ギギギッ、ガガガッ―。
不気味な機械音を響かせ、30年以上にわたり新日本プロレスを縁の下で支え続けた名バイプレーヤーが、ひっそりとリングから去る。
スーパー・ストロング・マシン。
恵まれた肉体と確かなテクニック、そして時折、マスクの下から見せる人間味が多くのファンの心をつかんだ。
近年は古傷の悪化もあり、2014年4月を最後に丸4年もリングから離れていたが、このほど6月19日の後楽園ホール大会で引退セレモニーを行なうことが発表された。
引退を決意した背景にはどんな思いがあったのか。
「本当は生涯現役でいたかった。リングの上で死ねたら本望と思ってましたけど、そんなことしたら迷惑かけるし(苦笑)、体も満足に動かないなか、ケガをごまかしながら試合をするなんてことは新日本のリングではあっちゃいけないんです」
新日本のレスラーとしてのプライドをのぞかせるマシンだったが、引退セレモニーを行なうかはかなり悩んだ。
「会社から話をいただいて、やるかどうか1ヵ月くらい考えました。ここ数年は新人選手のコーチなどをしていたんですが、その契約も今年の1月で終わったので、ここで一発ケジメをつけようかなと。ダラダラと道場に来ていたら自分自身ダメになると思ったし、だったらファンの皆さんにちゃんと最後の挨拶をして、第二の人生に向かおうと」
* * *
■パートナーを輝かせる二番手人生
後にマシンとなる“男”は、78年5月13日に新日本プロレスに入門した。ちょうど40年前のことだ。
「少年時代からプロレスが大好きで、テレビの前に正座して身震いしながら見ているようなプロレスバカでした。俺の人生はこれしかないと思って、手紙で入門を直訴したんです」
84年、カルガリー(カナダ)での修業中、会社から帰国命令を受け凱旋(がいせん)。将軍KYワカマツ率いるマシン軍団の一員としてストロング・マシンに変貌を遂げるわけだが、実は当初はマシンではなく、当時、人気絶頂のマンガ『キン肉マン』のキン肉スグルになる予定だったという。
「個人的には絶対、イヤだと思ってました(苦笑)。カナダではインディアンに扮(ふん)して試合もしてましたし、若かったんでなんでもやってやろうという気持ちはあったけど、さすがにキン肉マンはイメージが違うんじゃないかと……。筋肉があるわけでもなかったし」
それでも一度はキン肉マンになることを決意する。
「悩みに悩んで、あるとき、行きつけのスナックのマスターに相談したんです。そうしたら『それは会社があなたに期待しているってことだから、一回やってみたら?』って言われて。それでようやく気持ちが傾いたんですが、数日後、大人の事情で話自体がボツになって(苦笑)」
楳図かずおのマンガをベースにマスクのデザインは自分で決めた
キン肉マンは幻となったが、このとき、マスクをかぶる“快感”を知ることになる。
「初めてマスクをかぶったとき、自分が変わる感覚があって。シフトチェンジというか、表情を隠すことで不思議と別なものが出てくる。キン肉マンはイヤだったけど、これは面白いと思って、今後はマスクマンでいこうと決めました」
幼いときに読んでいた楳図(うめず)かずおのマンガ『笑い仮面』をベースにマスクのデザインは自分で決めた。
「叩かれても蹴られても笑っているイメージですね。顔全体がすっぽり覆われた、それまでにはない画期的なマスクでした」
どんな大技や必殺技を受けても平然と立ち上がってくる不気味な存在感。それがマシンの真骨頂だった。
「いや、マスクの下ではだいぶ苦しんでいたけどね(笑)。マスクをかぶると表情がわからないという人もいるけど、マスクマンでも表情は出せるんです。(獣神サンダー)ライガー選手なんてそうでしょ。しぐさも含め、喜怒哀楽を全部出せる。そこがマスクマンのすごいところなんです」
試合にダイナミズムを生む巧みな表現力と技受けのうまさは、同業のレスラーたちからも高い評価を受けていた。マシン軍団に始まり、カルガリー・ハリケーンズ、烈風隊、ブロンド・アウトローズ、レイジング・スタッフ、魔界倶楽部、ラブマシンズ、青義軍などさまざまなユニットに参加し、存在感を示してきたことが、その何よりの証拠だろう。
「これだけたくさんのユニットに参加したプロレスラーって、俺しかいないんじゃないかな。いろんな選手と絡めて、思い出はいっぱいですよね」
ただ、どのユニットでも主役になることは決してなく、常に引き立て役に回った。
「そこはね、割り切ってました。自分はタッグ屋だし二番手でいい。それが俺の役目、神様に与えられた役目なんだと。そりゃトップにもなりたかったけど、プロレスの世界は“自分が、自分が”だけじゃダメなんです。一歩引いて、パートナーやグループを引き立てるヤツがいないとチグハグになる」
言葉からにじみ出るのは、果てしないプロレス愛と二番手としてのプライドだ。
「例えば俺が橋本真也選手と組んでいたとき、彼はずっと後輩で、すでにトップ選手だったけど、もっともっと彼を持ち上げてやろうと思ってやってました。そういった人間がいないとプロレス界は発展しないんです。そういう役割を背負ってきたことに後悔はないですし、自分では誇りに思ってます」
「お前、平田だろ!」事件と「しょっぱい試合でスミマセン!」発言の真相
■「蝶野とはガチで毎日、もめてました」
マシンといえば今なお、ファンの間で語り継がれる“伝説”がある。まずはプロレス史に残る「お前、平田だろ!」事件だ。
85年5月17日、熊本県立総合体育館大会において、マシンは試合に乱入したワカマツから藤波辰巳を救出したのだが、あろうことか藤波から「お前、平田だろ!」とその正体を明かされてしまう。このタブー破りに怒ったマシンはマスクを脱ぎ捨て、タオルをかぶって会場を後にした。
「後でどこかの雑誌のインタビューを見たら、藤波さんが『言うことが出てこなくてついつい言ってしまった』と(笑)。当時は俺も頭にきてマスクを取ったわけだけど、それも全部アドリブですからね」
実はこの話には後日談がある。マシンは東京に戻るとすぐにアントニオ猪木・藤波組とタッグで激突。この試合後、今度はマシンが仕掛けた。
「また藤波さんが何か言ってくるのかなと思っていたら、意外にも猪木さんがマイクを持って『おい、平田!』と言ってきた。そこで俺がマスクのひもをほどいたもんだから、観客も大盛り上がり。で、マスクをスポッと脱いだらその下にもう1枚、同じマスクをかぶっているという(笑)。藤波さんがポカーンとしていたのと猪木さんが“やるな、こいつ”って表情でニヤッと笑ったのがすごく印象的でね。ざまあみろって(笑)」
もうひとつ、マシンで忘れられないのが94年10月、SGタッグリーグでの「しょっぱい試合でスミマセン!」発言だ。
シリーズ前からマシンは蝶野正洋にタッグ結成をもちかけるが、蝶野はこれをことごとく拒否。結局、社命によりタッグを組むことになったが、乗り気でない蝶野の傍若無人な振る舞いに、ふたりは試合のたびに仲間割れ。それでも奇跡的に決勝戦へと駒を進め馳浩(はせ・ひろし)・武藤敬司組と対戦するのだが、ここでマシンの堪忍袋の緒が切れた。
「あのときは毎日、蝶野とガチでもめてました。蝶野の身勝手さも自分は我慢して、これもプロレスラーの仕事なんだと自分を抑えていたんですが、決勝の最後の最後に“ふざけんな、この野郎!!”ってブチ切れたんです」
蝶野のタッチ拒否や救援に入ろうとしない態度にマシンは激怒。蝶野にラリアットを見舞った後、自らマスクを脱いで投げつけると、会場からは尋常でないほどの大「ヒラタ」コール。素顔で感情を爆発させる姿に、ファンは狂喜乱舞した。
結局、素顔をさらしたマシンはフォール負けを喫するが、この試合の主役は最後までマシンだった。
「試合後、リング上で馳と武藤がマイクアピールしているんだけど、お客さんはみんな場外で伏している俺に注目して誰も聞いてない(笑)。そしたら武藤が突然、小声で『平田さん、何かしゃべったほうがいいですよ』って。えっ、俺がしゃべるの!?ってなって…」
だが、あまりに突然振られたため、言葉が出なかった。
「それで『しょっぱい試合でスミマセン!』って言っちゃったんです。あれは、あの日の試合というよりかは、タッグリーグ戦で毎日もめてしょっぱい試合をやりながら決勝まで来て、最後も俺がやられてしょっぱいという…だから、心から出た言葉でしたね。会社の人間からは『なんであんなこと言ったんだ!』って怒られたけど、別に気にしなかったです」
(取材・文/石塚 隆 撮影/村上庄吾)
●スーパー・ストロング・マシン 84年9月のアントニオ猪木戦でデビュー。マシン軍団からカルガリー・ハリケーンズ、ブロンド・アウトローズ、魔界倶楽部、青義軍などさまざまなユニットに参加。14年を最後にリングを離れ、18年、引退を発表