1980年代前半、アントニオ猪木を凌ぐドル箱レスラーとなったタイガーマスクは、なぜ2年4ヵ月で引退したのか? UWFにおける前田日明との"不穏試合"では何が起きていたのか? 世界に先駆けて総合格闘技を創ったが、その功績が世の中に知られていないのはなぜなのか?
初代タイガーマスクこと佐山サトルには、多くの謎がある。その真実に迫ったノンフィクション『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(田崎健太・著)が話題だ。
芸人であり、『藝人春秋』シリーズをはじめ優れたノンフィクションの書き手でもある水道橋博士氏が、佐山氏、田崎氏に本書の製作秘話を聞き、佐山氏の素顔に肉薄する――。
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博士 田崎さんが『真説・長州力』(2015年)に続き、新たな「真説」を書いた。魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)するプロレスの世界に、きちんと裏を取るなどノンフィクションの正攻法で挑む......そこにはプレッシャーもあったと思いますが、2年半にわたる取材を振り返ってみて、いかがですか?
田崎 最後まで面白かったですよ。佐山さんにはプロレスラーとしての人生と、総合格闘技を創始した人生、ふたつの人生があって、取材していくうちに新たな謎も出てきて刺激的でした。
博士 タイガーマスクを脱いで素顔になり、リアルファイトを志した時代のほうが、むしろ「小説的」な印象がある。なぜなら本書が出るまで、多くの関係者が総合格闘技の黎明期を語ってきたけれど、佐山さん自身はほとんど語ってこなかったから。
佐山 プロレスと格闘技には異なる文化がありますが、両方とも守らなくてはいけないので、しゃべっちゃいけないことがあるんです。田崎さんが書いたこの本は、業界の専門誌には書けないものですよね。いろんな映像も残っているし、将来僕が死んだあと、全部明かされるんだろうとは思っていましたが、今回それを全部暴いてくれました。
博士 『真説・長州力』のときもそうでしたが、プロレスマスコミが書くものと、ルポライティングの手法で書くものは違う、ということがよく言われますよね。
田崎 僕は部外者なので、プロレスや格闘技に対する先入観なしに、好きに書ける。本当に、佐山さんにはゼロから何度もしつこく聞きました。
博士 佐山さんには「極右的」とか「キレやすい」とか、さまざまな尾ひれが付いて、触れてはいけないというイメージがありましたよね。
田崎 確かに、「怒らせたら恐い人」っていう印象はありました。取材で何を聞いても、一度も怒ることはなかったんですけどね。
佐山 恐い人間だと思わせておいたほうがいいんじゃないかっていう戦略があったんですね。この業界にはいろんな人間がいるので、ナメられてはいけないし、理不尽な圧力に屈してはならないですから。
博士 不良から同級生を守るなど、少年時代から正義感が強かった。正義を貫くために武道を修め、力を身に付けるという考えは昔から徹底されているんですね。
佐山 そうですね。強さだけでなく、人格を備えた人間を育成する武道を作りたいというのは、ずっと変わりません。
博士 本書の最後に息子さんが登場します。格闘技の道には進みませんでしたが、佐山さんは修斗を作った理由のひとつとして、息子さんにそういった武道的精神を学んでほしいという思いがあったと語っています。
佐山 やはり周囲から「タイガーマスクの息子」と見なされて育ってきたと思うので、それを一切抜きにしてひとりで生きていく強さを持ってほしいと思いますね。
博士 田崎さんの作品の特徴として、生まれ育った地域や家族のことを緻密に取材していきますよね。
田崎 生まれ育った環境は、特に十代の頃は、後の人生に大きく影響すると考えます。だから、佐山さんにお兄さんの電話番号を教えてもらって、すぐに地元の山口県下関に飛んで、佐山家のルーツから調べ始めました。
博士 お父さんは戦争に行って、シベリアに抑留された。家族の歴史に戦争が含まれると、物語はドラマチックになっていきますよね。
佐山 命からがら内地まで戻ってきたとか、そういう話は僕も全く知らなかったです。
博士 人の生き死にを体験した人間には、子供に託す何かがあるんでしょうね。
田崎 それはあるでしょうね。お父さんは戦地で多くの仲間を失い、最初の奥さんを病気で亡くして、多くの死に直面してきた。そして再婚して生まれた子供が佐山サトルだった。多くの愛情を注いだだろうし、期待もしていたでしょうし、この部分はしっかり書かないと、というのはありました。
博士 最初はミル・マスカラスに憧れて、一直線にプロレスの世界に。高校を辞めて地元を飛び出すっていうのは、なかなかできることじゃないですよ。
佐山 「純粋」をひっくり返すと「馬鹿」になると思うんですけど、馬鹿だったんでしょうね。今考えると、よく行ったなと思いますね。
田崎 プロレスラーと芸人には共通点があると思うんです。芸人は面白いだけじゃダメだし、レスラーも強いだけではダメ。華とかカリスマ性とか、成功する人にはいろんな価値があるじゃないですか。その点でいうと佐山さんは、タイガーマスクになる以前のメキシコやイギリス遠征時代から、凡庸なレスラーにはないものを備えていた。佐山さん自身はそのことをなんとも思っていないというのが、面白いところなんですけど。
佐山 いやいや、最近思い始めました。
田崎 最近?(笑)
佐山 よく講演をやっているのですが、そこでタイガーマスクの映像を流そうと思って、ビデオを自分で編集してみたんです。そしたら、すごいなこれはと。ビックリしました。
博士 もともとの卓越した運動神経もあるんでしょうけど、誰もやったことのない動きを次々と発明していった。タイガーマスクのスタイルは、佐山さんの脳内から湧き出たものなんですか? それとも、マスカラスなどの動きをアレンジしていったんですか?
佐山 あるときから完全オリジナルになっていきましたけど、最初はアレンジもありましたね。たとえばタイガーマスクのステッピングは、マスカラスもやっていたし、モハメド・アリもやっていたし。
博士 なるほど、モハメド・アリの影響も。タイガーマスクは多彩な蹴り技も特徴でしたが、若手時代からキックボクシングの目白ジムに通い、本格的な蹴りに目覚めていきましたね。
佐山 当時の新日本プロレスは自分たちが一番強いと思っていた。藤原(喜明)さんたちとセメント(組み技のスパーリング)をやるわけですけど、もっと強くなるためには何が必要かと考えたら、組み技に行く前には立ち技がある、蹴りが必要だと考えたんですね。
博士 最強を目指していたからこそ、柔軟に他の競技を取り入れていったわけですね。
佐山 あの頃、猪木さんの言葉に「市民権を得たい」というのがありました。色眼鏡で見られているプロレスが市民権を得るためには、従来のプロレスとは別に、新日本プロレスの中にもうひとつの競技を作ればいい、と僕は考えていたんです。
博士 プロレスはプロレスの世界観が確立されていて面白いけれど、市民権を得るために新たなジャンルを作って真剣勝負をやればいい、というわけですね。
佐山 猪木さんにこの考えを話したときに、「お前を新日本プロレスの第一号の格闘技選手にする」と言われて、馬鹿だからその言葉を信用して、のめりこんでいったんです。
田崎 そこでキーとなった人物が、今ではほとんど忘れられた存在なんですが、イワン・ゴメスというブラジル人格闘家です。新日本がブラジル遠征をしたときに、ゴメスが猪木さんへの挑戦者として名乗り出たんですけど、新日本は挑戦を避けて、彼を入団させた。ゴメスはバーリ・トゥードの強豪で、グレイシー一族のライバルだった。新日本のレスラーにはない技術を持っていたんですが、新日本の道場でその優位性に気づく人はいなかった。佐山さんはそのあと、総合格闘技を創っていく中でゴメスの教えを思い出していったんです。
博士 日本の裏側にも、自分たちこそ世界最強だと思っている人間がいた、と。
佐山 ゴメスはブラジルでの試合の写真をたくさん見せながらいろいろと教えてくれました。当時は気づかなかったんですが、彼はバーリ・トゥードにおけるポジショニングの重要性を説いていたんです。
田崎 ゴメスとの練習で、佐山さんはバーリ・トゥードを知った。それから約20年を経て、修斗でバーリ・トゥードの試合を行ない、弟子の中井祐樹さんは日本におけるブラジリアン柔術の第一人者になっていった。佐山さんの周囲にはいろんな縁があって、それが全部繋がってくるんですよ。
博士 佐山さんの周りにこぼれ落ちた砂礫(されき)を拾い集めて光を当てたい、と田崎さんは書いているけど、まさにそういうことですね。ゴメスはなんのために日本に来て、何を伝えたのか......90年代にバーリ・トゥードが本格的に日本に上陸して、佐山さんの修斗がそれを迎え撃った。そして、この本で再びゴメスに光が当たる、というね。
佐山 うれしいですね。ゴメスがブラジルに帰国するときは、悲しくて泣きましたからね。
■この続き、後編は明日(8月17日)配信予定!
■『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』
集英社インターナショナル 2400円+税
●佐山サトル(さやま・さとる)
1957年、山口県生まれ。74年、新日本プロレスに入門、海外修行を経て81年、タイガーマスクとなり一世を風靡。UWFを経て、総合格闘技を創始し、85年、「シューティング(修斗)」を創立。『バーリ・トゥード・ジャパン』の成功で軌道に乗るも、後に離脱。99年、「市街地型実戦武道・掣圏道」を創始。2004年、掣圏道を「掣圏真陰流」と改名。05年、「リアルジャパンプロレス」を設立、初代タイガーマスクとしてリングに上がっている。16年、日本精神文化の原点回帰を目指して「一般社団法人日本須麻比協会」を設立
●水道橋博士(すいどうばし・はかせ)
1962年、岡山県生まれ。ビートたけしに憧れ上京するも、進学した明治大学を4日で中退。弟子入り後、浅草フランス座での地獄の住み込み生活を経て、87年に玉袋筋太郎と漫才コンビ・浅草キッドを結成。幅広い見識と行動力から守備範囲は芸能界にとどまらず、スポーツ界、政界、財界にまで及ぶ。『藝人春秋』シリーズなど著書多数
●田崎健太(たざき・けんた)
1968年、京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。99年末に退社し、ノンフィクション作家に。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』、『ザ・キングファーザー』、『球童 伊良部秀輝伝』、『真説・長州力 1951-2018』、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』、『ドライチ ドラフト1位の肖像』など