昭和から年号が変わった年に誕生し、平成という時代を生きた子どもたちが30歳を迎える。その顔ぶれを見渡すと、スポーツ、エンタメなど各界の第一線で活躍する"黄金世代"だった!
社会は阪神淡路大震災やオウム真理教事件など世間を震撼させた災害や事件が続き、ゆとり世代として教育改革の狭間に置かれ、ある意味で暗い時代を生き抜いた――そんな彼らの人生を紐解くインタビューシリーズ。
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あいにくの空模様にもかかわらず、第4回のゲスト・狩野舞子は屋外での撮影に快く応じてくれた。185センチの彼女が街にたたずむ姿は、行き交う人々にはファッションモデルのテストシュートに映ったかもしれない。
梅雨入り直前の東京・銀座。五月雨に濡れた紫陽花(あじさい)の前で狩野は足を止めた。「ここでいいですか?」――ふり返り、レンズを見つめる彼女は果たして知っていたのだろうか。紫陽花の花言葉が「辛抱強さ」であることを。
「今は、次に何をするか模索中の時期ですね。(PFUブルーキャッツで)全力でバレーボールをやり切ったので」
元バレーボール日本代表、狩野舞子。V・プレミアリーグの強豪、久光製薬スプリングスやバレー王国イタリア・セリエA1で活躍し、ロンドン五輪にも出場。取材に応じてくれたのは、PFUから現役引退を表明してから1ヵ月後のことだった。
「今回は完全に引退です」
彼女が"今回は"と強調したのには説明が必要だろう。2015年6月、狩野の久光製薬退団は「現役引退」という言葉と共に報道された。1年間競技と離れた狩野が「やっぱり、最後にバレーをもう一度全力でやりたい」と復帰先に選んだのがPFU。
復帰の可能性は残っていないのか、あるいはビーチバレーへの転向は? ――先の報道を知るバレーボールファンであれば、"引退"の二文字を見てもなおこう問いかけたくなるのは当然である。"完全に"という言葉に、そうした野暮な質問を制する意味をくみ取るのは考えすぎだろうか。
V・プレミアリーグ優勝6度を誇る強豪、そしてイタリア、トルコでの海外リーグを経た狩野は、現役最後の場として昇格を果たしたばかりの石川県のクラブを選んだ。
「PFUには10歳年が離れた選手もいたので、『まずはコミュニケーションを取らないといけないな』と思って積極的に話すようにはしていました。入団時点で最年長だったので、若い選手からしたら"口うるさいおばちゃん"だったんじゃないかな?」
時折ユーモアを交えつつふり返る狩野の語り口は、試合中継から伝わるクールビューティーな印象とはずいぶん異なる。引退後始めたというインスタグラムでは、写真に添えられたコメントのテンションの高さから「これ、本当に狩野さんですか?」と尋ねられることも少なくないらしい。
両親、姉が競技経験者というバレーボール一家で生まれた狩野舞子。幼少期から恵まれた体躯(たいく)を持つ彼女だったが、才能の開花までは少々時間を要した。
「家族がみんなバレーボールをやっていたので、小さい頃から練習や試合を目にする機会は多かったんですが、親に『バレーボールをやりなさい』って強制された覚えはありません。姉の練習を見ていて、『楽しそうだな』と思ったのが競技を始めるきっかけで......『絶対バレー選手になる』と思ったことはないですね」
バレーを始めたのは1998年、小学4年生。東京湾アクアラインが開通し、サッカー日本代表がW杯出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」に日本中が沸いていた。
「普段、年が離れた姉と接していたこともあって、幼少期はちょっと大人びているというか、生意気だったと思います。当時、よくやっていた遊びはセーラームーンごっこですかね、ビーナスが好きでした」
セーラービーナスといえば作中屈指の人気キャラクターだが、長身の狩野であればジュピターのほうがしっくりくるのでは? 少し意地悪な問いに、狩野は大きく頷(うなず)く。
「そう。いつも『舞子はジュピター役やって』って言われてました。それでも、絶対、ビーナス」。そう力強く言い切る狩野に、"生意気"の片鱗が見えた気がした。
「(中学入学時に)173センチあったんですが、当時はヘタでした。でも、中学校で指導者に恵まれて、日々いろんなことを吸収してぐんぐん上達しました。一番大きかったのは、スパイクだけじゃなくてレシーブの基礎を叩き込んでもらったことですね」
ウイングスパイカーとして鳴らした狩野の基礎が「守備」にあるとは意外な話だ、とメモを取る手を止めると、「今でも守備のほうが好きなんですけど」と彼女は続けた。
「それまでもそれなりに動けたんですが、フィジカルに頼ってた部分もあるのかもしれません。......ちょっと違うな、これ、少し書き直してもいいですか?」
インタビューと並行して、自身の半生を折れ線の上下で表した「ライフグラフ」をゲストに書いてもらう、というのが本インタビューシリーズの恒例である。
90年代をふり返りながらペンを走らせる狩野は、何度も修正を繰り返す。書いては消し、を数回経てじわじわと上昇するグラフが、高校入学後に急激に下がった。
「高校1年生の最後に、腰のケガをして。引退するまで悩み続けたんです。」
2005年。16歳での急降下の理由を狩野はそう淡々と説明した。この少し前、彼女はアテネ五輪の代表候補に選出されるも、腰痛が原因で代表入りを惜しくも逃がしている。
「けっこう難しいな。どうしよう、すごく細かくなっちゃう。点線とかでもいいですか? (手書きのライフグラフが)そのまま掲載されるわけじゃないですよね」
ライフグラフを書き入れながら、狩野は何度も確認した。かなりの几帳面でもあるらしい。正直にそう感想を述べると、
「面白くしたほうがいいかな、と思って」
グラフから顔を上げ、あっけらかんと答える狩野。そして「腰のケガは、いつだったかな」とつぶやいた。高校1年生、引退するまで狩野を苦しめ続けた腰のケガ。しかしこれは、度重なるケガによって辛抱を重ねたバレー人生の、ほんの始まりにすぎなかった。
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後編⇒平成という時代を生きた30歳に独占直撃!【さらば平成!第4回】元バレー日本代表・狩野舞子「ケガもバレーの神様からのメッセージ」
●狩野舞子(かのう・まいこ)
1988年7月15日生まれ、東京都出身。バレーボール元女子日本代表。八王子実践高校を経て2007年久光製薬スプリングス入団、ウイングスパイカーとして活躍。12年ロンドン五輪代表として銅メダルを獲得。イタリア・セリエA1、トルコリーグ1部などでのプレーを経て、16年PFUブルーキャッツ入団。18年PFUを退団し現役引退。公式Instagram【@kanochan715】