鮮で」と木村は目を輝かせる。溶け込む早さや、人間性の部分も当初、クリケット協会から話があった際、名前が挙がった理由なのだろう。
海外トップ選手の年収は30億円超
3月、日本代表強化選手団の選考会に招集を受け、代表候補に選出された。「代表チームでも十分に活躍できるほど、打撃でも守備でも、あらゆる面で能力が突出している」とクリケット関係者の期待は大きい。
日本のクリケットはまだ発展途上だ。4年に一度、開催される『ワールドカップ』や『ワールド・トゥエンティ20』といった世界大会への出場経験もなく、競技者人口は3千人に満たない。国内にクリケットのプロリーグはなく、大学のクラブ活動でプレーしてきた選手たちが、就職後も仕事の傍らに所属するクラブなどで練習し、試合に出場するような状況だ。おのずと練習時間も限られてくるし、環境にも決して恵まれてはいない。
「僕にオファーをしてくれた人の“想い”というのも背負っているつもりです」と木村は言う。この競技の普及のために自らが広告塔になる覚悟も持っている。プロ野球選手時代には「僕なんかがおこがましい」とメディアに出るのをあえて避けた時期もあったが、今では取材があると聞けば喜んで受け、アピールする機会があれば積極的に出て行く。
「今、取り上げられるのは一過性のものだとしても、これはチャンスですから。『へぇー、木村がやってるんだ』といってインターネットで検索してもらえるだけでもいい。だから僕もインタビューされたらちゃんと自分の想いを伝えてもらって、ひとりでも多くの人に知ってもらいたい。そうやってクリケットが知られることで、いつかプロ化への道が広がるかもしれない。だって、これだけ世界の裾野が広いスポーツなんですから」
その先に見据える目標はオーストラリアやインドといった海外プロリーグへの挑戦だ。例えば、クリケットの世界最高峰プロリーグであるインドのIPL(インディアン・プレミアリーグ)。ここでのトップ選手の年俸を含めた年収は30億円を超えるという。
ただ、海外のプロチームにはトライアウトのようなシステムは存在しないらしく、まず向こうからスカウト、オファーを受けることが第一条件になる。そのためには、日本で待っているだけでは心許ない。自ら武者修行のような形で海外に出て行くということも視野に入れている。
「その時にもちろん日本クリケット協会のコネクションを使って行くことになると思うのですが、海外に行って『アイツはどんなヤツなんだ?』と聞かれた時に、プロフィールを見たら“元プロ野球選手”とある。『ほぉ面白いじゃないか』と興味を持ってもらえるかもしれないでしょう。僕って、転んでもただでは起きないぞという人間なんですよ」
そう言って、また豪快に笑う。そこには、やはり野球への“想い”もある。
「僕から野球は抜けないんで。捨てることとかは絶対にできない。木村昇吾という人間を野球が作って、野球があったからこそ、ここまで生きてこられた。そのおかげで次にクリケットからオファーがあり、クリケットをやるということは野球を生かしているわけですから。やっぱり僕はプロ野球選手なんです」
木村の公式サイトには、こんな言葉が綴(つづ)られている。
「プロ野球を経験した木村昇吾としてクリケットからのオファーをいただいたので野球には感謝してもしきれない。『野球選手は違うんだな』と言われるほどクリケットで活躍すれば、クリケットはプロ野球だけでなく、アマチュアで野球を断念した選手にとってもアスリートとして新たなステージを目指せる競技になると思う」
この挑戦が成功すれば、昨今、取り沙汰されることが多いプロ野球やスポーツ選手のセカンドキャリアについても、ひとつの大きな道標になるはずだ。
先駆者となるべく木村は走り続ける――。
(取材・文/矢崎良一 写真提供/ココカラネクスト)